第2章 10年後、忍びの誓い
元亀元年(1570年)春――。
十年前とは、何もかもが変わっていた。
かつて境内に響いていた念仏と僧たちの読経は聞こえてこない。代わりに聞こえてくるのは槍を突き合わせる音、刀を打ち合う鋭い衝突音、甲冑の軋む音。
僧兵たちは己の武を鍛え、門徒たちは戦のための支度を進めていた。年端もいかぬ者までが武具を手入れし、傷だらけの槍を研ぐ。女や老人は、戦火が及ぶ前にと身を寄せ合い、避難の準備を整えていた。
戦が迫っていた。
本堂の奥では、顕如を囲むようにして高僧たちが座していた。
「信長の軍はすでに動いている。戦は避けられませぬ。」
「この本願寺を捨てることはできぬ。戦うほかありますまい。」
重々しい沈黙の中、顕如は静かに目を閉じた。
「……本願寺は戦う。門徒たちの信仰を守るために。」
その言葉が下されると、僧たちはそれぞれの決意を胸に頷いた。
本願寺の僧は、結婚が許されていた。
皆、自分の妻子を気にしているような素振りを見せながらも、絶対に護り抜く。そう決心したのだ。
その場にいた頼廉は、ゆっくりと立ち上がると、深く頭を下げた。
「必ずや、この本願寺をお守りいたします。」
その瞳には、決して揺るがぬ覚悟があった。
この本願寺の未来、僧、顕如。
そして、10年も共にした希助。
殺してはならない。消してはならない。
責任感が、頼廉を支配した。
頼廉が本堂を出ると、境内では僧兵たちが武具の手入れをしていた。彼らの表情はどこか張り詰め、しかし戦う覚悟を秘めている。
その中を歩きながら、頼廉は奥の書院へと向かった。
そこには黒装束を纏った希助が待っていた。
「お呼びでしょうか。」
頼廉は机の上に置かれた書状を手に取り、静かに言った。
「信長の間者が、この本願寺に潜んでいる。」
希介の瞳がわずかに光る。
「……探れ、ということですね。」
頼廉は頷いた。
「敵の狙いは明白だ。我らが内部から崩れれば、戦う前に敗れる。」
「間者を見つけ出し、排除する。よろしいですね?」
「抜かりなくやれ。」
希介は無言で頷くと、ふっと微かに笑った。
「……頼廉様が、私を呼ぶ時はいつも危険な仕事ですね。」
頼廉は眉をひそめるが、希介はそれ以上何も言わなかった。ただ、すっと踵を返し、闇の中へと消えていく。
頼廉は、その背を見送りながら静かに呟いた。
「……死ぬなよ。」
人の命が簡単に消えることを良く分かっていた頼廉は、希助を失うことがとても恐ろしい事だった。
10年も共にして、今更失うなんてありえない。
そんな希助を、厄介なことに巻き込ませたくない。いや、死なせたくないのだ。だが、忍びという以上、戦って貰わなければない。
それが、戦国という世の中であった。
希介の姿は、すでに消えていた。
間者を暴くための、命がけの潜入が始まる――。
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