Episode4:あの世で会いましょう
ある日、《MIA》という名前からインターネットを経由して連絡が来た。どうやら、僕の小説を読んで感銘を受けたらしい。
この頃、僕は自分の書いた小説をネット上に投稿していた。読み手が生まれて初めて、小説は完成すると思ったからだ。でも、最初の方はなかなか読者がつかなくて苦労した。今の時代、どんな拙い作品でも簡単にweb上に投稿できるようになっているから、世の中には、需要をはるかに上回るほどの創作物が存在する。僕は、自分の小説が優れているとは思わなかったが、少なくとも人並み程度には面白く書けているだろうと思っていた。ある意味では、僕が体験した奇妙な世界をそのまま文字に起こせば良かったから、SFだろうとファンタジーだろうとリアリティという面での説得力はかなりある方だろうと思っていた(何せ、それはこの現実世界で実際に起こったことなのだ。)しかし、現状として、今の時代の読者が求めているのは、本格的なSF作品でも、リアリティのあるファンタジー作品でもなかった。彼らが読みたいのは、異世界転生モノや甘い恋愛モノなど、簡単に理解することができ、自分の欲望のままの世界が表現された小説が多かった。僕はそれらを否定しようとは思わないが、そればかりになってしまっては間違いなく小説の価値は下がっていくだろうと思っていた。だから、僕はそんな小説社会に少しでも良い風向きを与えることができるように、とりあえず自分の納得できる小説を書こうと努めた。自分がこれまで生きてきて、切実に感じ続けてきたこと、この世界こそが、不思議の国そのものであること、SFは、本当は「フィクション」などではないことなど、全てのメッセージを込めた。小説を書くのは決して楽ではない。むしろ、苦しいとも言える作業だ。でも、何かを創作するとは、根本的には「苦しみ続ける」ということだし、苦しんでいなければ良い小説など書けないと思う。何か悩みやアウトプットしたい事柄があるからこそ、小説家は小説を書くのだ。それに、僕は小説を書くのをやめたら、またあのおかしな世界に足を踏み入れることになる。それだけは避けなくてはいけない。そのように、僕は毎日パソコンで何ページも小説を書き続けた。下手だったタイピングも今ではかなり速く打てるようになり、小説を書いていない時でも指が勝手に動くくらいになった。僕は、小説を書くことにおいて、読書の時ほど中毒的ではなくなったような気がした。ある程度普通の学校生活を送ることができるようになったし、息抜きに友人たちと遊んだり、家族で旅行に行ったりもできるようになった。それでも、僕の体の中心には、やはりどこか読書に対する欲望の疼きのようなものが存在していた。本を読めないなりに、僕は映画を見たり、漫画を読んだりして想像力をインプットしていたが、それではやはり脳の核にまで届いているような気がしなかった(良い気晴らしにはなったが。)そして、僕はまだ友を亡くしたショックから立ち直ることができていない。彼は、僕の小さい頃からの幼馴染だった。保育園、小学校、中学校とずっと一緒に通い、クラスも一度しか違ったことがない。学校が終わると、毎日必ずどちらかの家に遊びに行き、ゲームをしたり、外でサッカーをしたりした。高校が別々になっても、僕らはたまに連絡を取り合い、一緒に食事をしたり、カラオケに行ったりした。僕が読書中毒になって、明らかに様子がおかしくなってからも、彼は心配して僕に連絡をくれていた。僕はその時期、読書のために断固としてスマートフォンもパソコンも見なかったので、彼からのメッセージを見たのは、彼が死んだという知らせを受けてからだった。彼は電車の中で刺殺された。
犯人は、無職で中年の男。
リュックの中に出刃包丁を隠し持っていた。
彼は犯人に抵抗しようとした。だが、一緒にいた妹を守るために、犯人の前に立ちはだかった。そして、彼の胸には、鋭い包丁が突き刺さった。即死だったと言う。
彼を襲った理由は、
「女子と楽しそうに話す彼が、キラキラして見えたから。キラキラしているやつなら、誰でもよかった。」
キラキラしてるって、なんだ?
