生を飼う

雪村リオ

生を飼う

 私は生き物全般が嫌いだ。

 生命の生暖かさ、力強い鼓動、安堵させるかのような安らかな吐息。

 そのすべてが煩わしく汚らわしいように思ってしまう。

 母が抱きしめてくれた温もりも、父の励ましの声も、私を慕ってくれる健気な妹も、全部、全部大嫌いだ。


 パリン、軽い音をたて写真立てが床に落ちる。

 それを拾い上げようとしゃがみこんだ途端、軽快な音色が鳴り響いた。

 スマホを手に取り、見知らぬ番号に出るべきか少しためらってしまうが、妙な胸騒ぎがして電話に出てしまった。

宵河よいかわ美咲さんですか? 落ち着いて聞いて下さい。アナタの……」

 電話口から淡々と告げられる非現実的な言葉を受け止めるにはまだ早すぎた。

 突然、自分の家族が全員死んだと聞かされて受け入れられるはずが無いし、自分だけが置いていかれたなんて、信じたくないからだ。

 どうして、そんな言葉さえも出ず電話が切断された。いいや、自分で切ってしまったのだ。

 もう一度電話の着信音が鳴り響く。

 電話番号は先程と同じ。

 出たくない。けれど、でなければ。

 震える手で電話をもう一度取った。

 家族が死んだ知らせを受けとり、何をすればいいか分からなくて、滅多にかけない番号、ただ連絡先を気まぐれで入れているような叔母の番号に掛けた。

 私は何も出来なかった。

 すべて叔母に任せきりにして、私は誰もいない伽藍洞な家で非日常を過ごした。

 数日も立つと葬式の準備を終えたようで、葬式の招待状が届いた。通夜は叔母の予定の関係上なのか、式場の都合が悪かったのか、執り行わないようで、葬儀の日付に合わせて私は会社に忌引き休暇の届けを提出した。

 さて、葬式が始まるのならば何が必要かという考えに真っ先に思い浮かんだのは、喪服であった。

 社会人になったばかりの私には喪服の準備なんてものはなく、スーツで代用しようにも喪服に近い深い黒色ではないので、少し浮いてしまう。

 お金も、社会人になったばかりの私には貯蓄というものが一切無かった。

 どうしたものかと悩み、叔母に相談してみれば、母の喪服に袖を通せばいいという提案をされた。

 母の喪服が私に合うのかと不安に思いながら袖を通す。ブカブカでもキツくもなく、私に合わせたかのようにぴったりだった。いつの間にかお母さんと同じ背恰好になっていたようだ。ほんの少しまであんなに大きかったのに。

 しんみりとそんなことを思いつつ、チャイムが鳴り響いた。

 叔母家族が迎えに来てくれたようだ。

 黒い乗用車に乗り込み、後部座席で小さく窓に寄りかかってぼんやりとしていたらあっという間に葬式場にたどり着いてしまった。

 手続きを済ませ、親族席に座りこむ。

 待っている間に首元の真珠のネックレスが異様に重たく感じ、息苦しく思ってこの場を去りたくなった。

 しかし、この場から出ていくなんて到底できるはずもなく俯いてただ時間が過ぎていくのを待つ。

 ふと、顔を上げてしまい三人の遺影を見てしまい、ほろり、と涙がこぼれた。

 こぼれた涙の理由が分からずに困惑しつつハンカチで目元を拭った。

 湿った紫色のハンカチを握りしめて、誰かの怒号を聞き流しながら他人事のように三人の遺影を眺めた。

「なんで、なんで、アンタなんか……。アンタが、お前が……たら……兄さんは……」

 兄さん……嗚呼、竜介叔父さんか。

 事故を起こした若い男に泣き縋っている見知らぬ老人が三年前に見た従兄弟の澪ちゃんの結婚式の時に見た姿よりも皺と白髪の増えた叔父なのだと理解しても、何処か他人事のようにしか思えない。

