ロジェ・レドーネの残影

白沢悠

半端者たち

 重い扉を押すとすきの闇から濃いちしゅうが滲み出る。ほとんど倒れ込むように体当たりすると扉はすでに壊されていたらしい金具の悲鳴と共にひどく簡単に開いた。

 朝の光が細く差し込む石の床は赤いじゅうたんで塗り替えられている。ほこりがちらつくよどんだ空気は血の臭いに汚染されていた。青年は吐き気をこらえながら扉をくぐる。おそるおそる踏み出した足元はねばつく液体にひたされて、体重を預ければ靴底が砂を噛む。暗さに目が慣れても、あちこちに横たわる血と泥にまみれた物体の認識を頭がこばむ。

 彼が連絡役として所属していた抵抗勢力の隠れ家はたった一晩で全滅させられた。ぼうぜんとしたまま、かろうじてそれだけを理解する。

「――遅かったか」

 扉の方から、吐き捨てる声がした。外からの光を遮った影は暗い部屋の中へ踏み込んでなお黒かった。角がないから人族だろうか。黒髪に黒しょうぞく、腰に下げた剣の柄とさやまで黒い。何かを主張するようなそので立ちは敵にも味方にも心当たりのないものだ。

「あなたは?」

「キール、でいい。あんたはイオ・エニングスのせがれだろう」

 若い男の声がりゅうちょうに、人族には難しい異種族の言語を発音する。すじょうを言い当てられた青年は後ずさり短剣を構えた。キールと名乗った彼は空の両手を振って薄く笑う。

「止めておけよ。第一かいすら使えないようじゃ無駄な抵抗だ。それに俺はあんたの親父さんのかたきの敵だぜ」

 態度こそのんなものだが、黒い指抜き手袋をした右手には銀色の指輪が光っている。魔術を使うための道具として主流なものの一つだ。青年が魔術を使えないことを指摘する際の言い振りからしても、キールにはいくらか魔術の心得があるのだろう。無駄な抵抗という言葉はおそらく事実だ。

「味方とは言わないんですね」

「それはあんた次第だな」

 青年が短剣を下ろすとキールは隠れ家をぶっしょくしはじめる。血溜まりを器用に避けて歩き回るその様子からは何の躊躇ためらいも感じられない。

「何をするんですか」

 とがめられた彼は食糧庫の木箱をあさる手を止めずに答える。

「アデッサの地下には隠し通路がある。この隠れ家からあいつがこもっている円形劇場まで、馬鹿正直に泥人形どもの相手をしてやるわけにはいかないんだ。どうする? あんたが知らないって言ってもここが余計に荒らされるだけだぜ」

 どうやらこの旅人は思いのほか事情をよく知っているようだ。青年は回らない頭であんする。彼らが立ち向かおうとしていた敵は強大な魔術師、中でも生命を持たない物を材料に使い魔を創って使役する無機創造魔術師だ。自在に分裂し合体する泥の兵隊を操る彼は、術式の維持の都合か、アデッサの町の中心にある円形劇場を拠点としている。

「出口で待ち伏せされる可能性は?」

 青年は尋ねた。確かに彼は地下通路の構造を把握している。その出入口の一つがこの隠れ家にあり、別の一つが円形劇場にあることは確かだ。しかし共通の敵がいるという申し出を信じて見知らぬ旅人を招き入れることには抵抗があった。特に待ち伏せを警戒する理由はない。ただ、決断が怖かった。

 キールはてきに笑って親指で入口の扉を示す。

「泥人形どもが正面からしか来なかった時点であり得ない」

 扉は壊されていた。キールの推測どおり、泥の兵隊にこじ開けられたのだろう。青年はここに来てようやく隠れ家の惨状を直視する。数えるだけでも吐きそうになるが――ずいしょに転がされた遺体は、明らかに仲間の数より少ない。隠れ家に他の出口はないから、少なくとも地下通路に逃げ出せた者がいるはずだ。

「場所を変えないか。あんたの顔色、見ていられないよ」

 こちらをあんじているのかあざけっているのかはんぜんとしない言い草に、返す言葉を探そうとして諦める。疑うことは苦手だ。今の自分を騙したところで、外から来た旅人に大した利があるとも思えない。床の一部に偽装された地下通路への入口を開けた青年は、ふと思い直してキールを振り仰いだ。

「――ハイエリグネ・イオ・エニングス。あなたも知ってのとおり、先のアデッサ筆頭、第一等魔術官ニードゥルデン・イオ・エニングスの息子です。魔族の姓が長いならハイネと呼んでください」

