焦牙の嵐

雪村ことは

焦牙の嵐

統一暦38年、龍牙島りゅうがとう


潮風と、かすかに腐りかけた魚のにおいが漂う港から、刺激的な香辛料の甘い香りが風に乗って運ばれてくる。世界地図の東方圏の海のほぼ中央に浮かぶこの島は、かつてブリタリア帝国(武帝)の植民地だったが、大戦後に武帝の影響力が弱まると、四方八方から多様な人々が流れ込み、無秩序に拡張し続けている。


この龍牙島は、面積こそ限られているものの、海流と貿易航路の要衝にあたるため、大昔から漁民や商人、冒険家が往来し、多国籍の文化が混在する土地として知られていた。その中心に位置するのが、西岸の超過密都市――浪牙城ろうがじょうである。


浪牙城を遠目に見ると、海面からそびえ立つ怪物のようにも見える。海辺の高所まで無理やり建て増しされたビル群が、細い路地を取り囲むように林立し、その姿は“垂直迷宮”と揶揄されるほどだ。夜になれば、このスラム街を含む無数の明かりが荒涼とした海面をかすかに照らし、妖しくも美しい光景を作り出す。同時に、人間の欲望や危険な陰謀が渦巻いていることを示す、ある種の警告灯にもなっている。


浪牙城の街中を歩けば、濃厚な“焦げついた狂騒”の気配が体にまとわりつく。亜熱帯特有の高温多湿な気候が、コンクリートと錆びついた鉄のにおいを充満させ、人々の熱気や食べ物の香りと交じり合って、息苦しいほどの蒸気を生み出している。路地裏は、まるで人間の臓腑を覗き込むような生々しさで、湿り気を帯びた空気が鼻腔を刺激して離さない。


そんな蒸し暑い空気が肌を刺す夕暮れ、港湾エリアの倉庫街に、一人の賞金稼ぎが静かに現れた。雨に濡れた石畳を踏む足音は驚くほど小さく、まるで音を忍ばせて動いているかのようだ。


長身痩躯。体のラインをすべて隠すほどゆとりのある上着をまとい、首元にはストールをぐるりと巻いている。その者を誰もが「フォックス」と呼ぶ。鋭い瞳がどんな光を宿しているのか、知る者はいない。頼りない街灯の下で、ストールが風に揺れ、足元に淡い影を落としている。


フォックスが目指すのは、港湾倉庫の一角にある古びた事務所だ。壁には銃弾の痕が刻まれ、錆びた看板は文字がほとんど剥げ落ちている。かび臭い空気が充満する室内へ入ろうと扉を押せば、遠くから誰かの怒声がかすかに聞こえてくる。


扉を開け中に入ると、湿った木の香りとともに、妙に陽気な声が飛び込んできた。


「ヘイ、フォックスじゃないか!」


スキンヘッドで派手なシャツをまとった男――フィルナ共和国系のジェロームが、安物の煙草のにおいを撒き散らしながら声を上げる。彼は明るく人当たりが良いように見えるが、実際には浪牙城の小さな運送会社を牛耳り、密輸ビジネスで稼ぐやり手でもある。


「金になる話があると聞いて来た」


フォックスが中性的な声で返す。その喉は、蒸し暑さにわずかに渇きを覚えている。ジェロームはその言葉に驚きながらも答える。


「まったく、どこで聞いたんだ?...いや、実はトラブルに巻き込まれちまってさ。ある武器密売組織が、俺の荷を勝手に横取りしやがった」


ジェロームが机を乱暴に叩くと、背後の錆びた扇風機がぎいぎいと軋む音を立てる。彼の声には、普段の陽気さに潜む焦りがにじんでいた。


フォックスは夕陽を反射する窓ガラスを横目に、静かに問いかける。


「どこの組織だ」


「華連合系のギャング、『蝦虎幇シャーファーバン』って連中だ。しかもア連(アウロラ社会主義共和国連邦)の奴らと取引をしてるらしい」


フォックスは短く息を整える。国際的な武器取引が関わるならば、一筋縄ではいきそうにない。遠くの路地から銃声が一瞬響き渡り、その不穏さをさらに際立たせる。


「取り返すのが仕事か」


「そうだ。ついでにそいつらの頭目に思い知らせてやってくれ。追加報酬は弾むぜ」


ジェロームは封筒を差し出し、にやりと笑う。フォックスが封を切れば、中から古びた統一通貨の紙幣が現れる。墨のような香りがほのかに漂い、偽札の類いではなさそうだ。フォックスは無言で頷き、封筒を懐に収める。