 私も事故を起こした相手の男を怒らなければいけないのだろう。でも、そんな気力、湧かない。

 湧けない。

 頭の中に霞がかったかのような、一枚のDVDを見ているような、何故か自分のことのように思えないのだ。

 男が逃げ去っていき、叔父は泣き崩れながら親族席に戻っていく。

 静寂を取り戻した葬式場に住職の格好をした坊主頭が奇妙な呪文を唱える。

 手順のわからない焼香を見様見真似で行い、お悔やみの言葉を告げられながら別室に案内される。

 数々の大皿に乗せられたご飯を口に運び、親族や家族の知り合いの言葉を聞き流しながら、ゆっくりと咀嚼した。


 翌朝、従姉妹である澪さんの部屋で目を覚まし、叔母の運転で火葬場に向かう。

 火葬場に向かう間、誰一人として言葉を発しなかった。


 家族たちが入った棺桶が並んだ火葬炉に順番に入っていく。

 ゴオゥゴオ、ゴオゥゴオ、燃えていく。

 母も、父も、妹も、燃えていく。

 真っ白な長方形の小さな部屋の中、真っ赤な炎も見えない長閑なこの場所は、とても家族の身体が燃えているとは考えられなかった。

「美咲ちゃん......」

「澪さん......」

 結婚式に会った時から変わらない幼さを感じられる可愛らしい容貌の従兄弟が、おどおどとした様子で肩を叩いて私を呼ぶ。

「ここにいてもなんだから」

 私は手を引かれて親戚の居る大部屋に戻される。

 彩り豊かなサラダも、瑞々しい寿司も、少し萎びた天ぷらも、どれも手を付ける気にはならず、生前の家族について話している親戚たちの話に耳を傾けた。

 親戚と会う際の妹は常日頃一緒にいたのもあって、歌穂の話はどれも聞き覚えのあるもので妹のことをおもいだして涙腺が緩みそうになり、じわりと視界が歪んだ。だが、両親の若い頃の話を聞くことは初めてで新鮮さを感じたが、どこか他人事のように思ってしまった。

 自分の知らない誰かの話。

 そうとしか思えなかった。

 この集まりも親戚の集まりで、ひょっこりと家族がドアから顔を出してくるんじゃないかと僅かに期待していた。

 そんなわけ無いのに。

 期待も虚しく、終わったと、家族の肉体は燃えて、灰と骨になったことを告げられた。

 火葬炉から引き出された三体の遺骨。

 コロコロ小さな、小さな、白い骨。

 人体模型のように綺麗に残った太い骨。

 か細くて真っ白な骨。

 重たいはずなのに、真っ白な骨はワタのように軽くて、

 長いお箸で小さい壺に入れていく。

 カラランコララン。

 カラランコララン。

 沢山の人が小さな壺へ、家族だったモノを放り込んでいく。

 三つの骨壺を叔母に預け、私は一人、バスに乗って自宅へ帰る。

 明かりのない家に向かって「ただいま」と声をかける。

 お母さんの朗らかな声で「おかえり」と返ってくるはずもない音を期待した。

 シンと静まり返る玄関。

 葬式という儀式を終え、誰もいない部屋を見て、ようやく、ようやく。

 家族がいなくなってしまったことを実感できた。

 できて……しまった。

 もう、私にはなにもないのだ。

 笑顔で良い匂いを漂わせながら暖かく迎えてくれる母。

 仕事で疲れているだろうにも関わらず笑顔で帰ってきてくれる父。

 体操服を汚して元気よく玄関に飛び込んで帰ってくる妹。

 そのすべてが何も無い。

 あの事故のせいだ、あの男がすべてを失わせたんだ。

 今更ながらにそう思っても、事故相手は葬式から帰ってしまったし、家にも謝りに来ていたのだからもう二度と来ないだろう。

 怒りをぶつける相手は来ない。

 もう済んだことだと思っているだろうから。きっと、大きい罪悪感をどれほど抱えたって時間が立つたびに薄れていくだろう。

 なんだかすべてが面倒になって、着替えることすらままならないままベッドに倒れ込んだ。

 朝、小鳥の陽気な鳴き声で起こされてしまった。時計を見ても起きるにはまだ早い時間帯だ。もう一度、寝ようとしたが母の喪服を着っぱなしであったことを思い出し起き上がると、眼の前に配置していた等身大の鏡に自分自身が映っていた。

昨日と変わらずに真っ黒な服装に見を包んだ私は、青白い顔色も相まって、まるで亡霊かのような様相にハッとなったが、私は勿論生きている人間で当然死人なんかじゃなかった。

「酷い……」

 顔色の悪さに辟易している訳では無い、確かに顔色はまっさらな紙のように白く、目元に住み着く隈は墨汁を塗りたくったかのように真っ黒で、更に赤く腫れぼったくなって悲惨な状況になっている。

 でも、そうじゃない。

 パキリとガラスが割れてしまった写真立てを蹴り飛ばした。

 ガンッと音を立ててガラスは粉々になって家族の顔がわからなくなってしまう、私以外。

 それが余計に惨めに思えてしまう。

 私だけ置いてかれてしまった。私だけが……。

 そんな悲しみも無意味なことで、現状は何も変わらない。

 

 後日、墓に骨を入れ終えたのだと連絡が届いた。

 何も言わず立っているだけの無機物に家族の温かさを感じることはない。

 もう、何も残っていないのだ。

 生あるものは消えていく。

 だから嫌いなのだ。

 すべての生き物は私を置いて、死んでしまうのだから。

 そして大嫌いな生を受けた私も、誰かを置いて死んでしまうのだろう。

 誰もが生命を身の内に飼っている。

 生を手放す頃には誰もが生き方を振り返り、後悔しては生を取り戻そうとする。だけれど、懸命に叫んでも、必死に手を伸ばしても、生は今まで寄り添っていたなんて関係なしに去ってしまう。

 だから私は……生き物が大嫌いだ、生命が嫌いだ。

 皆が平等に生きていければよかったのに……。

「本当に……大嫌いだ。お母さん、お父さん、歌穂……、どうして、どうして私を置いていったの?」

 私も一緒に連れて行ってよ。

 頬に伝う水滴は誰にも拭われることがないまま地面に落ちていき、アスファルトを色濃く染め上げた。



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生を飼う 雪村リオ @himarayayukinosita

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