【現代女性お仕事短編小説】目覚めの季節 ~調香師たちの詩~(約12,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
●第一章 香りの目覚め
春の朝、いつもより少し早く目が覚めた。
霧島沙耶は、まだ薄暗い部屋の中で、何か違和感があることに気づいた。ベッドに横たわったまま、深呼吸をする。そこで初めて気づいた。空気が、違う。
「なんだろう、この香り……」
普段なら気にも留めない窓の外からの風に、色とりどりの香りが含まれていることが分かる。早咲きの桜の甘い香り、まだ固い蕾のような青々しい香り、そして遠くから漂ってくる、誰かの炊いた味噌汁の香り。それらが重なり合って、これまで経験したことのない香りの万華鏡のように、沙耶の鼻腔をくすぐっていた。
時計を見ると、まだ五時半。起きるには早すぎる時間だ。
しかし、もう眠れそうになかった。沙耶はゆっくりとベッドから身を起こし、黒檀のフローリングに足を下ろした。床の冷たさが心地よい。
白を基調としたミニマルな内装の寝室には、必要最小限の家具しか置いていない。クリームホワイトのリネンのカーテン、チーク材のローテーブル、そして大きな姿見だけ。これが、アートディレクターとして働く彼女のこだわりだった。
「おかしいわ……」
沙耶は、いつもの朝のルーティンを始めながら、頭の中を整理しようとした。昨日までは確かに、こんなことはなかった。香水の仕事をしているとはいえ、これほど敏感に香りを感じ取ることはなかったはずだ。
洗面所に向かう途中、廊下に置いてある観葉植物のサンスベリアから、微かな青々しい香りが漂ってきた。これまでサンスベリアに香りがあるなんて気づきもしなかったのに。
化粧台の前に座り、鏡に向かう。すっきりとした黒髪のボブカットに、切れ長の瞳。28歳になっても、学生時代から変わらない印象的な顔立ちだった。
しかし、今朝は目の下にうっすらと隈が見える。最近の忙しさが、少しずつ顔に出始めているのかもしれない。
ラグジュアリーコスメブランド「メゾン・ド・ボーテ」のアートディレクターという立場は、確かに彼女の理想の仕事だった。しかし、新しい香水ラインの立ち上げプロジェクトは、予想以上に彼女を疲弊させていた。
洗顔料を手に取る。普段何気なく使っているクレンジングフォームからも、複雑な香りの重なりが感じられた。ラベンダーやローズマリーといった表面的な香りの下に、これまで気づかなかった深い層の香りがある。
「こんなに香りが複雑だったなんて……」
沙耶は顔を洗いながら、自分の感覚の変化に戸惑いを覚えていた。
朝食を作るために台所に立つと、そこでも新しい発見があった。コーヒーの粉から立ち上る香りは、これまで以上に豊かで深みのあるものに感じられた。ほのかな花のような香り、チョコレートのような甘い香り、そして土のような香ばしさ。それらが完璧なハーモニーを奏でている。
窓の外では、東京の街が少しずつ目を覚ましつつあった。曇り空の下、高層ビルの合間から漏れる朝日が、ガラス張りのマンションの窓に反射して、淡い光の帯を作っている。
沙耶は食パンをトーストしながら、スマートフォンでスケジュールを確認した。今日は重要な会議が入っている。新しい香水ラインのコンセプトプレゼンテーションだ。
「どうしよう……この状態で会議に出て大丈夫かしら」
不安な気持ちを押し殺しながら、沙耶は早めの出社を決意した。いつもより強めに香る、ヘアミストの柑橘系の香りに包まれながら。
表参道駅から会社まで歩く道すがら、沙耶は街に溢れる様々な香りに圧倒されていた。行き交う人々の香水、カフェから漂うコーヒーの香り、地下から立ち上る地下鉄の無機質な匂い。それらが重なり合って、まるで目に見えない色彩のように、空間を彩っていた。
メゾン・ド・ボーテの本社ビルは、表参道と青山通りが交差する角に建っていた。フランスの建築家が設計した12階建ての建物は、曲線を基調とした優美なフォルムで、街のランドマークとなっている。
1階のショールームに入ると、普段は心地よいと感じる空間の香りが、今朝は強すぎるように感じられた。ラベンダーとジャスミンをベースにした店舗の香りに、展示されている様々な香水の香りが混ざり合って、複雑な香りの渦を作っている。
「おはようございます、霧島さん」
受付で声をかけられ、沙耶は我に返った。
「おはようございます」
早めに出社したにもかかわらず、エレベーターを降りた8階のオフィスフロアには、すでに数人の同僚の姿があった。
「珍しく早いですね、霧島さん」
デスクの隣に座る江原麻衣子が、にこやかに声をかけてきた。実はプロジェクトチームの中で、唯一沙耶が心を許している相手だった。
「ええ、今日のプレゼンの準備をしようと思って」
「緊張されてます?」
