洞窟のなか

月浦影ノ介

洞窟のなか




 寺本さんという、五十代の男性から伺った話だ。

 

 寺本さんは関東のとある田舎町の生まれだ。町の南東を大きな川が流れ、夏になると友人たちと一緒に、その川で泳いだり魚を釣ったりして遊んだ。

 川はF山という、標高二百メートルにも満たない低山の麓を蛇行しながら流れていた。そのF山の麓には洞窟があり、真っ暗な闇を湛えた入り口は半分ほどが川の流れに浸かっていて、人の浸入を阻んでいる。

 人が掘ったものか天然に出来たものか分からないが、その洞窟はずっと昔からあるようだった。


 寺本さんは、一度で良いからその洞窟に入ってみたいと思っていた。

 その当時、アニメ化され人気だった『トム・ソーヤの冒険』には、主人公のトムが殺人犯に追われて洞窟の中を逃げる場面が出て来るが、それを思い出しただけでワクワクした。山の麓にある正体不明の洞窟というシチュエーションは、子供の冒険心を刺激するには充分だった。


 しかしその洞窟のある辺りは、川で最も流れが複雑で危険な場所のため、これまでに何人もの水死者が出ている。そのため寺本さんたちは、親や学校からその辺りで泳ぐのを禁止されていた。

 泳ぐのを許されているのは、下流の比較的安全な浅瀬のみ。仮にその禁止区域を泳げたとしても、半分以上が川の水に浸かった洞窟のなかに入るのは、現実的に難しそうだった。


 しかしあるとき、洞窟に入るチャンスがやって来た。

 それは寺本さんが小学五年生のときの十一月。その年は異常に雨が少なく、川の水も半分近くが干上がっていた。

 日曜日の午前中、いつも通り友人たち数人で川へ遊びに行くと、水のない川の向こうに、例の洞窟がポッカリと口を開けているのが見えた。

 今なら剥き出しになった川底を伝って、あの洞窟のなかに入れる。

 そう思った寺本さんたちは、一度家に帰って懐中電灯を用意すると、再び河原に集まった。もちろん、親には内緒である。

 

 川岸から水の干上がった川底を伝い、洞窟の入り口に到着する。寺本さんたちはいよいよ洞窟に入ることにした。

 それぞれが手にした懐中電灯で辺りを照らしながら、足元に気を付けてゆっくりと進む。

 地面はところどころ水溜りが出来ていて滑りやすい。洞窟は意外に天井が高く、ずっと奥まで続いてるようだった。懐中電灯で照らしても、暗闇が光を飲み込んでまったく先が見通せない。

 いったい何処まで続いているのか。縦横に揺れ動く懐中電灯の光と洞窟の闇のコントラストが、ひどく不気味に思える。殺人犯に追われて洞窟のなかを逃げる、トム・ソーヤの姿がふと脳裏に浮かんだ。


 どれぐらい進んだのか、先頭を歩く友人がいきなり立ち止まった。

 「オイ、どうした?」と寺本さんが尋ねると、彼は「誰かいる」と小声で答え、目の前を指差す。

 全員の懐中電灯が一斉に前方を照らした。

 

 洞窟の隅に、黒い塊があった。

 誰かが座っているようだ。丸めた背中を洞窟の壁面に付け、両膝を両腕で抱え、その膝と膝の間に顔を埋めている。男のようだが、顔は分からない。着ている服はボロボロで、靴はなく裸足だった。

 一瞬、浮浪者が入り込んだのかと思ったが、そもそもこんな田舎町に浮浪者などいない。

 どう考えても異様な事態である。声を発する者さえいない。誰もが固唾を飲んで男の様子を見守っている。

 

 やがて、男がゆっくりと立ち上がった。ふらふらとした不安定な動きが、人間とは別の生き物のようだった。顔は暗闇の中に溶けて見えない。複数の懐中電灯の光が、男の胸から下を照らしている。

 男は微塵も動く気配がない。ただじっと立ち尽くしている。その顔は闇に隠れたままだ。誰も男の顔にライトを向けようとしなかった。何故か分からないが、男の顔を直視してはいけないような気がした。

 するといきなり、寺本さんのすぐ隣にいた友人が「うわああっ!」と大きな悲鳴を上げ、出口に向かって一目散に駆け出した。一瞬、何が起こったのか分からなかったが、それにつられて他の皆も全員パニックになり、先に逃げた友人の後を追って走った。

 

 後ろを振り返る勇気はなかった。

 いまにも男の手が伸びて来て、自分の襟首を掴むのではないか。そんな恐怖に駆られながらも懸命に走り、気付いたときには洞窟の外に飛び出していた。周りを見回すと、どうやら全員無事に脱出したようだった。


 男は追い掛けて来なかった。再び洞窟のなかを懐中電灯で照らしたが、男が現れる様子はない。

 とりあえず落ち着くと、寺本さんたちは最初に逃げ出した友人に「馬鹿、お前なんでいきなり逃げるんだよ」と詰め寄った。

 「はぁ? お前ら、気付かなかったのかよ」

 と、その友人は血の気の引いた顔で言った。 

 「あの男の後ろに、能面みたいな顔が幾つも浮かんでたんだぞ。あれ絶対に生きてる人間じゃねぇよ!」

  友人の証言に全員が言葉を失って立ち尽くしていると、いきなり背後から「オイ、お前らそこで何してる!」と怒鳴り声が聞こえた。

 振り返ると川岸に下りる斜面を、一人の中年男性がこちらに向かって歩いて来る。寺本さんの近所に住むおじさんだった。見知った大人の登場に思わずホッと安堵した。

 寺本さんたちはつい先程、洞窟の中で起こった出来事を話そうとしたが、おじさんは怒った顔で「そんな所に入っちゃいかん。事故でもあったらどうするんだ」と聞く耳を持たない。今すぐ帰れ!と追い返されてしまった。


 仕方なく家に帰ったが、どうやらそのおじさんから話が伝わったらしく、その晩、寺本さんは勝手に洞窟に入ったことを父親に厳しく叱責された。狭い田舎町だけに、子供が何をやったかなど筒抜けである。

 「いいか、あの洞窟には二度と近付くなよ。何があっても絶対にだ。分かったな」

 有無を言わせぬ迫力で、寺本さんは父親にそう厳命された。言いつけを破ったらどんなお仕置きが待っているか分からない。寺本さんには洞窟の男より、父親の方が遥かに怖ろしかった。

 

 結局、あの洞窟の男が何者なのか、その背後に幾つも浮かんだ能面のような顔が何なのか、どれも分からず仕舞いだった。


 しかし後で知ったことだが、あの洞窟付近は川の複雑な流れが原因で水死者がなかなか上がらず、洞窟のなかに流されてしまうことが度々あったのだという。

 あのとき自分たちが見たのは、ひょっとするとその水死者の霊だったのではないか、と寺本さんは話した。


 山の麓の洞窟はそれから数年後、台風の影響による川の氾濫で大量の土砂が流れ込み、その入り口を塞いでしまった。

 今では洞窟があった痕跡すら、ほとんど残ってないという。

 


                  (了)



 

 

 

 

 

 

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洞窟のなか 月浦影ノ介 @tukinokage

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