第8話 戻った時間と見えない男


 重い瞼をゆっくりと開くと、天井の電灯がちかちかしているのが見えた。

 視界はぼやけているが、不思議と痛みはない。あの落ち方だ。どこか折るくらいは覚悟していたのに。

 ゆっくりと手を横に着き、体を起こす。硬い床の感触が指先から伝わってきた。

 力をかけても、どこも痛くないことにほっとする。


(……階段の下?)


 私は目の前の階段を見つめた。

 階段には違いない。だが、見上げた空間は先ほどまでとは違っていた。

 記憶が混乱する。

 先ほどいた撮影所じゃない。階段の上にも、側にもイロハもあの男もいなかった。人の気配さえ遠い。

 私は追いかけた男に突き飛ばされ、階段から転げ落ちたはず。


「ここは……?」


 階段の手すりを使いながら立ち上がる。

 お尻の埃を払おうとして、ふわふわのスカートが目に入る。

 衣装を着ている。ということは、今から撮影があるはず。

 私は少し首を傾げた。

 この衣装はいつのだったか。ユニット活動を積むにつれ、私はパンツスタイルが多くなっていたから、大分初期の方かもしれない。


(また、戻った?)


 私は呆然と周りを見回した。

 撮影所と違うのはわかる。だけど、時計もなく、場所を示すようなものも視界にはなかった。

 上の階に行くべきか、下の階に行くべきか。どちらにいけば、自分の欲しい情報が手に入るのか。

 すると上の階から足音が近づいてきた。

 この足音を私は知っている。そう思ったのが早いか、視界にその声の持ち主が飛び込んできた。明るい声が響く。


「あ、いた! 立夏姉、もう始まるよ!」


 立夏姉――その声に心臓が跳ねる。

 視界を上げた先で、少し若いイロハが階段を降りて来る。

 イロハの衣装も私の衣装と同じくふわふわのスカートだが、さらに装飾が多く可愛らしい雰囲気が出ていた。


「イロハ?」


 私の前に立ったイロハは少しだけ唇を突き出して、頬を膨らませた。

 怒っているポーズだ。

 今の状況が把握できず、戸惑っている私に彼女は少し眉を上げ、私を覗き込んでくる。


「イロハだよ。立夏姉がいつまでも帰ってこないから、迎えに来たんだから」


 立夏姉。イロハと恋人になってからは呼ばれなかった呼び名。

 ということは、少なくとも今の私とイロハは恋人になる前。一年以上前ということだ。

 そう理解した瞬間に、胸の奥にモヤモヤしたものが生まれる。

 私はイロハを好きなのに、このイロハは私を好きじゃないかもしれない。

 久しぶりに味わう不安に唇をかみしめた。


「ごめんなさい。少しぼうっとしてたみた」


 私はなんでもない風を装って、イロハに笑いかける。

 だが、訝し気な顔をしているイロハを誤魔化すには足りなかったみたいで、さらに距離を詰められ顔をのぞき込まれた。

 相変わらず距離感が近い。恋人だったら抱きしめられたのだけれど、今の彼女をそうする権利が私にはない。


「えっと……今日は何をするんだったかしら?」


 私の言葉にイロハの眉根が寄った。珍しい表情。イロハはこんな顔もするんだっけか。

 過去の記憶を引き出そうとする私に、イロハはほんのわずかに不安そうな顔をした。


「大丈夫? 今日は大事なユニット活動開始を発表する日だよ。many colour seasons――メニカラの発表日」


 メニカラは私とイロハのユニットの名前だ。

 ドラマと同じ名前はさすがに——と考えた事務所によってつけられた。

 その言葉に頭の奥がざわつく。


「メニカラの発表日……」


 ユニット活動の開始はドラマ中からあったが、メニカラとして発表したのはドラマが終わった後。

 ざっと考えただけでも、2年近く前だろう。

 一言だけ呟いて動きを止めた私の様子を見て、イロハがさらに心配そうな色を強くする。


「どうしたの? 階段から落ちた? 頭でも打った? あんなにやる気いっぱいだったのに」


 イロハは私の顔を覗き込みながら、矢継ぎ早に聞いてくる。慌てると口数が多くなるのは、この頃からの癖らしい。

 それにしても、やる気一杯に見えていたのか——と心の中で苦笑する。朝ドラから乗り始めた波を逃したくなかった。それはある。

 ユニット活動で成功すれば、さらに女優としての活動もできると思った。そしてそれは当たり、私は主演女優の道を掴むのだから。 

 私はなんとか笑顔を作りながら、イロハの肩を抑える。


「ごめんね、ちょっと気合が入りすぎて転んじゃって……ケガはないから安心して」

「え、転んだの? 立夏姉が?」

「うん」


 私の言葉にイロハは目を丸くする。

 それから身体の状態を確認するよう、右に左に覗き込む。最後にはペタペタと身体全体を触る。遠慮ない触り方は彼女の性格を表しているようだった。


