剣光閃き暁招く
兎霜ふう
第1話
夜明け前、まだ太陽が顔を出していない山道は肌寒い。少年は着物の下の肌を粟立たせる。一歩一歩山道を踏みしめるごとに吐かれる息は白く濁り、風に運ばれて透けていく。頬と鼻先は赤く染まり、耳がすっかり冷たくなってしまっている。赤茶色の髪は短く切ってあるので額が出ており、そこも風に触れて冷えている。袴の裾から僅かに出る足首から震えが立ち昇った。
少年は、生成りの筒袖の上衣の襟元を掻き合わせた。くすんだ煤色の袴の腰紐をきゅっと締める。その拍子に腰に佩いた刀が揺れた。刀は大人が持つようなもので、少年には大きく、重たい。鍔には花の紋、柄には凰が彫り込まれており、刀身と同じくらいに薄い不思議な形をしている。
黙々と山道を進み続けること数十分。遠く東の空が白み始めた。少年の名と同じ黎明の瞬間が訪れようとしている。
山々の谷間から太陽が顔を出した。白く眩い光に少年――黎明は眼を細める。立ち止まり、これまで歩んできた道を振り返った。黒々とした木陰の中を確認し、それから前方へと顔を向ける。ここは山の中腹であって山頂はまだ遠い。けれど、目的地はこの辺りのはずだ。その証拠に、周囲の木々には獰猛な熊が付けたと思しき爪痕がいくつも残されている。
黎明は革の手袋をはめた左手を刀に添えた。刀の鍔に親指を掛け、ぐっと押し出して鯉口を切った。指の力を抜いて刀を戻すと、きんきんと鍔鳴りの音が響く。甲高いその音は木々の合間にあちこち反響する。黎明は右手を耳朶に添え、その反響音を聞き分けながら進む方向を決めた。
やがて、一ヶ所だけ反響していない場所を見つけた。そこには太く旧い大樹が聳えていた。樹齢は数千年を超えているだろうか。枝が四方に張り出して葉はみっしりと茂り、幹の樹皮がめくれた部分には土が溜まっているのか、そこを足掛かりにしてつる植物が寄生し、白い花を咲かせている。反対側に回ると、黎明の視線の高さほどに楕円形をした洞があった。黎明はもう一度刀を鍔鳴りさせる。やはりここに音は吸い込まれていっている。
黎明は張り出した木の根に足を掛け、洞の横に手をついて、ぐっと体を持ち上げた。大きく足を上げて洞の中に入っていく。
洞は大人でもすっぽりと体が収まりそうなほどの大きさをしていた。上下左右ともに空間に余裕があり、少し先まで続いている。その様子はまるでトンネルのようだ。暗闇に眼を凝らしつつ進んでいくと、あるところでぐにっとしたものに触れた。そこだけ急に空気の密度が高くなったように抵抗を感じる。黎明は手のひらを着けてゆっくりと押していった。抵抗はありつつも泥に沈むかのように少しずつ体がめり込んでいく。やがて、つぽん、と何かを突き抜けた感触がして、瞬きをした次の瞬間には辺りの景色が一変していた。
荒れ果てた野原、そこにぽつりと社が建っている。社はほとんどが焼け落ちてしまって柱と梁が残っている程度だった。吹く風が焦げ臭く、生臭い匂いを運んでくる。その中に紛れた緊張感を感じ取り、黎明は鼻に皺を寄せた。
触ってもいないのに刀が勝手に少し引き抜かれ、かきん、と音を立てた。黎明が瞬きをする。ふっと気配を感じて眼を上げれば、隣には青年が立っていた。
濃紺の筒袖の上衣、同じ色の袴、素足に草履をつっかけている。腰まで伸びた髪は光が当たった時だけ紺に光る黒で、後頭部の低い位置で一つに結っていた。引き締まった体つき、肌は健康的ながらも白い。すっと鼻筋の通った整った顔立ち、切れ長の黒の眼は剣呑さを醸し出してはいるが、浮かべている笑顔が柔和なので人懐っこく見える。腰には黎明と同じ刀を佩いていた。ただ、柄の紋が鳳であること、鞘がないことが違っていた。
