第五話 新たな地獄

 東京の中を歩いている間、犬子はきょうかにこんな話をした。

 「君のお母さん、ちょっと不器用だね」

 突然の言葉に、きょうかは思わず足を止めそうになった。

「え?」

 犬子は、きょうかの反応を見ながら、優しく微笑んだ。

「うん、なんというか……君のことを大事に思ってるのは分かるんだけど、その伝え方がちょっと下手なのかもしれない」

「どういう意味?」

 犬子は、きょうかの顔をじっと見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「だって、君、もう中学生でしょ? 修学旅行って、普通は子どもたちだけで行くものなのに、お母さんが一緒に来るって……ね」

「それは、私が飛行機苦手だから……」

「うん、それは分かるよ。先生達も話を聞いてる。でも、君、自分で新幹線で先に行くって決めたんでしょ?」

「まあね」

「だったら、本当は一人でできるんじゃない?」

「…」

 犬子の声は、責めるようなものではなかった。むしろ、きょうかの心をそっと包み込むような、温かいものだった。

 「お母さんはね、たぶん君のことをすごく心配してるんだよ。でもそれがちょっと過保護に見える時もあるのかもしれない」

「過保護……?」

「うん。君ができることでも、お母さんは一人でやらせるのが怖いのかもしれない。だから、つい手を出しちゃう……って感じ」

 きょうかは、無意識に拳を握った。

(……そうなのか?)

 今まで純のことを少し厳しいくらいには思っていたが、過保護とか過干渉とか、そういうふうに考えたことはなかった。

「あとね、きょうか」

 犬子はきょうかの肩にそっと手を置いた。

「君は すごく頑張り屋さんだよね」

「そう、かな」

「うん。でもね、ちょっとだけ頑張りすぎてるようにも見えるんだ」

「どうして?」

「君は誰かに認めてもらうために頑張ってない?」

 その言葉に、きょうかは少しだけ息を飲んだ。

「君が勉強を頑張るのは、君自身のため?それとも……誰かに褒めてもらいたいから」

 犬子の言葉が、きょうかの胸の奥にじわりと染み込んでいく。

「お母さんはきっと、君のことを認めてると思うよ。でも、お母さん自身も不器用だから、うまく伝えられないんだろうね」

 犬子は優しく微笑んだ。

「だから、もし君がもっと自分のために生きたいって思ったら、ちゃんと自分の気持ちも大切にしてあげてね」

 その言葉に、きょうかは何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。

(私は、母さんの期待に応えるために頑張ってきたのか? それとも……)

 犬子はきょうかの沈黙を責めることなく、ただ静かに寄り添っていた。


•••


 修学旅行も終盤に近づいてきた。

夜、全員での食事の時間。

 食事屋の大広間には、楽しげな笑い声が響いていた。

 犬子と二人で話しながら、ムール貝について喋りながら楽しく会話をする。この時になると犬子と共に談笑して、食事を楽しむ。

「ムール貝美味しいね!」

「…家にありますよ。ムール貝」

「ほんと!?花美食べたことある?」

「いや、今日が初めてです」

 一方で、母の純は、他の保護者と談笑していた。

 そんな中、隣の席の女性が、純に話しかけてきた。

「狗崎純さん…ですよね?」

「へ!はい…」

「ありがとうございます…」

「え?どうしたんです?」

「うちの駆が、小学校時代にクラスメイトにいじめられてて…ほら、うちの子って、障害があって…その時きょうかちゃんが仲良くしてくれて…」

「ああ、ありましたね。うちの子は駆くんを心配していまして…」

 きょうかが小学生の頃、クラスの中で孤立していた駆という少年がいた。

 知的障害を持っていて、クラスメイトたちとうまく馴染めず、いじめの対象にされていた。

 そんな駆に、きょうかはよく話しかけていた。

 純もその話は聞いたことがあったし、「うちの子、優しいじゃない」と思ったこともあった。

 「きょうかちゃんが、駆のことをずっと気にかけてくれていたんです」

 「みんながうちの子を笑う中で、唯一普通に接してくれたって…」

 純はそれを聞きながら、「へえ、そんなことが」と思った。と同時に純は過去を思い出した。

(きょうかは成績も伸ばして成長してる。すごいこと。でも…昔の方が優しいような)

きょうかは今でも駆に優しい。駆が困っていたら一緒に何かをしてくれる。しかし、きょうかが優しいのは「温厚で穏やかな障害者」。他の部類に入る障害者にはきょうかはかなり冷徹に弾く。

 だがきょうかは昔は一人でドライに生きて暴力を振るいつつも弱い者がいじめられている時は先生に相談したりしていた。

  純は過去を振り返る。

 小学生の頃のきょうかは、今よりずっと衝動的で、時に暴力的で、気に入らない相手には容赦がなかった。

 それでも、「弱者」が理不尽に傷つけられることにだけは、妙に敏感だった。

 駆がクラスメイトから笑われ、からかわれていた時も、きょうかは教師に報告していたし、時には直接「やめろ」と言って立ち向かっていた。

 (あの頃のきょうかは、正義感があったのかもしれない)

 でも今のきょうかは違う。

 駆には優しい。彼が困っていれば助けるし、必要な場面ではサポートもする。

 だけど、それは「駆が温厚で穏やかな障害者だから」だ。

 もし彼が攻撃的だったら?

