第3話「行って、⋯⋯帰ます2」

 この日、まだ3月を前に富士スピードウェイはどんより曇った生暖かい天候だった。

 怜は遥から告げられたピットインを前に、半周だけのタイムアタックにのぞんでいた。

 第1コーナーの入口で2台パスして出口をテールスライドを抑えながら駆け下りる。

 シケインまでの緩い左をスピードに乗せて切り返すと、さっき抜いた1台がすぐ後ろに着けた。

 「抜けずにいたのか⋯⋯今日は一般人もいるからな」

 サーキットの練習走行は一般開放される日は混み合う。

 怜たちのようなプロを目指す者もいれば、サーキットライセンスを取りたての自称走り屋やビギナーもいる。

 怜も高校3年の時に初めてサーキットを走った時にそのレベル差に驚いた。そんな混走状態でのタイムアタックは至難の業だった。

 そういう時は第1コーナーからヘアピンコーナーまでといった空いたスペースを使い、区間を決めたタイムアタックをするのが上級者のセオリーだ。


 ピタリと後ろにつけたマシンに怜は見覚えがあった。大会常連チームのエースライダーだ。

 初心者に詰まっていたところを抜かれて気を悪くしたのか、怜の後ろ2mにピタリとついてくる。

 「ヘアピンコーナーまでだが、やるか?

 遥の「指令」を無視する気はないが、売られた勝負を買わないのは野暮ってもんだ。行くぞ」

 第1コーナーからシケインまでは下り坂だ。

 テールスライドをコントロールしながら、タイヤが路面を捉えるギリギリで駆け下りる。

 加速Gで骨がおいていかれる錯覚を覚える。

 視界が霞む。

 (パアァアアアア カアァアアア アアアアーー)

 シケイン手前、後ろに聞こえる排気音は離れない。

 「やるなぁ じゃあ、これでどうだ?」

 (ギャヒィィ キィィィーーーン)

 2テンポ遅らせたブレーキングで鋳鉄のディスクローターが摩擦熱で真っ赤に燃える。フルボトム位置まで沈み込んで、カタカタ震えるフロントサスペンションに車体の数倍の重力がのしかかり堅牢なアルミフレームもよじれて不安定にユラユラ揺れている。

(キュキュァアア ギャッギャッ ギャッ)

後方の排気音がわずかに遠のく。

 「くっ、オー、バー、スピードだっつーの!!」

 (ズバッ)

 コーナー進入で不安定に揺れる車体を、ねじ伏せて旋回力に換える。シケイン入口、オーバーランのラインは荷重の抜けた後輪がダダダッと音を立てて流れたあと、鼻っ面がクリッピングポイントに向いて後輪の滑りがピタリと止まる。

 「よし、いい子だ。引き離すぞーー」

 怜はアクセルワイヤーがスロットルバルブを引くイメージが見えるほど、慎重にアクセルを開けた。

 (キュアァーー ギャッ ギャ)

 オーバースピードの慣性力が残るまま、怜がさらに加速しようとした時だった。さすがに耐えかねた後輪がスリップサインを路面に残しながら流れた。

 咄嗟にカウンターを当ててコントロールしようとする怜のアクセルワークが僅かに粗くなった瞬間だった。

 RSの後輪がグリップを回復した。

「ハイサイド」だ。


(キュキュァアアーーー ギャッ!!)

 RSは怜を振り落とそうと車体を捩って暴れる。怜はRSのスクリーンカウルをヘルメットで突き破りながらも、ハンドルに掴まる握力を振り絞ってジャジャ馬にしがみつく。

 二撃目の跳ね上げが怜の腰から上を高々と跳ね上げた。怜はハンドルを握って倒立状態の体を力ずくの腕立てでRSのシートに戻す。

(ドスンッ)

 辛うじて転倒は免れたが、バランスを崩した怜のRSは続く130Rのバンクへの加速でアッサリ抜かれた。

 すぐに後ろに張りついて130Rのバンク頂上まで駆け上がり、ヘアピンコーナーへの下り坂で抜き返せないことを悟って、怜はスローダウンした。

 「ふぅ⋯⋯ 今日のところはここまでだ。遥さまに怒られるんでな」

 壊してしまったスクリーンを省みて、危うくニューマシンを大破させそうになった事を、どう茂樹に言い訳しようか頭を冷やしていると、300Rを立ち上がったところで、コーナーポストにいるオーガナイザーたちが一斉にレッドフラッグを振りはじめた。