その瞬間、フォックスはジェロームの態度にわずかな違和感を覚えた。笑みの奥底に何かが潜んでいた。


***


フォックスは事務所を出て、雨が降り始めた夜の浪牙城を歩く。古い市街地の石畳が雨に濡れると、街はさらに黒々とした光を帯びる。倉庫街を抜ければ、高層スラムが上へ上へと無秩序に伸び、どこを通っているのかわからなくなるほど路地が入り組む。遠くからは異国の歌声がかすかに聞こえ、雨音とともに空気を揺らしていた。


角を曲がると、通りを埋め尽くす看板やネオンサインが一斉に目に飛び込んでくる。和語、洌語、華語、フィルナの民族言語、さらには武帝や理国(リベリア合衆国)で使われる独自の文字――それらが高層ビルの壁や錆びた鉄階段にびっしり貼り付けられ、電飾がチカチカと瞬く。非常口や危険物保管庫には、それぞれ異なる言語で「立入禁止」「防火扉」などの警告が書かれており、同じ街区とは思えないほど混沌としている。これこそ浪牙城の“日常”だ。


「フォックスだ...」


すれ違いざま、チンピラ風の男がひそひそとささやく声が聞こえる。その声音には微かな畏敬の入り混じった恐れがあった。フォックスの名はすでに裏社会に伝説的に知れ渡っているのだ。


さらに奥へ進むと、連なる屋台のエリアに入る。ひとつは華連合の炒め物が勢いよく鍋の中で踊り、唐辛子と八角の香りが鼻を突く。隣の屋台では洌連邦の唐辛子をベースにした鍋料理が湯気を上げ、少し先ではフィルナ系の串焼きが炭火でジュージューと音をたてている。和国の屋台からは、油を滴らせる串カツや焼き鳥が売られ、多国籍なソースを好きにかける客の姿も見受けられる。こうして雑多な食文化が混ざり合って“浪牙料理”なるものが出来上がっているが、その強烈さに当たって苦しむ者も後を絶たない。


フォックスは特に目を留めることもなく通りを進みながらも、周囲の気配は逃さない。雨音と人々の喧騒の裏で微かに金属がこすれる音が混ざり、誰かが息を詰めて見張っている気配を感じる。それらすべてを頭の片隅に置きながら、フォックスは蝦虎幇の根城へ歩みを止めない。


目的地は、朽ちかけた古い商館を改装した建物だ。表面にブリタリア建築の装飾が一応残っているものの、錆びた鉄柵や割れた窓ガラスが異様な雰囲気を醸し出す。雨に濡れている外壁が、街灯の明かりをぼんやりと反射していた。


正面玄関には、華連合系とおぼしき大柄な用心棒が三人。いずれも腕に派手な刺青を刻み、タバコをくゆらせながら軒下で雨を避けている。


「何の用だ、兄ちゃん」


先頭の男が鋭い目つきで声を上げる。その声の奥には警戒が感じられた。


フォックスはおちついた声で短く答える。


「ジェロームの荷を取り返しに来た」


三人は顔を見合わせた後、嘲るように笑い合う。しかし、その笑いがどこか芝居めいた響きを帯びている。


「ジェロームゥ?知らねぇな。けど面白え話だ!」


そう言うが早いか、拳銃をこちらに向けて構えた男。しかし次の瞬間、フォックスの足が素早く弧を描き、その拳銃を一発で蹴り飛ばす。雨に濡れた路地へ金属が転がる音が響き、残りの男たちは一瞬動きを止めた。だがフォックスは容赦しない。回し蹴りと肘打ちを連続させ、一人目と二人目を瞬く間に昏倒させる。最後の男は慌てて後ずさるが、フォックスの掌底が正確に胸を捉え、壁に打ち付けられて崩れ落ちる。