彼にも、複雑な悩みがあったと言うのに。
勝手な思い込みで、誰に彼を殺す権利がある?
最初、僕は彼がいなくなったことが実感として湧かなかった。葬式で彼の写真が飾られているのを見ても、何かの茶番のようにしか感じることができなかった。彼はいつも笑顔で、明るくて、おちゃらけていて、それでいて繊細だった。僕は、彼に幾度となく自分の心の深いところにある悩みを打ち明けた。その度に、彼は熱心に僕の話を聞いてくれて、自分の抱えている悩みも教えてくれた。彼は、学校ではいつも成績が良くて、運動神経も抜群だったので、たくさんの女子から(もちろん男子からも)頼られ、人望があった。それに、優しい性格だったから、みんなが彼のことを好きだった。僕は、そんな彼に悩みがあるなんて思いもしなかった。実を言えば、心の底で僕は、ずっと彼に憧れ続けてきたのだ。でも、彼は実に複雑で、暗い悩みを抱えていた。優等生でいなければいけないというプレッシャー、親の期待に対する葛藤、空っぽになることへの宿命的な恐怖、そして、他人から平等に見てもらえない苦しみ(尊敬されたり、恋愛感情を持たれたりはしたが、本当に自分と対等に話し合ってくれる人がいなかったのだ。)彼は、「お前だけだよ、俺の話をわかってくれるのは。」と言った。だが、僕は彼に憧れ、時には嫉妬までしたのだ。そんな僕に、彼の親友を名乗る資格はない。
彼はある日僕に話した。
「俺は、空っぽになってしまうのがたまらなく怖いんだ。」
僕は首を傾げる。
「空っぽ?」
僕から見れば、彼の生活はとても充実しているように見え、彼もそれを楽しんでいるように思えた。
「ああ、俺は、今まで何も自分で決めてこなかったような気がするんだ。親の期待に応えるために勉強をして、みんなに好かれるために自分の良いところだけ見せたり、頼まれたら宿題のノートを見せてあげたりした。相談にも乗ってあげたり、人手が足りない時は積極的に手伝ったりもした。とにかく、みんなのためになろうと努力してきた。でもな。そんなことばかり続けていると、他人から見た自分と自分から見た自分の区別がつかなくなってくるんだ。常に他人にどう思われるかばかりを気にしている俺には、もう自分のことを他人のようにしか思えなくなってしまったんだ。経験してみるとわかるけど、そういうのって、すごく虚しいよ。俺は、自分を取り込んでいく、目には見えない虚無がすごく怖い。どんどん、自分が透明になっていく気がするんだ。まるで、人の魂が色をなくしていくように。」
そして、彼はその体を震わせた。
僕はその時の彼の目を今でも覚えている。
そこには、色がなかった。
すでに亡骸になってしまった人のように。
僕は、そんな彼への贖罪の気持ちをずっと心の中に抱えながら、小説を書き続けた。意外にも、地道な努力というのは報われるモノで、少しずつ、僕の小説にも読者が生まれてきた。僕の小説は(彼らが言うところによると)これまでにない、新しい「ライト文芸」なのだということだった。文学的な要素を含みながらも、SFファンタジーとしてエンターテイメント性の高い作品に仕上がっている、それが彼らの僕に対するおおまかな評価だった。僕の小説は、文体も柔らかく、僕が見ていた漫画などの影響もあって、キャラクターの言動がアニメーションのようだったので、それが今の時代の若い層にウケたということもあった。そして、僕のフォロワーはある時には、破竹の勢いで伸びていき、すぐに一万近くまで上り詰めた。僕は、そんな世間からの評判に自分でも驚きながらも、どこか承認欲求が満たされていくのを否定することはできなかった。なるほど、これが他人から認められると言うことなのか。悪くない。そんな風に、僕は心に狂気と深い傷を負いながらもどこかで調子に乗り始めていた。