 この王国には二つの種族が共に暮らしている。頭につののある書物の民ベルディアと、角のない人族だ。人族は書物の民を魔族と呼び、書物の民の言語で人族のことはという。書物の民は姓、人族同士は名で呼び合うが、人族は書物の民の姓を発音しづらいため名を縮めた通称がしばしば用いられる。青年の場合はハイエリグネが名で、イオ・エニングスが姓、ハイネは通称だ。

 初めて目を合わせたキールは種族の差もあってかハイネより少しだけ背が低く、髪や服と同じ夜空の色のをしていた。



 先に向かわせたキールに続いて梯子はしごを降り、出入口を閉める。手持ち式のあかりで辺りを照らしてみた限り、地下通路の床にも壁にも血痕は見当たらない。ハイネは長く深く溜息をつく。くうにまとわりつく死臭はしばらく消えてくれそうにない。

 キールの様子を見ると、彼は壁に体を預けて何かを食べている。

「それって」

「ハイネも食うか?」

 空いた片手で差し出してきたそれは干し肉の欠片かけらだった。ハイネは両手で口を押さえて顔をそむけ、荒れる呼吸を整える。

「干し肉は、ちょっと」

 たった三年前まで平和なアデッサで共に暮らしてきたひとびと、父と話すところをよく見かけた魔術官や書記官、隠れ家へのがれて出会った仲間たち――彼らのうち誰かも分からないほど変わり果てた肉塊の記憶を追い払いながら、かろうじてそう返した。

「悪いな」

 手を引いた気配がしたのでキールの方を見ると、今度はを投げ渡される。赤い果皮さえ見なければ、わずかに冷たい手触りとさわやかな香りは気分を落ち着かせてくれそうだ。

 自分の食事を済ませたキールはその場で目を閉じる。

「あのままあそこに置いておいたって腐るだけだ。だったら生きている奴が食った方がいい」

 そういえば彼は隠れ家で食糧庫を漁っていた。空腹だったのだろうか。ハイネがそんなことを考えている間、キールは目をつむったまま動かずにいた。声をかけづらい。ハイネが紅玉果を食べ終わるまで待つつもりなのかもしれない。手の中のそれを返すか食べるか悩んだ末に、なるべく見ないようにして紅玉果をかじる。甘酸っぱい水気を口に含んで、ようやく喉の渇きを自覚した。

 ハイネが最後の一欠片を飲み込んで息をつくと、キールは壁から体を離して地下通路を歩き出す。ハイネは慌てて灯りを拾い上げると、彼を追い抜いて前に出た。明かりの届かない暗闇に足音が二つ吸い込まれていく。

 沈黙に耐えかねてか、背後でキールがこぼすように語る。

「――シェズムーガロ・ロジェ・レドーネ。人呼んで、きょへいしょうシェガロ。人族の王はもちろん、先王が隠れた今じゃ魔族の王からもうとまれているのに、誰もあいつを殺せなかった。魔術は戦いの道具じゃない。だからまともな魔術師ほどあいつに勝てない」

 この王国は代々書物の民の王が治めていたが、三年前に人族の若者が彼らの国を求めて声を上げた。人族の多くは戦いを覚悟していたようだが、書物の民の王はこれを受けれ、王都から遠い西方を彼らにゆだねることにした。若者は人族の王として立ち、彼の臣下と、書物の民の王につかえる魔術官の間で交渉が始まった。ハイネの父もアデッサを治める魔術官の筆頭として議論の先頭に立っていた。

 しかし結果的に、人族たちのねんは正しかったといえる。自分たちの王を得ただけでは飽き足らない人族がいて、王の決断に不満をいだく書物の民がいた。最初に流れた血が誰のものかは分からない。王となった若者が声を上げる以前にも両種族の関係は悪化しつつあったから、実際のところ「最初」などないのかもしれない。確かなことは、ハイネの父の部下だった第二等魔術官、無機創造魔術師ロジェ・レドーネ――人族が呼ぶところの巨兵将シェガロが、人族の王を拒んでアデッサを占拠したことだけだ。

「あのひとがここまで残虐だとは思っていませんでした」

 ハイネは振り向かないまま呟く。ロジェ・レドーネが操る泥の兵隊は人族と人族に味方した書物の民を皆殺しにした。人族の王が向かわせた兵までも壊滅させること三度、やがて何かが狂ったのだろう、もはや種族も思想も区別せず虐殺を繰り広げている。

「あいつの人族嫌いは有名だったんだろう? ハイネの親父さんもどこかでこうなることを恐れていたから隠し通路を教えなかったし、だから隠れ家はあの場所に造られたんじゃないのか」

 キールが指摘したとおり、ロジェ・レドーネはもともと人族への強い差別意識をまるで隠さないことで知られていた。特に名門の出ではない彼がいかにして第二等という高位の魔術官になれたのか疑問に思う者は後を絶たなかったが、ハイネがかつて見た彼には、ただの人族差別主義者というわけではない何かがあったと思う。



