手のひらに

永瀬鞠

 


きみと出会ったのは、入院した祖母を見舞った帰りだった。廊下を歩きながら何気なく自販機コーナーに視線を向けたとき、両膝をつく女の人の姿が見えて思わず立ち止まると、ふと目が合った。彼女は、その体勢のまま曖昧に笑った。


「百円玉。落としちゃって」


歩み寄ると、彼女は自販機同士の隙間に精一杯伸ばしていた腕を緩めて言う。彼女と位置を代わって片腕を伸ばすと、指先に冷たい感触が触れる。それを掴んで体勢を戻した。同じ目線に彼女の瞳がある。


「お礼になにか奢ります。どれがいい?」


屈託のない笑みを浮かべて硬貨を受け取った彼女は、立ち上がると財布からもう数枚硬貨を取り出す。長い髪が一束、さらりと肩から落ちた。


「気にしないで。通りかかっただけだから」

「帰るところですか?」

「うん」


患者衣を着ている彼女は、ぼくと同じ歳くらいに見えた。


「じゃあちょっとだけ待ってて。コートとってくるから。わたしの病室から見下ろせるところに何本か梅の木が植ってて、満開できれいなの。案内するから、少しだけ一緒に見ませんか」


こんなきみの言葉に頷いたのは、もうきみが半分背中を向けていたからかもしれないし、この時すでにきみともっと話がしてみたいとぼくが思っていたからかもしれない。この日からぼくたちは梅の花が咲く一角で待ち合わせては、たわいない話をぽつぽつとしながら少しの時間散歩をするようになった。


最近あった楽しい出来事、悲しい出来事、天気の話、幼いころの話。「寒くない?」と口にすると「このコート裏がもこもこなの。見て」と得意そうに笑って白いコートをめくってみせたきみ。小雨が降る日に待っていると、傘を揺らしながら駆け寄ってきたきみ。こぼれ落ちていく梅の花に細い手を伸ばしたきみ。気がつけば、ひと月が過ぎようとしていた。


その日も、3階の病棟に入院しているというきみをエレベーターの前で見送ったあと踵を返した。そのとき不意に聞こえてきた赤ん坊の泣き声に、思わず耳を澄ませる。


8歳差になるはずだった弟がいる。弟は臨月に母の中で亡くなった。ふっくらとした小さな体を丸めて、まるで眠っているだけのような表情で、動くことも、声を上げることもなかった。母も父も祖父母も泣いていた。ぼくはただ、悲しかった。


次の日、きみは待ち合わせ場所に現れなかった。不安を抱えていつも別れるエレベーターの前までくると、ボタンを押して初めて3階へ上がった。


偶然だった。目の前の廊下を数人とともにベッドが移動していく。そこにきみが横たわっていた。すれ違う直前、うっすらと瞼を開けていたきみと目が合う。


「またね」


唇がそう動いたように見えた。その日を境に、いくら待ってもきみとは会えなくなった。


最悪の考えが頭から消えない。きみが好きだった梅は葉を次々と伸ばし、少し先にある桜は蕾をつけ始めた。目の前の梅の枝に一つだけ残った花の名残に手を伸ばしたとき、土を踏む音が耳に届いた。


振り返る。夢を見ているのかと思う。


「転院してたの」


言葉をなくしたぼくに、きみは「ごめんね」と続けた。そしてまぶしい顔で笑った。


「またねって言ったでしょ」


同じように笑いたいのに、目頭が熱くなる。一歩、また一歩ときみが近づいてくる。地面を映す滲んだ視界に白いつま先が入りこむ。瞬きをすると涙が一粒落ちていった。左腕を上げて、大きく両目をぬぐう。


「なに泣いてんのー」


きみが笑いながらぼくを抱きしめる。初めてなのに、どこか懐かしい。その温かさに安心して口元が緩んだ。


「好きだよ」


息を吐くように口から言葉がこぼれ出る。


「うん」

「うんって」

「しってる」

「好きなんだ」


胸にある気持ちを確かめるように呟くと、耳元で小さく空気が揺れる。


「なんで笑うの」

「わたしも好きだから」


顔を上げる。涙はいつのまにか止まって、間近にきみの茶色の瞳が見えた。


「だから戻ってきたんだよ。奇跡みたいに」


力強い瞳がぼくを見る。ぼくらは、すべての人間は、奇跡のもとに生まれてくる。ぼくはそれをよく知っている。


無事に産まれることも生きることも、本当は奇跡のかたまりで、一日一日が、あるいは一瞬一瞬が、きらきらと輝くくらいの奇跡で満ちている。きっと見えないから知らないだけなんだ。


いつか弟にまた会えたら、言いたいことがあった。お母さんはきみをぎゅうっと抱きしめていたんだよ。きみもお母さんに触れることができたんだよ。家族みんながきみを大好きだった。いまでも大好きで、いつかまた会いたいんだ。


手のひらからこぼれ落ちていく奇跡もあれば、手のひらに残る奇跡もある。それを取りこぼさないように、手のひらはいつでも世界に向けていたい。愛しい人がいる、いつのまにかあたりまえに見えてしまう、この愛しい世界に。


きみの目尻に透明な雫が浮かぶ。指を伸ばしてあたたかい涙を受け止めたとき、背後から春風が吹く。誘われるように瞼を上げたきみの視線の先に、果てのない青空が見える。

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手のひらに 永瀬鞠 @nm196

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