「
黎明は青年の腰に飛びついた。双劍と呼ばれた彼はいささかも動じることなくそれを受け止める。
「ご主人」
双劍はにっと唇を引き上げて笑い、それから困ったように眉を下げた。
「結界を抜ける前から呼べとあれほど言ってんのに」
「だって、呼ばなくても双劍は来てくれるでしょ?」
「そうだけど……。旺家当主がそんな不用心でどうすんだ」
「双劍がいたら安心だもの」
黎明が笑って言い、腰にぐりぐりと顔を擦り付けると、双劍はますます困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
双劍は黎明が持つ妖刀の付喪神である。幼くして旺家当主の座に就いた黎明は父から双劍を受け継いだ。旺家当主が生涯を掛けてなさねばならない使命と共に。
――各地に散らばった妖刀を破壊すること。
この国には数々の刀工がおり、旺家もその一つであった。しかしながら、刀工としての旺家は十五代前に途絶えた。妖刀の製作に取り掛かってしまったために。
刀のみならず使い込まれた武器には付喪神が宿る。通常付喪神とは武器の持ち主を守護する妖力を発揮するお守りのようなものであり、それ以外の効果はない。しかし、旺家が作り出した妖刀は違った。付喪神の力を最大限に引き出し、妖力を具現化して人間体を与える力を持つのである。心正しき所有者の手に渡れば、妖刀の付喪神は穏やかな妖力を纏い、主人を守護する。双劍のように。だが、ひとたび悪しき者の手に渡れば、妖刀は変質する。血を吸い、血に酔った付喪神はさらなる血を求めて争いを引き寄せ、死を招く呪いと成り果てるのである。
十五代前の当主が打った妖刀は二十二振。家に伝わる、二振一組の双劍を除く二十振の刀が各地の権力者の手に渡り、周囲に死をまき散らす妖力を纏って人々を狂わせている。代々の旺家当主が破壊したのはそのうちの十四振であり、これまで黎明が破壊したものは三振。残り三振を見つけることが黎明の使命となっている。
「しっかしまぁ、この結界も随分念入りに作られたもんだよなあ。よっぽど後ろ暗いことがあるに違いないぜ」
双劍が黎明の背中に手を当てて体を離しつつ、辺りを見回す。黎明はその言葉にうんと深く頷いた。
先程木の洞の中に張られていた結界は、一部を解除して侵入するだけでも力が必要だった。
妖刀は自分で結界を張ることができ、その結界の強度から妖刀の強さが推し図れる。この結界内にある妖刀はかなりの血を吸い、周囲に狂気をまき散らしているもののようだった。
「陰気が満ちてるし、動植物も狂って暴れてる。こりゃ早めに手を打たねえと……。ッ!」
さっと双劍が構えた。むき身の刀を腰から引き抜き、辺りを警戒する。左手を横に差し出して黎明を庇うようにした。
「黎明」
「うん」
黎明もまた刀を引き抜き、両手で柄を握って構える。息を殺して周囲の気配を探った。
周囲から漂ってくる生臭い匂いが強くなっていた。緊張の時間が続く。
がさり、と背後の茂みが揺れた。双劍が黎明の体を引き寄せ、地面を蹴ってその場から逃れた。
先程まで黎明が立っていた場所に、鋭い爪のついた前足が振り下ろされた。ぎゃりぎゃりと地面を抉ったそれの持ち主は、熊だった。胸元に特徴的な模様があるからツキノワグマだとはわかったが、それにしては巨大である。血に濡れた毛皮、赤く染まった爪、口からはだらだらと涎をこぼし、眼を爛々と鈍く輝かせている。
熊が吠えた。それに呼応するかのようにあちこちから声が聞こえてくる。物陰から次々と熊が姿を現した。その数、四頭。
「こんだけ使役できてるってことは、主人持ちだな」
双劍が唇を歪めて笑う。顎をしゃくって黎明に促した。