《MIA》から連絡が来たのは、そんな時だった。彼女は、自分を「あの世の住人」なのだと名乗った。そして、「あの世」には、《メタファー》と呼ばれる不思議な存在が蔓延っているのだということを教えてくれた。彼女は、恐竜たちの世界を描いた僕の小説に深い感動を覚えたそうで、何故生きている人間がこれほどまでにリアルな「あの世」の姿を描くことができたのか知りたがっていた。そこで、僕はあることを知る。彼女の言う《メタファー》(あの世の人々の魂を喰らい、全てを無に帰す恐ろしい存在だ)と言うのは、僕が目にした「恐竜たち」そのものであったと言うことだ。僕は彼女が《メタファー》のことを「オオトカゲ」と表現した時に、そのことを理解した。そして、彼女の《メタファー》が蔓延る「あの世」についての話は、まさに僕が体験した世界そのものだった。空飛ぶイワシ、異国の景色、逆流する時間...それら全てを彼女は知っていた。
「あの世は、確かにこの世と同じ場所に位置しているんだけど、世界の成り立ち方というものが、この世とは少し違うの。例えば、時間の流れかたや、常識というようなものがね。そして、あの世は、この世とは違って、『色』と言うものの概念が曖昧なの。だから、私の髪の色だって毎日変わるし、あなたが見たように道路の色だってコロコロ変わってしまう。まあ、私に関しては幽霊の《個性》で髪型まで変わってしまうんだけどね。」
「個性?」
「うん、幽霊には肉体がないから、自分の魂を覆う殻は自分で創造しなければいけない。要は、センスが問われるわけね。身長も、髪型も、肌の色も、常に心の中で意識していないと、イメージがあやふやになってしまう。幽霊がずっと同じ見た目のままでいるのは至難の業なの。ひどい時は、人間の形を保つことさえ難しい。だから、私たち幽霊は自分の見た目に関しては一部オート機能で動かしている。形をランダムにする代わりに、無意識下でもしっかりと殻を保てるようにしておくのね。それが幽霊の《個性》。私の場合は、髪の毛に個性を与えた。」
僕は、彼女の髪のことを考えた。
彼女は今、どんな色の髪の毛を頭に生やしているのだろう?命がないと言うのに、その髪はどのような活動を象徴しているのだろう。
彼女は続けた。
「それと、恐竜のことを教えてくれてありがとう。私、あれはただの大きいトカゲだと思ってた。」
僕はパソコンで文字を打ち返す。
「うん。まあ、どっちも似たようなものだけどね。」
それから僕は、毎日夜になると、彼女とメールでのやり取りをするようになった。彼女に、「あの世」について教えてもらうことは、僕の創作活動についてある種のインスピレーションになると思ったからだ。
僕は、彼女が「あの世」の住人だと知り、MIAに、僕の親友があの世で元気にしているかどうかを尋ねた。
たとえこの世にはいなくても、彼があの世で幸せに暮らしているならば少しは救われる。
しかし、彼女は言った。
「あの世には幽霊がたくさんいるから、どれがあなたの親友なのか、私にはわからない。自分から主張してくれれば良いんだけど、幽霊には生きていた頃の記憶はないから。でも、こういうのはどう...?」
彼女は、僕に提案した。
理不尽な暴力で「あの世」に行ってしまった親友を取り戻すことを。つまり、僕が「あの世」から彼を連れ戻してくると言うことだ。
「そんなことができるの?」
ミアからすぐにメッセージが返ってくる。
「ほんとはいけないことなんだけど、