「珍しい、あれだけ身体鍛えてるのに」

「ベストな状態にしておきたいだけよ」


 少しのくすぐったさを誤魔化すように笑いながら、私は肩をすくめて答える。

 どこも痛くない。そういうアピールもあった。

 だけど、あまり触られるとドキドキしてしまう方が大きいかもしれない。

 ようやっと満足したのか、イロハは私の身体から手を放すと手を後ろで組んで笑った。


「ふーん。あたしには無理だなぁ」


 堂々とそう言うイロハに、私は苦笑を溢した。


「あなたは鍛えてなくても動けるからいいじゃない」

「体力の必要性は感じてます」

「もう」


 イロハは元々ダンスも歌も好きなだけあって、トレーニングをしなくても私より動けた。

 レッスンはしていてもジムに行ったり、走り込んだりはしていない。

 それが羨ましいような、悔しいような複雑な感覚を私はイロハに抱いていたのだ。

 イロハは私の言葉に笑いながら小さく肩をすくめる。

 いつも通りのやりとりだった。

 結局、彼女とならば私はいつでも居心地がよくなってしまう。

 それが何かなんて、考えたこともなかったのだけれど――きっと恋とか愛だったのだろう。


「ほら、行こう!」

「うん。行きましょう」


 差し出されたイロハの手に手を重ね私たちは階段を登った。

 

 *


 メニカラの発表は無事に終わった。

 インタビュー会場は大きな歓声に包まれ、SNSの反応も良好らしい。

 イロハが嬉しそうに画面を眺めて、たまに見せてくれた。

 私は頭を整理するために楽屋を出て、テレビ局の廊下をゆっくりと歩いていた。

 

(……あの男!?)


 そのテレビ局の一角に、あの男が佇んでいた。

 私は足を止め、そっと目を細める。 見間違いじゃないのか。大きくなる心臓の音を収めるように胸元に手を当てた。

 相変わらず、黒い服を男は着ていた。何度見てもイロハを襲って私を突き落とした男だった。

 

「なんでここにあの男がいるの?」


 男は静かに立っているだけだった。周囲の誰も彼に注意を向けていない。

 まさか、テレビ局関係者なのか。

 恐ろしい可能性に私は慎重に近づき、静かに声をかけた。


「あの、すみません」


 男は微動だにしない。

 まるで何も聞こえていないかのように、私の呼びかけを無視していた。

 私はもう少し大きな声で、はっきりと呼びかける。


「あの、あなたです! ここで何をしているのですか?」


 その瞬間、男が驚いたように振り返った。

 初めて逃げていない状態の男の顔を見る。

 綺麗な顔だった。むかつくことに。

 目と目が正面からあって一瞬、息を飲む。

 灰色がかった瞳は何回見ても不安を煽られた。カラコンとも違う不思議な色。ぞくりとした寒気が背筋を駆け上がる。


「僕? 君、僕に声をかけてるの?」

「そうです。あなた以外、誰がいるんですか?」


 初めはきょとんとしていたのに、私の棘のある答えに男はくすくすと笑った。


「ふふっ、まさか、君が僕に声をかけるようになるとは思わなかったから驚いてるよ」

「……どういうことですか? あなたはイロハのファンですよね?」

「ファン? あー、まぁ、そうかな」


 男は私の言葉に少し考えるように首を傾げる。含みのある言い方だ。

 キスまでしといてファンじゃないと言い張る気か。それとも彼氏気取りとか。

 そっちの方が怖い。私は男を睨みつけた。


「だったら、言いたいことがあります」


 私と男の視線が正面からぶつかる。

 今度は逃げないらしい。良い度胸だとさらにギアを上げそうになった。そのとき、視界の端で誰かが近づいてくるのが見えた。


「立夏さん? どうしたんですか? 一人で声を出して」

「え?」


 何度か顔を見たことがあるスタッフだった。

 彼は私を見てそう言った。

 一人で? 何を言っているの?

 私は男を見るが、スタッフは私のの視線を辿ってそちらを見るだけで、男を認識していない。


「僕は他の人から見えない人間だから、説明しても無駄だよ」


 困惑して男とスタッフを交互に見る私に、男は笑みを深めながらゆっくりと告げた。

 私は男の方へ振り返る。


「え?」

「立夏さん?」


 その反応にスタッフが怪訝そうな顔をする。

 まずい。病気や薬を疑われそうな視線だ。


「すみません。台詞の練習をしてました!」


 私は愛想笑いを浮かべると、男の手を掴みその場から逃げ出した。

 スタッフの反応は怖くて確認できなかった。

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