 古い魔術師の家系に、しかも高位魔術官の子として生まれていながら、ハイネはいくら努力しても魔術を使えるようにならなかった。アデッサの危機にそれどころではなくなった今でも、あの聞くに耐えない噂話のいくつかはよく覚えている。

「イオ・エニングスのごれいそくはまだ魔術を使えないようだ」

「不出来な子ほど可愛いというが、一言もお責めにならないとは」

「奥方がご健在であればまたお子を望めたものを」

 言葉でも態度でも父に責められたことはない。それどころか多忙の合間をって自ら指導もしてくれた。だからこそ期待に応えられない自分が情けなく、父の態度が甘いせいだと責める声を聞いた時は他のどんな陰口よりつらかった。ハイネに弟か妹がいれば父がここまで悩まされることはなかったかもしれない。だが母は彼を産んだことで病を得て亡くなった。

「まだ二十かそこらのお歳でしょう。焦ることはありません」

 そう言ってくれたなん役は前任者と同じく何年か後に辞めてしまった。父は後任を探してくれたが結局見つからず、ハイネは、優秀な魔術師の経歴にこれ以上傷をつけずに済みそうだとあんした。

 ハイネがロジェ・レドーネとあいまみえたのはその頃の一度きり、かんしゃにいた父を私的な用でたずねた帰りのことだ。書記官らしき書物の民の女性を引き連れて歩く、見知らぬ魔術官の男性に、すれ違いざま見咎められないよう身を縮めたことを覚えている。

「子供がなぜここにいる」

 ゆうぜんと通る声に思わず顔を上げた。金灰色の髪を短く刈り込んだ彼は父よりいくらか若いようだが、二十歳過ぎのハイネを子供と呼ぶ感覚は恐ろしく古風だ。

「イオ・エニングスの子ですよ。あの、二度も指南役を辞めさせた」

 伝統的な仕立てのちょういに身を包んだ魔術官は、書記官の耳打ちにあいづち一つ返さず、まっすぐハイネに詰め寄って目を合わせる。魔術師はそうして互いの魔力を測るのだと、かつて指南役が教えてくれた。ハイネに分かったことといえば、魔術官の眼が髪と同じきんかいであることくらいのものだったが――。

「――強い魔力を持っている。殻を破れば優れた術者になる」

 射抜くようなまなしがわずかにゆるむ瞬間が、ひどく印象に残った。



 あの官舎は他でもないロジェ・レドーネが破壊したはずで、おそらく父もそこでれきに埋もれているのだろう。しかしハイネは今も彼を憎みきれていない。父の死を目撃していないせいだと納得するには目の前で奪われてきたものが多すぎる。ハイネの才を信じてくれた者なら味方にだっていくらでもいた。疑問ばかりがつのる中、地下通路の行き止まりが見えてくる。円形劇場はその上だ。

 遊ぶ子供のような調子で後ろからキールが尋ねてきた。

「俺はあいつを殺しに行くけど、ハイネはどうする? 脱出した仲間を探しに行っても、ここで待っていてもいいぜ。戦いを見届けてくれてもいい。どれが安全かは分からないが――」

「ついて行きたいです」

 振り返れば、黒い眼にかすかなうれいが揺れる。み切った夜の色は何者をも寄せつけないようでいて、そのじつ、金灰の朝を追うに足る理由をはらんでいるに違いなかった。

「――理由を聞いてもいいか?」

「彼がどう変わってしまったのか、僕は見ていない」

 返事はない。ハイネは梯子を登って出口の鍵を開けると、また降りてキールに先を譲った。この旅人に魔術のこころえがあることは分かる。だがハイネに魔術師の力量は測れない。まともな魔術師は勝てないと語った相手に挑むからには、彼はそうではないのだろう。あらごとに慣れている様子もあった。いずれにせよ、戦う力のないハイネがあの男に迫る機会はきっと今しかない。

「あなたは何のためにロジェ・レドーネを追っているんですか」

 沈黙に耐えられず発した問いはむなしく地下に響く。キールは腰の剣に触れ、黒いがいとうり直し、黒い靴と手袋と、銀色の指輪を確かめて、それから急に黒髪を乱した。き分けられた髪の下、灯りに照らされた丸いりんかくから、指先ほどの角が突き出る。

 この王国には二つの種族が共に暮らしている。頭に角のある書物の民と、角のない人族、両者は交わり子を成すことができた。半魔族、あるいは切り落とされた頁シャルガ・セトルウィスと呼ばれるその子は、髪で隠せるほど小さな角と、どちらの種族にも属せない異端の宿命を持っていた。

 言葉を失ったハイネをいちべつし、薄く笑ってキールは答える。

「――親子喧嘩」

 つまり、彼もまたロジェ・レドーネなのだ。

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