キミが来てくれると私も嬉しいし、何よりキミはその親友を助けたいんでしょ?だったら、やるしかないじゃん。大丈夫。あの世への入り口の座標はしっかり教えてあげるから。」
そして、彼女はある地点のGPS情報をメールに添付した。
「今週の日曜日、午後6時にここに来て。
あの世で会いましょう。」
日曜日になり、僕は彼女に提示された座標の場所へと向かった。そこには、足が棒になってしまうほど長く電車に揺られ、バスのふっくらとした座席でぐっすりと眠った挙句に辿り着いた。座標の場所は、もう太陽が沈みかけた、田舎町の外れにある山の中だった。山の麓には、神社があり、二つの狛犬は至って真面目に鳥居の前で門番を務めていた。僕はまだ眠い目をこすりながら、神秘的な雰囲気の神社の階段を登っていく。境内に辿り着き、僕はお賽銭を500円投げ入れた。そうすることが必要だと、彼女からのメールに書いてあったからだ。天井から垂れ下がった鈴を鳴らし、祈りを捧げる。その間、僕は神について考える。神という存在は、本当にいるのだろうか。日本では、神は自然や人の心、石ころに至るまで万物に宿り、我々を見守っていると言われている。しかし、だとすると人間は神にひどく嫌われてしまっているのではないかと思う。だって、川にゴミは捨てるし、戦争はやめないし、石ころは蹴飛ばすし、ひどい態度じゃないか。それはきっと、神も怒るだろう。あるいは、神などいないのかもしれない。それは、人間が歴史の中で民族の統率のために作り出した、仮想の存在に過ぎないのかもしれない。でも、幽霊だって本当にいるのだ。神だって、いないとは言い切れないのではないか。
「やあ、やっと来たね。」
そんな声が聞こえて、僕は咄嗟に後ろを振り向く。そこには、一人の女性がいた。茶色のロングストレートヘアをした、すらりと背が高い女性だった。彼女は、派手なパンクファッションを着こなし、ストリート風のキャップ(もちろん丸いシールはついたままだ)をつけていた。彼女はしばらく手で帽子の形を整えてから言った。
「約束通り、あなたも帽子をちゃんとつけてきたのね。」
ミアからのメールで、「茶色のハンチング」を身につけて欲しいと言われたので、僕は先週、頑張って下北沢の古着屋でハンチング帽を探し、今日ここまで身につけてきたのだ。僕は帽子をつけるのが好きではないが(圧迫感が嫌いだから)、あの世に行くには、この装備がどうしても必要なのだという。
それよりも、僕はその女性にどこか見覚えがあった。彼女のすこしハスキーな声にも、何故か聞き覚えがあるような気がした。また、理由はないが、彼女は茶髪よりも黒髪の方が似合うような気がした。
「ねぇ、何か言いなさいよ。」
彼女がしかめっ面をして、僕の方に近づいてくる。その少しイラついたような様子を見て、僕は思い出した。そうだ、黒髪の彼女はテレビでもこんな感じの表情で歌っていた。
僕は驚いて聞く。
「君、まさか歌手の『SATOMI』?」
彼女はキョトンとしたような顔になる。
いいや、そんなわけがない。
彼女がおそらくミアなのだ。
僕は落ち着いて考え直す。
「ううん、まさか。
SATOMIはまだ生きているはずだ。
僕は何を言っているんだ。」
しかし、彼女は嬉しそうな顔をしていた。そして、僕の方に駆けてきて、強い力で手を握った。指が外れてしまいそうなほど強い力だった。
「え、私のこと、覚えてるの?
超嬉しい!私のこと知ってる人と、すごい久しぶりに会ったから、もう忘れられちゃったのかと思った。やっぱり、私もまだまだ大丈夫ね。あー、よかった!」
彼女はほっとしたように息を吐く。
「それと、私はミアじゃないわ。
あなたの言う通りのSATOMI!
