第5話 国家の柱
痛々しい、平手で頬を打つ音がこだまする。
松雪は霞澄に胸倉を掴まれながら、左頬をそれはそれは真っ赤に、それはそれは痛々しく腫れ上がらせている。
松雪の顔面にじんわり広がる重い苦痛に耐え、口を決して開くまいと肩を震わせながらも鼻呼吸に努めていた。
彼は小柄でなく、かつ食が細いわけではない。だが彼は、この女将校の腕一本に支えられて宙に浮いている。
私が知らぬ間に、どれ程の努力をしてこの体幹と腕力を身につけたのだろうか?
そんな風に、他人事のように考えを走らせていると、哀れなるかな、“しびれを切らす”という不興を買ったが為に彼女の張り手がまた飛ぶ。
口の中が、鼻が、痛く痛く堪らない。
赤黒い液体が鼻腔から垂れ、口の中に錆びた鉄の味がいっぱい広がる。
呼吸が阻害され、いよいよ苦しくなってきた。
「可愛い
松雪の眼前に手を持ってきてやり、小指から順番に折って握り拳を作り上げる彼女の顔はどこか嬉しそうだった。
「言え。“私は永遠に寺倉霞澄に隷属します”。簡単だろう?たったの一行だ。出来ないか?」
「それとも次はここにするか」
彼の服を捲り上げツンと爪を鳩尾に押し当てる。骨が無く筋肉の鍛えようの無い、内臓ストレートの明瞭な弱点。
「……まぁ、今日の所はいいがな。さぁ乗れっ特等席を用意してやったんだからっ」
声色は、ご機嫌そのもの。男の背中を半長靴で蹴り飛ばし、乱雑に軍用ハンヴィーの中に押し込んでいるというのに、だ。
「お前は……そんな奴じゃなかった筈だっ!」
口から血を飛ばしながら、松雪が叫ぶ。
「誰に
「違う」
啖呵を切り終わったところで、凍てついた空気が車内に伝播した。
運転兵も、全く彼女を畏怖している様である。
「本当にお前は私を知らないな」
「何……?」
「この
紙煙草を咥え、マッチで火を灯し、一服。
開いた口が塞がらない。
いや嘘だ。
これは嘘に違いない。
私が知る霞澄という友人は、ひたむきに勉学に打ち込み、友を慕い親を慕い、ごく普通に少年期を過ごした筈だ。
そんな、どす黒い反社会的な欲求が、彼女の腹の底に渦巻いていたとは実に信じ難い。
「国軍に志願したのは、ふと、お前がいる国、お前が生まれた国というだけで、私の血肉を以て守る価値がこの国にはある……とも思ってな」
上半身をこちらに寄せたかと思うと、くゆらせた煙をゆっくり顔に吹きかける。
「しかし残念でしかたないよ。つまり、学生時代、私たちなりにアプローチしていたのが全て無駄だったという事になるじゃないか……?」
抵抗出来ないのをいい事に、彼女はこちらの身体をゆっくりと物色し、そして遂に哀れな被捕食者の首に手をかけ始めた。
「きっかけは……2017年に起きた朝鮮戦争再開だったな」
「ただでさえ皇室の後継者不足が囁かれているというのに、帝室が弾道ミサイルや破壊工作員……果ては名ばかりの市民運動によるテロの標的となった事で、“例の議論”に拍車をかけたのを……金無しとは言え華族、しかも侯爵位のお前が知らぬ訳もあるまい?」
「政府からも帝室からも催促はあったはずだ」
知らぬとは言わせないという圧力の眼差しが真っ直ぐこちらを刺した。
「華族と無爵の名士を政略結婚させ、磐石な帝室とその近臣たる華族団を生むこと……今や莫大な量となった帝室の諸御公務を高位華族が肩代わりする事で御負担の軽減を狙うこと……」
淡々と、彼の住まいに投函された、政府より寄越されし書類の一文を、ほぼ間違いなく暗誦する。
「成程。あくまでも私の自由意思は尊重されないと……友人だと思っていたお前らが、民主主義国家の文民政府がそう言う訳だな!?言ってしまうんだな」
「国家の権威の磐石化で得る国益と、たかが華族の何人かの自由意思……天秤にかけたらどちらを取るべきか、明らかだろう?」
「
これでもなるべくお前を慮っているんだぞと言わんばかりに、彼女は微笑む。私に血の混じった唾を吐かせた彼女が、である。
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