「あっちの社に獣以外の気配がある、行け!」
「うん!」
黎明は頷くと走り出した。焼け焦げた社を目指す。それを追い掛けようとした熊を、双劍が止めた。
社の中が見えるほどに近づいて、黎明は足を止めた。社の中心に一振の刀が突き刺さっている。その周りは炭の塊がいくつも転がっていた。いや、これは――焼け焦げた人間の死体だ。気持ち悪さをこらえ、黎明は慎重に社の中に足を踏み入れた。
炭の大きさと数から推察するに、この社にいたのは大人が三人。いずれも胸の辺りに短剣が刺さっており、この場で殺し合いが行われたのだとわかってしまった。これも妖刀の妖力のせいだろう。妖刀は狂気を巻き散らし、争いを引き寄せてしまう。どうしても。
ひゅう、と微かな息遣いを黎明の耳が拾った。ぎくりとして黎明は足を止める。息を殺して耳を澄ませる。やはり、この社の中から人間の呼吸音がする。
黎明はそれを頼りに、足元に崩れた木材を踏みしめつつ社の中を探索した。
社は、一般的な平屋の一軒家ほどの大きさをしていて、三つの部屋が繋がっていた。その内の一つ、炎に焼かれておらず比較的形を残している部屋の隅から呼吸音は聞こえてきていた。暗がりに眼を凝らす。何かが落ちている。黎明はさらに眼を細めた。あれは――人の首だ。炎に焼かれ、頭髪がなくなり、皮が焼け爛れて炭になってしまっている。しかし、その状態でもなお、それは、その人は生きていた。
「妖刀が生かしているのか……!」
妖刀が最も力を発揮するのは、悪しき心を持った主人を迎えている時である。そのために、主人を失わまいとして、妖力を使って主人であった肉塊を生かし続けているのだろう。この状態では、いくら主人のほうに手を出しても意味はない。妖刀そのものを破壊しない限り、この力は消えない。
黎明は人の首に背を向けてだッと外へ走った。
「双劍! 来て!」
「ああ、わかった!」
総勢五頭の熊を相手取っていた双劍はちらりと振り向くと、腕の力だけで熊を弾き飛ばし、こちらに駆け寄ってきた。
「破壊すんだな?」
「うん」
「でもちょっと待ってくれ、あいつらをなんとかする」
双劍は黎明の体を担ぎ上げ、社の燃え残っている梁まで飛んだ。そこに黎明を座らせて、自分はひらりと地上に舞い戻る。刀を構え、不敵に笑った。
「さァ、掛かって来いよ。熊公ども」
最も大きな熊が、四つ足で駆けてくる。双劍はぐっと腰を落とし、熊を睨み据えた。熊が近づき、前足を大きく振りかぶる。双劍はだんッと地面を蹴り、熊の懐に飛び込んだ。白刃の煌めき一閃。熊の前足が付け根から切り落とされる。血がしぶき、辺りに雨のように散った。熊が痛みに咆哮を上げる。開いた口を目掛け、双劍が刀を突き出す。やすやすと頭蓋骨を貫いた。刀を引き抜いて飛び退れば、二拍遅れて熊の体が傾ぎ、地面に倒れて地響きを上げる。双劍はもう次の一頭に掛かっていた。こちらは足を切りつけて、前足を地面についた瞬間を狙って首を落とす。同じ手順でもう一頭もあっという間に屠った。
残りは二頭。仲間がやられたことに警戒しているのか、じりじりと間合いを探っている。双劍はその内、大柄なほうに狙いを定めた。袈裟懸けに切りつけ、返す刀で前足を切り上げる。双劍は足を踏ん張り、振り下ろされる熊の手を受け止めた。きぃん、と音がして火花が散る。一瞬の隙を突いて弾き飛ばし、双劍が突きを繰り出す。熊の肩に切っ先が沈む。熊がよろめいた。それに引きずられ、双劍が蹈鞴を踏む。
「双劍! 後ろ!」
黎明は悲鳴を上げた。信じられないくらいの速度で、残る一頭が双劍の背後に回っていた。双劍が振り返る。刀を引き抜き攻撃に応じようとする。だが、僅かに間に合わない。