歴とした生きている人間よ!」
「やっぱり!?」
僕は彼女の凄まじい勢いに負けそうになりながらも、SATOMIの意外なギャップに驚いてしまった。
「あれ、君、テレビとかライブではもっとクールな感じじゃなかったっけ?僕、一時期、割とファンだったんだけど...。」
彼女はニヤリと笑う。
「バカね、あれはキャラよ!キャラ。
本当の私は、すぐに人肌恋しくなっちゃう、
ナイーブな少女なの!それより、私のこと好きだったってほんと?何の曲が好きだった?」
「うーん。」
僕は首を傾げて考える。
「初期の方の曲は全部聞いてたよ。
『Will』とか、『fight song』とか。
結構ロックな感じだったよね。」
彼女は頷く。
「うんうん、いいよね。初期の方の曲!
私も、最初はそういう方が好きだったんだけど、途中で色々なアーティストに出会って、影響を受けて、それでこの間までは割とバラードっぽい感じ?の曲を作ってたの。その辺は聴かない?」
僕は申し訳なく、小さ目に頷く。
「うん、最近はあまり聴いてないんだ...
ちょっと色々あって...」
当たり前だ。僕は読書中毒者だったんだから。あれ?でも、彼女って、たしか...。
「あれ、君最近も曲を出してたっけ?
それに、なんでここに?」
彼女は少し悲しそうな顔をして言う。
「ううん、歌はもうやめたの。
なんだか、もうやりたくなくなっちゃったから。それも、私がここにいる理由の一つなんだ。説明するから、ちょっとついてきて。」
SATOMIは、僕の親友が大好きなシンガーソングライターだった。彼は、彼女の曲をエネルギーにして毎日を生きていると言っていた。
「なんて言ったらいいかわからないけどな、SATOMIの曲はどこまでも純粋なんだよ。醜い欲望とか、綺麗事が一切含まれていない。だから、心に響くし、刺さるんだ。メロディも一級品だしな。」
彼はよくそう言ったものだ。
僕がSATOMIと会えたらと知ったら、彼は羨ましがるだろうな...。そう思いながら、僕は彼女の後を追って、山の奥深くに入った。
藪をぬけていくと、そこには井戸があった。
なんの脈絡もなく、唐突に井戸が掘られていたのだ。西洋風の井戸の周りには、白い小さな花々が咲き乱れていて、木々の隙間からは、赤い夕焼けが見えた。
「ここから、地下鉄に乗るわよ。
話はそこでします。」
「地下鉄?」
僕には意味がわかなかった。
地下鉄の駅など、どこにも見当たらない。
どこに駅があるの?と僕が聞こうとした時、彼女はハシゴに足をかけて、するすると井戸の中に降りていってしまった。
「ついて来て!」
井戸の中から、彼女の高めの声が響く。
僕は、上から井戸を覗き込んでみた。
しかし、そこに見えるのはただの暗闇で、彼女の姿はもう見えなかった。井戸の縁から吊るされた皮の梯子は、弱々しくだらんとしていて、今にもちぎれそうだった。それでも、僕は彼女についていくしかなさそうだったので、体を震わせながら、井戸の中へと入った。
井戸の中は、暗闇で何も見えなかった。
手元さえも定かではないが、もしはしごを掴み損ねたりしたら、井戸の底に真っ逆さまだ。それだけは、なんとしても避けたい。
ここで死んだら、あの世へは行けるかもしれないが、記憶も目的も、何もかもがパーになるのだ。
時間は無限に感じられた。あるいは、一瞬のようにも感じられた。とにかく、暗闇の中では時空が歪むらしいと言うことだけがわかった。僕は、いつのまにか地面に足をつけていた。そして、そこには地下鉄の駅があった。
天井には、それほど明るくない蛍光灯が光っていて、全体のスペースもそれほど広くない。少し大きいアパートの部屋みたいだ。壁や天井は古びていて、苔が蒸していた。足を踏み出すと、床はツルツルとすべった。
「こっちこっち!」
僕は、SATOMIに案内されるまま、駅の切符売り場に向かった。
そこには、丸い穴の空いたガラスの窓口があり、カエルのような顔をした駅員が顔を覗かせていた。彼は、どことなく不機嫌そうに僕らのことを睨んでいた。今にもゲコゲコと鳴き出しそうだった。
SATOMIは駅員に
「あのォ、ICカードと交換して欲しいんですけど...」と言い、駅員はカチリと2回机上のボタンを押した。
そして、僕らは駅員からICカードを渡され、ピッとタッチして、改札を通り過ぎた。
僕は疑問に思って、
「ねぇ、今ICカードと何を交換したの?