圧倒的な制圧力。フォックスは静かに息を吐き、「ボスと話をする」とだけ言い残して室内に入った。


中に足を踏み入れると、暗く湿ったブリタリア様式の廊下が続いている。華連合風の装飾が無理やり施されているが、高級感はなく安っぽい。床を踏むごとに微かな水音がして、湿気が肌にまとわりつく。


突然、背後から銃声が鳴り響く。フォックスはすでに柱の陰へ身をかわし、大理石が砕け散る粉塵を避けていた。


「さすがだな、フォックス、あんたがここにくるとは思わなかったよ」


暗がりから聞こえてくる声。姿を表したのは、シルバーの拳銃を握った神経質そうな中年の男。高価そうなスーツを着込み、この場に不釣り合いなほど洗練された身なりだ。


「大人しく帰るか、それともここで死ぬか――どっちがいい?」


男はフォックスが隠れた柱へ一気に回り込み、再び引き金を引く。だが、そこにフォックスはいない。弾丸が壁を砕き、破片がはじけ飛ぶ。


「悪いな」


いつの間にか背後を取っていたフォックスが、男の後頭部に衝撃を叩き込む。男は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。


***


廊下を進んだ先の最奥には、華連合出身のハン・イーファが待っていた。蝦虎幇のリーダーであり、浪牙城で名を馳せる実力者だ。神経質そうな細面の顔に、わざとらしい笑みが浮かぶ。


「へえ、フォックスか。ジェロームの荷を返してほしいとはずいぶん大胆だね」


ハンは椅子にふんぞり返り、その周囲には護衛数人が銃を携えて立っている。安全装置を外す金属音が耳に嫌な予感を送り込む。


フォックスは肩をすくめる気配もなく、冷静に言葉を投げる。


「ジェロームに貸りがあるなら話し合いで済ませろ。それに横取りして別に流すのはいいが、取引相手が良くないな」


「ほう、どうやらこっちの取引相手がア連の連中だってこともお見通しか。情報が早いね」


ハンはわざとらしく笑みを深める。


「取り返したいなら、それなりの代償を払ってもらおう。龍牙島の利権は複雑でね。武器をさばけば大きな利益が転がり込む。ジェロームには悪いが、もう戻す気はない。もしどうしてもと言うなら――」


ハンの部下たちが一斉に銃を向ける。だが、その瞬間、室内の照明がぱたりと消えた。突然の停電か、それともフォックスが仕掛けた罠か。辺りは混乱の声に包まれる。


銃声、苦しげなうめき声が続けざまに響き、やがて非常灯が点くと、そこには倒れ伏す蝦虎幇の面々と、中央に立つフォックスの姿だけが際立っていた。フォックスは奪った拳銃を逆手で握り、その存在感が室内を支配する。


「ま、待て……!」


ハンは腕を挙げ、屈服を示す。すべてを覆され、ただ恐怖に怯えるしかない。


「わかった、荷は返そう。でも一つだけ条件がある。今後うちのシマには手出ししないでほしい。いいね?」


フォックスは黙って頷きながら、床に落ちていたメモ用紙を拾い上げ、そこに地図と暗号らしきものを書き込む。それは倉庫の場所や安全な回収手順に関する情報のようだ。


「あんたらに手を出すか出さないかは今後の行動次第だな。守らなければ……どうなるかわかっているだろう」


フォックスの冷たい声に、ハンの背筋は凍りついた。もはや逆らう道はないと悟っている。


***


蝦虎幇から離れたフォックスは、深夜の浪牙城をひとり歩いていく。蒸し暑い風がストールをはためかせ、遠くからクラクションや異国語で罵り合う声が聞こえる。

四カ国――和国、洌連邦、華連合、フィルナ共和国――がそれぞれ領有権を主張し、世界の強国も目を凝らすこの島では、裏社会での生存術と確かな情報がなければ、あっという間に底なしの泥沼へ沈むことになる。


フォックスはあたかも金銭だけが目的ではないかのように、時に危険な依頼を引き受け、自分なりの動きを見せている。

正体を知る者は皆無。髪の長さ、年齢、素顔すら不確定なまま、ゆったりした衣服とストール、中性的な声――その断片的なイメージだけが都市伝説のように語られている。


やがて夜明け前、人気のないビルの屋上で、フォックスは街の光景を見下ろした。密集したビルの合間に延びる雑多な路地。蒸し暑い空気に溶けたネオンが、底なしの火口のような狂熱を照らし出している。