 もし彼がルールを破るタイプの問題児だったら?

 きょうかは間違いなく、冷徹に排除するだろう。

 そういう存在に対しては、一切の容赦をしない。

(優しさはある。でも、選別してる)

 純は気づいた。

 きょうかは今も昔も、人を「選んでいる」。

 違うのは、昔は「先生に頼る」という手段を使っていたのに対し、今は「自分の判断で切り捨てる」という方法を取るようになったことだ。

 それは、成長したと言えるのか?

 それとも、何かを失ったのか?


•••


「ねえ、きょうか」

 食事が終わり、二人きりになった時、純は娘に問いかけた。

「駆くんのこと、覚えてる?」

 きょうかは一瞬だけ考えた後、あっさりと頷いた。

「ああ、覚えてるよ」

「駆くんのお母さん、すごく感謝してたよ。あんたが優しくしてくれたって」

 その言葉に、きょうかはわずかに眉をひそめたが、普通の表情に戻った。

「優しくしたかったわけじゃない。駆は悪いやつじゃない。あいつは確かに障害者だ。だけど人をいじめたり傷つけたりしない。穏やかで海を見つめてるような奴だ。私はあいつを尊重したい」

「へぇ………」

 純は、きょうかの言葉を反芻した。

「駆は悪いやつじゃない」

「あいつは穏やかで、海を見つめてるような奴だ」

 そこには、優しさも、冷たさも、どちらも含まれているように感じた。

 まるで、「駆は助ける価値がある」と判断したかのような言い方だった。

「じゃあさ」

 純は慎重に言葉を選びながら、問いかけた。

「もし駆くんが、違うタイプの子だったら? 例えば、誰かを傷つけたり、問題を起こす子だったら……あんた、どうしてた?」

 その問いに、きょうかは即答しなかった。

 しばらく黙ったまま、静かに目を細める。

 やがて、ポツリと呟いた。

「今なら追い出すよ。なんとかして」

「追い出す?」

「駆は今でもいい奴だよ。でも、そうじゃないのなら私は嫌だ」

 純は、わずかに眉をひそめた。

「でも、昔のあんたは、もっと弱い子に優しかったじゃない。先生に相談したりしてたでしょ?」

「それは、私が『正義』を信じてた頃の話だよ」

 きょうかは鼻で笑った。

「でも、そんなの無駄だった。先生に相談したらあいつはちやほやされるように動かされ、嫌な仕事やできない仕事。難しい用事を言いつけられた。先生は駆の良いところを見せたかったのかもしれないけど、結果駆は苦しんだわけ」

「…うん、まあそうなんだけど」

 その瞬間、純は娘の変化をはっきりと理解した。

 昔のきょうかは、たとえ無駄だと分かっていても、「助けよう」とする側だった。

 だがは今はどうだろう。まるで誰も助けないような態度を貫く。そして冷静そうに見えるが生きるのに必死だ。

 純は先生達から話を聞いていた。

「きょうかは姫瑠から逃げるように歩く」

「最近は一也も避けるようになった」

「美術部には来ていないみたい」

「あの…きょうか」

「それにさ、お母さんはちょっと過保護だと思うよ」

「過保護?」

「犬子先生がそう言ってた。お母さんは過保護だって」

 純が眉を顰める。

(私はきょうかを守るために色々やってきたのに…それを全部過保護っていうの?あの先生は……)

「犬子先生が……そう言ったの?」

 純はゆっくりと問い返した。

「うん。でも、別に悪く言ってたわけじゃないよ。『お母さんはちょっと不器用だね』って。私のことを大事にしてくれてるのは分かるけど、もう少し自由にさせてもいいんじゃないかって」

 きょうかの口調は淡々としていたが、その言葉の奥には、微かに犬子の影響を受けた色が滲んでいた。

(自由に……? そんなの、ずっと考えてた。でも、それで本当にこの子が守れるの?)