何も渡してなかったように見えたけど。」
とSATOMIに聞いてみた。
すると彼女は、特になんのためらいもなく、
「私たちの命よ。」と言った。
僕は驚きを隠せなかった。
「え、命?じゃあ、ぼくら、今死んでるってこと?」
彼女は頷く。
「うん。」
僕は開いた口を塞ぐことができなかった。
「まあまあ、安心して!
これは、一時的に命を担保にあの世へ行く権利を手に入れただけだから。
またあの世から帰る時に、私たちの命は返してもらえるわよ。」
僕は疑わしそうに彼女のことを見る。
「ほんと?でも、死んだっていう実感は湧かないな...。」
彼女はアハハと笑う。
「まあ、死ぬって案外そんなもんなのよ。
私たちは特別なルートを通って来てるから、記憶も失わないし、自分の形も損なわなくて済む。生きてるのも死ぬのも、ほとんど変わらないわ。案外、人の生き死になんて、それほど大事なことでもないのかもね。」
そして、僕らはホームのベンチに座りながら電車を待った。近くに自販機があったので、僕は缶コーヒー、彼女は葡萄ジュースを買って飲んだ。やがて、茶色の古ぼけた車両が、とても眩しい灯りを煌めかせてやって来た。
ドアが開くと、彼女は跳ねるように電車の中に乗った。僕らが乗った号車は、他には一人も乗客がいなかった。少し歩いて隣の号車をみてみても、やはり客はいなかった。僕らは、薄くて変な音がするシートに座り、お互いのことを教え合った。僕は彼女が音楽を辞めた理由を知り、彼女は僕が読書をやめた理由を知った。僕らは共に、かつては音楽と小説というツールにより、どちらも遥かなる空想世界と繋がっていた。しかし、今ではどちらもそのつながりを断ち切られ、今度はこの世との繋がりも失ってしまった。
「私たちが今向かおうとしているのは、
『幽玄街道』と呼ばれる幽霊達の住処。
そこは、この世とは全く成り立ちが異なった世界だから、普通生きた人間は足を踏み入れることができない。私たちのように、何か特殊なモノを持っている人しか、あの井戸のような入り口を見つけることはできないの。私は最初、ミアに案内されて、東京のマンホールから下水道に潜り、そこから地下鉄にたどり着いた。まあ、もう二度とあんな思いはしたくないわね。臭いし、ニオうし、臭いし。」
僕は、ジェスチャーを交えながら流暢に話すSATOMIの目を見つめる。ミアの名前を出した時、彼女の目は一瞬きらりと光ったような気がしたのだ。
僕は尋ねる。
「ミアは、どんな人なの?」
SATOMIは微笑む。
「ミアは、幽霊の女の子よ。
生きていた頃の記憶はないし、時々常識に欠けたようなこともするけど、とっても優しくて、強い人なの。」
僕は前から思っていた疑問を口にする。
「彼女はあの世の住人なのに、なぜこの世の僕らと連絡を取ることができたんだろ?」
ミアは僕のことを見つめる。
「彼女はインターネットを利用したの。
もちろん、あの世にもこの世と同じようにスマートフォンがあるんだけど、もともとそれはこの世とは全く種類の違う通信網で繋がっていた。でも、彼女はそこに抜け道を見つけたの。彼女がネットサーフィンをしていたら、何かのバグでスマホの画面が動かなくなったらしいの。修理に出しても、叩いても、中の機械をいじっても、それは治らなかったらしくて、彼女はもうスマホのことを諦めていたらしいのね。でも、ある日唐突にスマホは再起動を始めて、光を放ち始めた。彼女が喜んでロックを解除すると、そこには『5G』というアイコンが表示されていた。つまり、彼女は何かの手違いで、この世のインターネットに接続しちゃったの。」
