●第二章 香りの記憶
週末の早朝、沙耶は実家のある鎌倉に向かっていた。
電車の窓から差し込む朝日に、うとうとしかけた時、ふいに懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「この香り……」
目を閉じて深く息を吸い込むと、幼い頃の記憶が鮮やかによみがえってきた。母の着物箪笥から漂う線香の香り、祖母の梅干しの漬け物の香り、そして父の書斎に立ち込めていた古い本の匂い。
「すみません、切符の確認です」
車掌の声に、沙耶は我に返った。
「あ、はい」
切符を見せながら、沙耶は自分の変化について考えていた。この一週間、香りに対する感覚は更に研ぎ澄まされていった。それは時として煩わしく感じられたが、同時に新しい発見の連続でもあった。
鎌倉駅で下車すると、潮の香りを含んだ風が頬を撫でていった。通りには、まだ早い時間にもかかわらず、観光客の姿がちらほら見える。
実家までの道すがら、沙耶は幼い頃の記憶を手繰り寄せていた。両親との関係は決して悪くはなかったが、仕事を優先する生活の中で、自然と疎遠になっていった。最後に帰省したのは、もう半年も前のことだった。
「沙耶?」
玄関を開けると、母・美奈子の声が聞こえた。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、懐かしい香りに包まれる。廊下に置かれた香炉から立ち上る線香の香り、台所から漂う味噌汁の香り。そして、それらの香りの下に、かすかに感じられる古い畳の匂い。
「お帰りなさい。珍しいわね、連絡もなしに」
母は台所から顔を出した。白髪が少し目立つようになった髪を、いつものように後ろで纏めている。シンプルな紺色の割烹着姿は、沙耶の記憶の中の母とまったく変わっていなかった。
「ちょっと、話があって」
「まあ、とにかくお茶にしましょう」
母は手際よく急須にお茶を入れ始めた。その仕草の一つ一つから、沙耶は新しい香りを感じ取っていた。煎茶の香り、母の手に残る石鹸の香り、そして母自身の、年月を重ねた穏やかな香り。
「そういえば、祖母の形見の香水の瓶、まだある?」
テーブルに向かいながら、沙耶は尋ねた。
「ええ、仏壇の横の箪笥の中よ。大切にしまってあるわ」
祖母・千代子は、戦前から続く老舗の香水店で働いていた。その店は戦災で焼失してしまったが、祖母は一本の香水の瓶を守り抜いた。それは、店の初代主人が作った最後の作品だったという。
「見てもいい?」
「ええ、どうぞ」
箪笥から取り出した小さな瓶は、クリスタルのような透明感のある硝子でできていた。蓋を開けると、年月を経た深い香りが立ち上った。
表層には、かすかに残る花の香り。その下に、温かみのある木の香り。そして最後に、どこか懐かしい、しかし言葉では表現できない香りが残る。
「これ……」
その香りは、先日橘木千里が見せてくれた明治時代の香水に、どこか似ていた。
「祖母が言ってたわ。この香水には、日本人の心が込められているって」
母の言葉に、沙耶は深く頷いた。確かにこの香りには、西洋の香水にはない、独特の情感がある。
「お母さん、実は私、最近変なの」
沙耶は、ここ一週間の出来事を話し始めた。突然の感覚の変化、そして香りを通じて感じる新しい世界について。
話し終えると、母は少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「それ、祖母も同じだったのよ」
「え?」
「ある日突然、香りに対する感覚が変わったって。それが、香水作りの道に進むきっかけになったって、話してくれたことがあるわ」
その言葉に、沙耶は息を呑んだ。自分の中の変化は、遺伝子の中に眠っていた才能の目覚めだったのかもしれない。
「でも、なぜ今になって……」
「それはきっと、あなたが準備できたからよ」
母の言葉は、不思議な説得力を持っていた。
その日の午後、沙耶は祖母の形見の香水を持って、千里のもとを訪れた。
「まさか、これが残っているとは……」
千里は、瓶を手に取りながら感慨深げに呟いた。
「ご存知だったんですか?」
「ええ。私の師匠が、この香水のことを話してくれたことがあります。戦前の日本の香水技術の到達点だと」
千里は慎重に蓋を開け、香りを確かめた。
「素晴らしい……これだけの年月を経ても、香りの構造が崩れていない」
「香りの構造というと?」
「香水は、時間とともに変化していく芸術なんです。トップノート、ミドルノート、ラストノート。それぞれの層が、まるでオーケストラのように調和している必要がある」
千里の説明を聞きながら、沙耶は自分の感じている香りの重なりを思い出していた。
「橘木さん、この香水を現代に復刻することは可能でしょうか?」
「難しいでしょうね。当時使われていた原料の中には、今では入手できないものも多い。でも……」
「でも?」
「その精神を受け継いだ、新しい香水を作ることはできます」
千里の言葉に、沙耶の心が躍った。
「協力していただけますか?」
「ええ。でも、それには準備が必要です」
千里は立ち上がり、古い本棚から一冊の本を取り出した。
「これは、私の師匠が残した調香のノートです。まずは、これを読んでみてください」
沙耶は、革装の古い手帳を受け取った。ページをめくると、繊細な筆致で書かれた香料の配合表や、調香に関する考察が綴られていた。
その夜、自宅のリビングで手帳を読みながら、沙耶は新しい香水のイメージを膨らませていた。祖母から受け継いだ感覚と、現代の技術を組み合わせることで、きっと素晴らしいものが生まれるはずだ。
窓の外では、東京の夜景が煌めいていた。光の間から漂ってくる、様々な香り。それらが重なり合って、まるで目に見えない風景のように、空間を彩っている。
沙耶は深く息を吸い込んだ。これから始まる新しい挑戦に、期待と不安が入り混じっていた。
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