 純はふと、先生たちの言葉を思い出す。

「きょうかは姫瑠から逃げるように歩く」

「最近は一也にも避けるようになった」

「美術部には来ていないみたい」

 自由にさせる、か。

 でも、今のきょうかはどうだ? 逃げてばかりじゃないか。

「お母さん、私のこと心配しすぎなんだと思うよ」

 きょうかの言葉が、決定的な一撃のように突き刺さった。

「…そうかな」

 純はきょうかを眺めた。

(あの先生は、私の子をどうしたいの?)

(私だって、きょうかのことを考えてるのに)

(私なりに、大事にしてきたのに)

「お母さん?」

「あ、後で話すよ」

「そうか」

 きょうかは肩をすくめ、純と共に寒い東京のこの場所を歩き続ける。


•••


 修学旅行が終わり、再び日常が始まった。一月になり、周りの生徒達は進路について互いに意識するようになった。

 そんな時きょうかもまた周りに聞かれた。

「きょうかちゃんは高校と大学どうするの?」

「私?私は難関高を出たのち、東大かな。やっぱり上に行きたいし」

「へぇ、すごいね!」

「でもきっと頑張れるよ!いいんじゃない?」

「きょうか、頭いいし」

 するとそれを聞いた翔太がきょうかに声をかけた。

「何言ってんの?お前。お前なんか東大じゃなくて別の大学止まりだろ!」

 笑いながら翔太はバシバシと机を叩いてきょうかをバカにする。成績が悪すぎる、翔太がだ。

 きょうかは席から立ち上がり、翔太に怒鳴り散らした。

「黙れ!!!黙れ黙れ黙れ!!!」

 翔太を激昂してきょうかは続ける。

「えっ!な、なんだよ!」

「この役立たずが!何もサッカーや勉強もできないような無能が私に口答えをしているのか!?猿の脳みそを持つ分際で人間に話しかけんな!!」

 きょうかは翔太の胸ぐらを掴む勢いだった。それを見た生徒達は慌てて犬子を呼びにいく。

「え…な、なんだよ…俺そんなに悪いこと言った?」

「死ねよ!死ね死ね死ね死ね死ね!猿のくせに人間の学校に来やがって!!!」

 犬子が駆けつけてきょうかを取り押さえた。

「うわっ!」

「きょうか!ちょっとこっち来て!落ち着いて!」

 それでもきょうかは翔太を睨みつけてさらに怒鳴り散らす。

「猿の分際で私を揶揄いやがって!思い知らせてやる!この非人間が!」

 きょうかは怒り続けたが、フィジカルでは犬子に負ける。ずるずると引き摺り出されていった。


•••


 きょうかと翔太は犬子の話を黙って聞いていた。

「……俺の兄が東京大学じゃなくて、別の大学に行ったんです。それが…東…から始まる大学で。だから……俺そのことを言ってるのかなって思って…応援したつもりだったんですけど」

 きょうかは翔太を睨み続けていた。そこの視線は無能な一也を甘やかすような慈悲の目ではなく、無能を厳しく潰そうとする鬼のような目だった。

「……きょうかの言ってることが東京の方だとは知らなくて…俺の兄さんは東一大学ってところに入って…」

 言い訳を続けるが、犬子はひとまず違う話をした。

「翔太ときょうか、仲良くしたり話したりしたことあるんだっけ」

「俺ですか!」

 きょうかが何か言いかけたが翔太がすぐに話した。

「俺、こいつと話したことないんすよ!あんまり!」

 きょうかはわかっていた。翔太は自分のことを名前で言わない。お前、こいつ、あいつだけだ。

「私もです」

 きょうかも翔太に同調するように頷いた。本当にあまり話したことがないのだ。仲良くしたこともない。

「そっかー………」

 犬子は軽いため息をついたが、ここで解散した。翔太もきょうかも互いに謝らなかった。だが、それまでだった。

 翔太はこれ以後きょうかを見なかった。きょうかも翔太を見ない。

(無能が)

(言い訳、したつもりか?いけないぞ)

(犬子先生は、お前に優しい。慈悲深い)

(でも忘れるなよ、翔太)

(お前が確実に最も足を引っ張る、エネルギッシュ無能であることを)