僕は驚いた。
「じゃあ、彼女はたまたま僕らと連絡が取れるようになったってこと?」
SATOMIは頷く。
「ええ、そうよ。」
僕は尋ねる。
「彼女とは、どこで待ち合わせしてるの?」
彼女はグーサインをする。
「『碧いサカナ亭』っていう酒場よ。
大丈夫!何度も行ったことあるし、あの辺の地理なら、私、詳しいから。」
僕は感心して頷いた。
「君はあの世に慣れているんだ。」
「えへへ、まあね。」
「ここが、幽玄街道よ。」
僕らは、モニターに「幽玄街道駅」と書かれた駅で地下鉄を降り(どうやらまだここは終点ではないらしい。その証拠に、他にも不思議な駅名があった)、同じような寂れ方をした駅の階段を登った。駅の出入り口は、世界の果てのような場所にあった。崩れた住宅街、苔むした映画館、とっくに干からびた公園の噴水、草一つない荒れ果てた大地、ジリジリと嫌な空気が漂う不毛の世界。そんな中に、駅はポツリとその壊れかけた看板を掲げていた。駅の後ろには、地平線の先まで金網のフェンスが伸びていて(まるで、ベルリンの壁のように)その向こうにはたくさんのビル群が並んでいた。だが、それらのビルも何だか不気味な光を放ち、とても心地よい場所とは言えそうになかった。
(あれが、幽玄街道?
これじゃあまるでディストピアだ...。)
彼女は僕の手を取って、フェンス沿いに道を進んだ。地面は凸凹としていて、とても歩きにくかったが、彼女はそんなこと気にせずにずんずんと進んだ。やがて、フェンスに、何者かによって壊されたかのような(人一人なら頑張れば通れそうな)穴が空いていた。彼女は、先にそこを潜り抜けると、僕にも「潜って。」と言った。僕は、金網に洋服を引っ掛けないように気をつけながら、その小さな穴を潜り抜けた。
僕らはビルの路地裏へと入った。
真っ暗で、何も見えない。空気は澱んでいて、埃っぽい。ハウスダストアレルギーの僕にはたまらなかった。黒いビルによって区切られた空は、曇っているせいで星一つ見えない。
ビルの窓からは、カラフルな光が溢れ、ぼんやりと地面を照らしていたが、あたりには物音一つしなかった。僕らは道を進み続けたが、路地は入り組んでいて、何度曲がっても終わりがくる気配はなかった。曲がり角が来るたび、SATOMIは自分の記憶の層を辿っているようだった。そのうち、SATOMIは腕を組んで、立ち止まる時間が長くなった。
「う〜ん...。」
僕は、まさかと思い尋ねてみた。
「どうしたの...?」
彼女は舌を出して、申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、迷っちゃった。」
嫌な予感が当たった。
「やっぱり...。」
僕らが困って立ち止まっていると、後ろから僕の肩を叩く手があった。なんだか、ザラザラとしていて重い感じの手だった。僕は驚いて身をすくめ、咄嗟に振り向いた。
すると、そこにはサメのような顔をした男がいた。口は耳(あるいはエラ)まで裂け、笑った顔からは鋭い牙がはみ出していた。目はギョロリと飛び出し、墨汁で塗りつぶしたかのように真っ黒だった。大柄な身体にはしゃっきりとしたスーツを見に纏い、頭には黒いハットをかぶっていた。彼は優しい声で言った。
「なにかお困りですか?」
SATOMIは嬉しそうな顔をして言った。
「あっ、サメの幽霊さんですか!