その背後に、ふと人影が現れた。黒いカジュアルな服を着た白人系の男が、オールバックにまとめた髪をわずかに湿らせている。


「今後の活動資金だ。受け取れ」


男は無造作に黒いビニール袋を足元へ放る。その中身は札束だと一目でわかるシルエットだった。


「また改めて連絡する」


そう言い残すと、男はビルの内部へ姿を消す。フォックスは視線を動かすこともなく、その背中に言葉を投げかけるでもない。ただ一つ、小さく言葉をこぼした。


「この街は、あまりに燃えやすい...」


呟きは闇に溶け、遠くからまた銃声が一発、夜を裂くように聞こえた。


***


翌朝、ジェロームのもとに“荷”が戻ってきたという知らせが届き、フォックスの一件は瞬く間に浪牙城の噂になった。


「まったく、とんでもないことになったな...」


ジェロームは不安を拭いきれない表情を浮かべている。蝦虎幇との折り合い、取引に関与していたア連、あるいはさらに他の勢力がどう動くかは予断を許さない。


焦げた牙が嵐を呼ぶと言われる龍牙島と浪牙城は、もともと火薬庫のように危険な土地だ。今は表向き穏やかに見えるが、その裏側ではいつ爆発してもおかしくないほどの緊張感が漂っている。


昼下がり、ジェロームの事務所に一通の封筒が届いた。開封すると、中から一枚の写真が滑り落ちる。そこには、リベリア合衆国の軍用機から荷物を受け取るジェロームの姿がはっきりと写っていた。日付はほんの一週間前。


「くそっ...」


ジェロームは写真を握りしめ、歯ぎしりする。誰かが自分の動向を始終監視していた証拠であり、フォックスへの依頼にも別の思惑が絡んでいた可能性を示唆していた。


***


同じころ、浪牙城から少し離れた華連合統治下の街。薄暗い路地裏にひっそりと建つ古い茶館の一室で、フォックスは老年の男と向かい合っている。周囲は人気がなく、しんとした静寂が漂う。


「今回はいろいろ厄介だったな...」


老人は上質な翠玉朝時代の茶器を使って湯を注ぎ、静かにすすりながら口を開く。その手元には深い皺と古傷が刻まれ、鋭い目つきがただ者ではないことを物語っていた。


「言わなくてもすでに知ってると思うが、ジェロームは私たちが用意した囮だ。荷を使ってア連の動きを探ろうと考えていたんだ。蝦虎幇に情報を流して荷を盗ませ、そこに仕込んだ追跡装置で取引を暴く予定だった。しかし君が介入して計画は台無し...まさか同じ穴の狢だとはね」


フォックスは静かに懐から一枚のバッジを取り出す。それは国際協調機構(WCO)の特別介入局のエージェントであることを示す証――法を超越した特権を握る、極秘の存在だ。


バッジをしまい、フォックスが周囲を見回すと、老人は苦笑しながら小さく頷く。


「ここはすべて人払いしている。声を張り上げても誰も聞き耳を立てないだろう」


フォックスが問いかける。


「ここは華連合の縄張りじゃないのか?」


「上層部と最近懇意にしていてね。下の連中はア連との関係を維持しようとしているが...まぁ私としてはも別の思惑がある。ちなみに言っておくが、WCOの最大スポンサーはリベリアだからね。今後は活動の向き先を考えてほしい」


「それは脅しか?」


「どう捉えてもらっても構わんよ」


フォックスはわずかに肩をすくめると、諦観とも受け取れる仕草を見せる。


「ジェロームの荷物はどうした?」


「すでに回収した。計画が駄目になった以上、あれを持たせていても意味がないからな。君たち特別介入局がどう動こうと、この世界はそれ以上の速度で回っている。君たちが浪牙城で活動するなら勝手にすればいい。私も好きにさせてもらう」


雨音が窓ガラスを叩く音だけが部屋を満たす。


「それでも君が何かを変えたいと願うなら、せいぜい力を尽くすんだな」


そう老人が告げるとフォックスは黙って席を立ち、濡れた路地裏へ足を進める。ほどなくして、その姿は夜闇の奥へと溶け込んでいった。

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焦牙の嵐 雪村ことは @kotoha_yukimura

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