「ぐッ……」
双劍は熊によって薙ぎ払われ、宙を飛んだ。地面を転がり、ぽうっと光を出して姿を消す。その後には一振の刀が横たわっている。思わぬ強さの攻撃を受けたので、人型が解除されてしまったのだ。
地に落ちた刀を狙って熊たちが駆けよる。黎明は梁から飛び降りた。間一髪、双劍を拾い上げ、右手に握った刀で熊の攻撃を防ぐ。続く二撃を頭を低くして交わし、逃げ出した。刀を地面に置き、腰から鞘を引き抜く。双劍に鞘を近づけた。
「〝
黎明の声に反応し、鞘が光る。刀から浮き出てきた光の球とぶつかって、きぃんと硬質な音を立てた。
熊が迫ってくる。黎明は片膝をついたまま、身構える。
がきん! 頭上で音がした。振り下ろされた熊の手を受け止めたのは、黎明ではなく双劍だった。
「ごめんなあ。怖い思いさせちまって」
双劍はちらりと黎明を振り返り、困ったように眉を下げてふにゃりと笑った。
「大丈夫、だから」
黎明は胸に刀を抱き締め、ぶんぶんと首を振る。
「おう!」
双劍が熊を押し返した。弾かれてよろめいた熊を、眼にも止まらぬ速さの斬撃で切って捨て、体を駆け上がって足場にし、もう一頭へと飛び掛かった。大きく振りかぶった一撃が、熊の体を真っ二つに切り裂いた。
しゅた、と双劍が地に降り立つ。彼が刀をぶんと振って、刀身についた血を弾き飛ばした。
熊の呻きが聞こえなくなり、辺りは静かになった。双劍が黎明を振り返る。
「さて、最後の仕上げといこうか」
黎明は立ち上がり、双劍と並んで社へと向かった。
突き刺さっている妖刀の正面に立つ。双劍が一歩踏み出した。刀を上段に構える。
「いつでもいいぜ」
黎明は左手で刀身を掴んだ。右手に鞘を持ち、刀の柄を鞘の中に差し込む。薄い柄は鞘の中に飲まれていく。
「〝
黎明は素早く、鍔を鳴らした。きん、と甲高い音が波紋のように広がる。それと同時に双劍が刀を振り下ろす。黎明の鍔鳴りに応じるかのように甲高い音を立て、双劍の刀が妖刀を折った。
からん、と幽けき音が虚ろに響く。それが止んだ。双劍が構えを解き、刀を腰紐に差した。黎明がもう一度鍔鳴りをさせると、折れた刀は端から崩れていき、灰となって、きんきんという音の波紋に吹き飛ばされるかのように消えていった。
風が吹いた。血なまぐさいものではなく、森の中の澄んだ匂いのする風だった。こおおという響きを黎明の耳が捉えた瞬間に辺りの景色が揺らぎ、歪み、気がつけば黎明と双劍は大樹のそばに戻っていた。妖刀が壊れたので結界が消えたのだ。
黎明は刀を握ったまま、双劍に駆け寄った。腰に抱き着き、腹に顔を埋める。双劍が受け止めてくれた。
「今回もよくやったなあ、黎明」
大きくて温かな手のひらが優しく髪を撫でる。黎明はこくりと頷いた。しばらくそうしていたが、やがて黎明は顔を上げた。双劍がん? と首を傾げる。
「次の気配を感じた。今度は西だ。遠くのほう」
「西かあ。せっかく都の近くまで来たってのに、また戻らねえとだな。一人で行けるな?」
「…………うん」
黎明は渋々ながらも頷く。それを見て双劍が笑った。
「宿に着いたら呼んでいいから。な?」
「うん」
黎明は双劍の体を離す。ふーっと息を吐き、刀を鞘に戻した。きん、と鍔が鳴る。それと同時に双劍の姿が消えている。
黎明はきちんと鞘に収まった刀を腰に差し、落ちないようにと紐を絡めた。着物の着付けを整え、よし、と一つ自分に言い聞かせるように頷くと、踵を返して山を下っていった。
真上に昇った太陽が黎明の背中を照らす。刀の鍔が陽光を弾いて、きらりと一瞬光り輝いた。
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