イロハの知る立夏

第12話 運命の出会い


 シリウスエンターテイメントと書かれた看板を確認してから、事務所のエントランスを抜ける。冷たいエアコンの空気が肌を撫でた。

 足元には辛うじて光沢を保つフロアが広がり、正面には少し古いものから最近のものまでドラマや映画のポスターが並んでいる。

 年季は感じるが、全体的にこざっぱりとした場所。

 それがあたし——竜山イロハが感じた事務所の印象だった。


「よし、ついた」


 ショルダーバッグの紐を握りしめる。

 中にはタオルとTシャツにストレッチ素材のパンツが入っていた。

 忘れ物がないことを確認して、長い廊下を歩く。

 事務所の中にはよれよれのスーツを着たスタッフさんや事務っぽい服装の人もいた。全員が首からネームカードを下げている以外統一感はない。

 

「すみません、レッスン室はどっちになりますか?」

「ああ……新しい子か、レッスン室はこの廊下をまっすぐ行った突き当りだよ」

「ありがとうございます」


 頭を下げて、すぐに奥を目指す。

 近づくにつけ緊張に胸が締めつけられたが、深呼吸をして心を落ち着ける。

 あたしはスカウトされて、ここに来た。素人で当然。挑戦しなければ何も始まらない。

 そう自分に言い聞かせながら、レッスンルームのドアを開けた。

 早めに来たつもりだったが、すでに数人の受講生らしき人がが中に集まっていた。


(もっと、早く来ればよかったかな?)


 壁一面が鏡張りのスタジオは逃げ場がないように思えた。

 奥には数脚の椅子が並べられていたが、誰もそこには座っていない。何か荷物だけが置かれていた。

 天井のライトが眩しく光り、使い込まれた床に柔らかい影を落としている。

 あたしは急いで着替えて、他の人たちと同じように準備を始めた。


「じゃ、自己紹介から……まずは竜山イロハさん」


 集められたのは5人だった。横一列になった状態から名前を呼ばれ、あたしは慌てて前に出た。

 背筋を伸ばし、できるだけ明るく声を出す。


「はい! 17歳、女子高生です。ダンスや歌が好きですが、演技もできるようになりたいと思っています。よろしくお願いします!」


 最初の返事から視線が集まる。チクチクするような鋭さにあたしはそれらを跳ね返すように口角を吊り上げた。

 他の受講生たちも順番に自己紹介をしていく。

 それぞれの経歴や目標を語る中、次に名前を呼ばれた人物にあたしの目と耳は自然と引き付けられた。


「寅川立夏さん」

「はい」


 返事から違った。彼女の一言で空気が変わったような気さえした。

 寅川さんは静かに一歩前に出ると、堂々とした声で話し始めた。


「私は女優になりたくて様々なオーディションを受けてきました。どんな役でも演じられるようになって、主演映画を撮ってもらうのが夢です」


 誰よりも堂々とした夢の告白。その言葉に一点の曇りもない。

 ドラマに出たいとか、映画に出たいだけじゃない。彼女の夢はここの誰よりも具体的で輝いて見えた。

 自信に満ちたその声と真っ直ぐな瞳に芸能界という場所が胸の中に実感として落ちて来る。

 何より——


(なんて、綺麗な人……)


 寅川さんは見たことがないくらい綺麗だった。見える横顔でさえ息を飲んでしまう。

 その姿はもはやスクリーン越しに見る女優のように洗練されていた。

 鏡を通しても、あたしにとって一番輝いていたのは彼女だった。

 不思議な既視感と高揚感。

 どこかで見たことがあるような、懐かしいような気がする。


「綺麗な人」


 彼女にあてられたように、いつの間にか呟いていた。

 あたしが寅川さんに見惚れていても、他の受講生はたちはこそこそと声を潜める。


「……ちょっと怖そうじゃない?」

「クールすぎるっていうかさ」


 寅川さんの冷静な立ち振る舞いは隙を感じさせない。年齢もあたしより5つは上に見えた。

 それは完成された美しさのせいもある気がしたけど、怖いとは思わない。


(もっと知りたい)


 レッスンが始まった。

 鏡の前での発声練習、即興の演技。ほとんど全てが初めての経験だ。

 経験があるかないかは、すぐにわかった。あたしは慣れないレッスンに汗を拭いながら着いていくのに必死。

 だからだろうか、レッスンが進むにつれて、あたしは次第に違和感を覚え始めた。

 頭の奥に別の心臓があるかのように、鼓動に合わせて痛む。


「はい、休憩!」

「……ありがとうございます」


 そろそろ限界を迎えそうなときに、休憩の声がかかった。

 あたしは額に手を当てながら小さく息をつく。

 ほかの受講生は集まって話している。元から顔見知りなのか。気になったけど、今は飲み物が欲しかった。


 自販機のボタンを押して、小さなカップが落ちて、茶色い液体が注がれた。注文したのはココア。頭が痛い時は甘い温かいものを飲みたくなる。

 ふんわりと漂う甘い香りに、少しだけ緊張がほぐれた気がした。

 その時、ココアとはまた違う甘い匂いがあたしの鼻をくすぐった。


「大丈夫?」


 ふいにかけられた声に、驚いて振り向く。

 そこに立っていたのはペットボトルを片手に持った寅川さんだった。

 あたしは何を尋ねられたか理解できなくて、目を瞬かせる。


「え? どうかしました?」

「少し具合が悪そうに見えたから」


 見抜かれていたみたい。ばつが悪くて誤魔化すように笑う。

 少しだけ距離を詰められる。寅川さんの顔には心配そうな表情が見えた。

 どこが怖いのか。心配してくれる優しい人じゃないか。

 あたしは勝手に頭の中で、他の受講生に言い返す。こちらを窺う瞳の奥に優しさが感じられた。


「ああ、初めてで……緊張してるんです」

「そう。無理は良くないわよ」


 ぶっきらぼうな言葉だったが、纏う雰囲気がふわりと柔らかくなる。

 同じ事務所でもライバルになるかもしれないのに、こうやって気にかけてくれる。


(やっぱり、大人の人だな……)


 火傷しないように気を付けながら、ココアに口をつける。

 甘さが口に広がり、少しだけ頭痛も和らいだ気がした。

 あたしは両手でカップを包み込みながら、気持ちを口に出す。


「せっかく事務所に所属できたんですから、できることは全部したいんです」


 あたしがそう言うと、寅川さんはわずかに口元を緩めた。

 同時に鋭く切り取られたみたいな、綺麗な二重に縁どられた瞳が柔らかく細められる。


「同じね」

「同じですか?」

「ええ、私も女優になるための努力だったら、全部したい」


 その瞬間、あたしには彼女の瞳の中で一番星が燃えているのが見えた。

 まぶしくて、熱い。そして、どうしようもなく惹かれる光。

 それを感じた瞬間に、今までで一番大きい頭痛が襲ってきた。

 思わず顔をしかめそうになるのを堪える。


「これからよろしくお願いします」

「こちらこそ」


 差し出された手を握り返す。

 伝わる熱に焦がされそうになる。まだ会ったばかりなのに、あたしの中に確かな火が点いた。

 それだけ言ってあたしはレッスンに戻る。けど、頭痛ちっともよくならなくて、あたしは家に帰った後すぐに気絶するように眠りに落ちた。


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