「少し……というか、今朝から調子が変なの」
沙耶は机に向かいながら、小声で打ち明けた。
「どんな感じですか?」
「なんというか……香りに対する感覚が、急に敏感になってしまって」
言いながら、沙耶は自分の言葉の不思議さに気づく。こんなこと、誰に話しても信じてもらえないだろう。
「それって、すごくいいことじゃないですか? 香水の開発を任されているんですから」
麻衣子は、いつものように前向きな反応を示した。しかし、沙耶にはそう簡単に割り切れなかった。
午前10時。プレゼンテーションルームには、経営陣を含む20名ほどが集まっていた。
沙耶は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。しかし、部屋に充満する様々な香り――参加者たちの香水、化粧品、そして緊張から滲み出る汗の匂いまでもが、彼女の神経を刺激した。
「では、新しい香水ラインのコンセプトについて、アートディレクターの霧島より説明させていただきます」
マーケティング部長の紹介で、沙耶はプレゼンテーションを開始した。
しかし、話を進めれば進めるほど、違和感が強くなっていく。これまで練り上げてきたコンセプトが、突然、陳腐に思えてきたのだ。香りに対する新しい感覚は、既存の価値観を根底から覆そうとしていた。
「――以上が、新ラインのコンセプトとなります」
プレゼンテーションを終えた時、沙耶の額には薄い汗が浮かんでいた。質疑応答の間も、上の空で答えているような感覚だった。
会議室を出ると、廊下で待っていた麻衣子が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫ですか? いつもと様子が違いましたよ」
「ええ……ちょっと、考え直さないといけないことが出てきたの」
沙耶は微かに頷いた。この感覚の変化は、きっと何かの意味があるはずだ。そして、それは新しい香水の開発に、大きな影響を与えることになるかもしれない。
その日の午後、沙耶は銀座にある香水の原料サプライヤーを訪れていた。
築50年を超える古いビルの一室で、世界中から集められた香料のサンプルが並べられている。部屋に入った瞬間、無数の香りが押し寄せてきて、沙耶は一瞬、めまいを覚えた。
「霧島さん、お久しぶりです」
白髪交じりの髪を後ろで束ねた香料師の橘木千里が、穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「橘木さん、今日は突然すみません」
「いいえ、どうぞ」
千里は、古い革張りの椅子を示した。部屋の中央には、年季の入った木製のテーブルが置かれている。その上には、小さなガラス瓶が整然と並べられていた。
「実は、新しい香水の開発で行き詰まっていて……」
沙耶は、朝からの出来事を打ち明けた。不思議な感覚の変化、そしてそれによって生まれた既存のコンセプトへの疑問。
千里は黙って話を聞いていたが、途中で立ち上がり、棚から一つの小瓶を取り出した。
「これを嗅いでみてください」
透明な液体の入った小瓶を、テーブルの上に置く。
沙耶が蓋を開けると、これまで経験したことのない複雑な香りが立ち上った。表面的には、ジャスミンのような華やかな香り。その下に、ウッディな温かみのある香り。そしてさらにその奥に、何とも言えない懐かしい香り。
「これは……」
「明治時代に作られた香水のレシピを、現代に再現してみたものです。当時の調香師は、香りの中に物語を込めようとしたんです」
千里の言葉に、沙耶は深く頷いた。確かにこの香りには、まるで一編の小説のように、起承転結がある。それは、彼女が今朝から感じている香りの重なりとも、どこか通じるものがあった。
「橘木さん、私に香水の開発を手伝っていただけませんか?」
言葉が、自然と口をついて出た。
千里は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんです。でも、一つ条件があります」
「条件ですか?」
「はい。あなたの感じた香りを、すべて言葉にしてみてください。それが、新しい香水を作る第一歩になるはずです」
その言葉に、沙耶は静かに頷いた。
外に出ると、夕暮れ時の銀座の街が、オレンジ色の光に包まれていた。行き交う人々の間を縫うように歩きながら、沙耶は今日一日の出来事を振り返っていた。
突然の感覚の変化は、確かに戸惑いの原因だった。しかし、それは同時に新しい可能性も示唆していた。
スマートフォンを取り出し、メモ帳を開く。今日感じた香りの印象を、できるだけ詳しく書き留め始めた。それは、これから始まる新しい冒険の、最初の一歩だった。
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