良かった。私たち、道に迷っちゃったんです。碧いサカナ亭という酒場を探しているのですが...。
申し訳ありませんけど、道を教えていただくことはできますか...?」
すると、その男は、手を広げて、うんうんと頷いた。
「ああ...それはお気の毒に。
この地帯は、初めての方にはとても難しい土地柄ですから、迷うのも当然です。
最近は、人攫いも頻発していると言いますし...いいでしょう、私が案内して差し上げます。
どうぞ、ついて来てください。」
彼は、僕らの手をがっしりと掴むと(それは必要以上に強い力だったような気がする)、入り乱れた路地を自身のある足取りで歩き、すぐにネオンの光が輝く大通りへと僕らを案内してくれた。
そこはまるで、SF映画に出てくる近未来の都市のようだった。空飛ぶ車こそ飛んではいないが、巨大な宣伝モニターが歌声を響かせ、通りに立ち並ぶ店の先には見たことのない機械が並んでいた。道沿いには、酔っ払いが倒れていたり、乞食のような幽霊もいたが、派手な服装をした人間のような幽霊も見つけることができた。その他には、ライオンのような顔をした男の人、カタツムリのような(あるいはエイリアンのような)触覚を持った女の人がいたりした。牛やカナブン、マンボウやミジンコなど、みんな顔は特徴的だったが、おしゃれな洋服を着て、体は人間そっくりだった。
僕の驚く様子を見て、サメ男は言った。
「この街には、たくさんの幽霊がいます。
生きている時に人間だった物だけではなく、
動物、魚、虫、微生物だったもの...。みんな個性豊かです。この町では、多様性が発展しているのです。でも、いろいろな幽霊がいるということは、残念ながら治安もあまり良くありません。碧いサカナ亭まで、私が案内してあげましょう。」
僕らは頭を下げた。
「ありがとうございます。
このご恩は忘れません。」
彼は何の気なさそうに首を振る。
「いいえ、同じ幽霊、困った時はお互い様ですよ。」
彼の言ったことに、僕は少し疑問を抱いた。
「幽霊?」
「え?」
彼はキョトンとした顔で僕を見つめた。
僕はSATOMIに聞いた。
「ねぇ、僕らは幽霊じゃなくて、一応まだ人間だよね。命はないけど、あの世の住人ではないわけだし...。」
SATOMIは「まずい!」という顔をして、僕の口を塞ごうとした。しかし、もう手遅れだった。
「おい、今なんて言った...?」
サメ男の顔色が変わった。
彼の目は、まるで血に飢えた人喰いザメのようにギラギラと輝いていた。
僕はここで本能的に感じた。やばい!
「今、お前ら、『人間』って言ったよな。俺は、生きてる時の記憶はなくても、現世でサメが人間達にどんな扱いを受けてるか知ってるぜ。どうやってここに来たのかはしらねぇが、俺は、フカヒレにするためだけに殺された仲間達の恨み、忘れちゃいねぇぞ!」
そして、サメ男はその恐ろしい口を広げ、僕らに噛みつこうとした。彼は、まるで海の中の泳ぐようにものすごいスピードで駆け寄って来た。街中を歩く人はサメ男には無関心で、関わりたくないというような顔をしていた。僕らは、逃げようとしたが、すぐに追いつかれてしまい、頭を丸ごと食べられそうになった。
そんな時、後ろから声がした。
「死ね!かまぼこ野郎!」
そして、レーザービームがサメ男の後頭部を貫いた。サメ男は、驚く隙もなく、また声を上げる暇もなく、地面にばたりと倒れた。そして、しばらくすると彼の身体は消滅してしまった。まるで、シャボン玉が空気中で弾けるように。
SATOMIは嬉しそうな声で叫んだ。
「ミア!来てくれたの!」
声の主は、やれやれという風に首を振る。
「あーぁ、キミなんかにお迎えを任せるんじゃなかったよ。」
そこには、肩までピンク色の髪を垂らした、
中学生くらいの少女が立っていた。
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