 「レッドフラッグ!? ⋯⋯何ごとだ?」


 「レッドフラッグ」は走行中止の合図だ。

 コース上の異物やオイル、転倒者を知らせてくれるイエローフラッグが出ることはよくあった。

 しかし、転倒時に避難するエスケープゾーンが広いこのコースで、レッドフラッグは珍しかった。

 富士山麓にあるこのコース特有の深い霧もでていない。

 路面も凍結していない。

 おそらく事故だ。

 怜はなんとも言えない嫌な予感がした。


 スローダウンしたマシンの先頭を走っていた怜は、グランドスタンド前の広大なメインストレートに出た瞬間、自分の目を疑った。

 道幅25m、約1.5Kmの広いコースいっぱいに大小様々な得体のしれない「なにか」が散らばっていた。

 初めて見る異様な光景だった。

 怜は何が起きているのかわからなかった。

 最終コーナー内側にあるピットロードへの入口は封鎖されていて、メインストレートの終わり付近に臨時の出口が作られていた。

 メインストレートの端を係員に誘導されながら、一列になって走っていくと、コースに散らばった「なにか」がオートバイだとわかった。

 弧を描く金属塊は、いくつかに割れてグニャグニャに歪んだ元ホイールだとわかった。

 飛び散ってスタンドの金網やアスファルトに貼り付いている黒塊は、粉々に千切れて飛び散ったタイヤだった。

 スイングアーム、フレーム、エンジンさえ、車体はものの見事にバラバラに砕けていた。


 「こ、こりゃすげぇ⋯⋯ どうやったらこうなるんだ」

 思わずつぶやいたが、続く言葉を失った。

 金属でできたオートバイがここまで粉砕されるには、いったいどれほどの衝撃が働いたのだろう。

無意識に考えないようにしていた言葉が口をついた。


 「乗っていたヤツは⋯⋯」

 予感にも似た不安が走る。

 見たくない。本能的に視界が狭まった。

しかし、グランドスタンドの中央当たりで、怜は「それ」に出くわした。

 元人間だったらしい、それに。


 精気をまるで感じない人型の「物」だった。

体躯は地面に張り付いたように薄く平らで、手足は布切れのように絡まり、不自然な方向へ投げ出されていた。

 ヘルメットをかぶった頭部だけが立体を残し、顔のあるシールド面は体と反対を向いていた。

 怜は反射的に目をそらした。


 ホームストレートでの事故、車両2台の追突事故が事の始まりだった。

 追突されたのは初心者。

 追突したのは上級者。

 上級者は⋯⋯、直前まで怜とバトルしていたあの常連チームの奴だった。

 今日は所属チームのマシンテストに来ていたはずだ。パドックではしゃぐ彼を思い出した。

 怜と同じように、ニューマシンに希望を託していた。

 そばにいた、彼の恋人の顔が浮かんだ。


 彼は怜と同じようにニューマシンのセッティングを終え、タイムアタックを開始した矢先の事故だった。

 スローダウンした怜を振り切り最終コーナーをフル加速で立ち上がる彼の前に、ピットロードに入ろうとしていた初心者が再びコース中央に飛び出したことで2台は接触した。


 スピードの乗る直線での接触はもっとも危険な事故のひとつだ。後続車は前走車の高速で回る後輪に乗り上げ、ロケットのように真上へ打ち上げられる。競技用に造られた戦闘機2台分の強力なパワーが、後続車両に凶器となって襲いかかる。

 最高速度に近いスピードで宙に舞い上がったマシンとライダーはもう誰にも止められない。大車輪のようにアスファルトの路面を転がり、もんどり打ち、原型をなくすまでその回転が止まることはない。

 ピットロードでライダーの帰りを待つチームメイトや恋人の眼の前で起こる悲劇は、想像を絶する絶望を叩きつける。

 エスケープゾーンに滑り出すことも許されず、後続車がその悲劇に突っ込んで行った。


 この事故はこの世のすべての不幸を呼び寄せるように起きたものだった。

 転がったヘルメットの数だけが、被害者の人数を知るすべとなる凄惨な事故だった。

 メインストレートに転がったヘルメットが全て病院に運び出されるまで、パドックからの悲痛な叫びは続いた。



 パドックに戻った怜の元に、遥は泣きながら走ってくると、マシンにまたがったままの怜に抱きついて激しく泣いた。

 怜は、ただ強く抱きしめることしかできなかった。

 もし遥からピットインのサインがなかったら、この事故を起こしたのは怜だったかもしれない。

 そのことが二人の胸を締めつけた。


 怜はその日、あらためて自分のいる場所を知った。見守る者の恐怖は、自分でオートバイを操縦する、自分の恐怖を超えるのかもしれないと思った。

 その夜、怜はレーシングスーツの内ポケットに遥からもらったお守りを入れた。

 コースインゲートに並ぶ時、スターティンググリッドでシグナルブルーを待つ時、怜は胸に手を当て呟く。


 「行って、⋯⋯ます」

 自分の無事を祈り、待ってくれている人の元に、必ず帰る。

 その儀式が、怜をさらに強くした。

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