 きょうかの目はカッ開いていた。そして、もう翔太を一人の男子生徒とは思わなかった。

 きょうかは一瞬翔太をじっと見た。だが、さっと視線を外した。

 一也と同じように出来損ないだと思っていたが、流石に擁護のできないような性格だと判断した。

「なぁ……聞いてもいい?」

「何?」

「お前って血液型、なんなの?」

 ぶっと笑ってしまいそうになったが、あえて尋ねた。

「じゃあ、お前は私が何に見えるんだ?」

「んー…」

 翔太は口を開き、大声で言った。

「B型、かな!」

 きょうかは翔太の前で笑ったが、嘲笑の意味合いを込めて笑った。

 自分はO型だ。だが翔太は永遠に気づかないだろう。そう思ったのだった。


•••


 検定の時間が終わり、きょうかは家に帰ろうとした。そして、ある噂を聞いた。

 廊下の近くで女子が話していた。

「ねぇ聞いた?一也くん、歩実に暴力振るわれてるんだって」

「え?そうなの?」

「しかも一也くん、言いなりなんだって。みんなの前でキスしろとかいちゃつけとか言われて従うんだって」

「何それ。一也も落ちぶれたね」

「しかもさ、一也って、前まで馬鹿男子キャラだったんだけど今はインキャなんだって〜」

「しょうがないよ。修学旅行中歩実とデートしてたからね。盗撮されてたらしいけど」

「あんな性格悪い女と付き合ってるのやばいよね!きょうかはどう思うんだろうね?」

「え?きょうか?どうして?」

「だってさー」

 きょうかはその次の言葉を聞いて学生鞄を落としそうになった。

「有名だよ。きょうかって、歩実に嫉妬してるんだよー!一也くんのこと好きなんだよ!」

 きょうかは動揺した。そして心臓がバクバクと震えた。

 自分の思想が女子のガールズトークに消費されている。それが何よりも屈辱だった。

(こいつらは、何を言ってるんだ?)

(私が、あいつに嫉妬?そして一也のことが好き?)

(お前達も、私を、片想いする女と定めるのかよ)

(そんなんじゃない、私は、ただあいつを壊したいだけ。そしてあいつの行く末を見るだけ)

(やつに片想いしたら、やつがまた不幸になるだろ)

 その瞬間気づいた。

 一也は、元々不幸だ。

 歩実に虐げられ、花美にアクセサリーのように使われて、無能な男子すぎて周りのクラスメイトや担任からもう相手にされない。

 それがどれだけ、酷くて苦しいか、きょうかにはわかる。例え体験していなくても、一也の心中は計り知れない。

 そして、あの豚島すずなという先輩にもストーキングされている。家庭環境も今日もなくない。

(だが私は、一也を助けない)

(だってあいつは私に、近寄らないでって言ったからだよ)

(相手が言ってないとか言ってるけど、関係ない。おおかた忘れてるんだ)

 そう自分に言い聞かせた。そうして距離を置いて、自分を守って、一也の女が苦手な意識を守ろうとしている。

 例え一也が他の女子と楽しそうに話していたとしても。

 

•••

 

 その日も、きょうかは夢をみる。

 法廷に立たされている夢だ。しかもただの法廷ではない。ここの裁判所の名前は架空の名前の裁判所で、きょうかは最低最悪の犯罪者として罪に問われている。

 きょうかは鼻で笑う。

「私を裁くつもりか?落ちぶれた癖に、私を裁くつもりか?」

 きょうかの目の前にいるのは裁判長の格好をした姫瑠だ。彼女は彼女らしく、きょうかをじっと見るだけで、その視線がひどく不愉快だった。

 そして現れた検察官が罪状を話す。検察官は今の主任の顔と声で話し出す。

「狗崎きょうか。お前には色々な罪があるんだ。まずそれを自覚しろ」

 音楽担当の主任に言われても、きょうかは怯えない。それは彼女が無敵であることを示していた。

「まず罪状を述べていくぜ。お前は精神殺人罪が一件ある。千砂花美の心を殺したことだ。お前は花美をいじめたことをいいことに、奴の人を信じたい気持ちを傷つけた」

「何が言いたいのかさっぱりだよ、検察官。私は奴に嘘をつかれた側だ。だから嘘を嘘で返す。それは当たり前で─────」

「いいから黙って聞け。次に歌見姫瑠を避けた罪として、問題回避罪が適応される。さらに雛原やよいの気持ちを傷つけた罪。やよいはお前のせいで、一人ぼっちになってしまったんだぞ」

 検察官の主任は浮かない顔をして、罪状をまとめた紙を見ている。

「藤沢の絵を否定した罪。翔太を無能扱いした罪。そして、一也と話し合いをしなかった罪。歩実を疑ってる罪。それから───以上のことをまとめ、お前は七つの罪がある」

 眉を顰めたきょうかは弁護人の方を見た。

「…いつも思うんだけど、なんで弁護人がいないんだ?」

 不機嫌そうな顔できょうかは周りに問いただす。すると、犬子が現れた。犬子は弁護人ですらない。傍聴席にふわりと現れたのだ。

「本当はわかってるんでしょ?」

 犬子は優しく微笑み、きょうかをまっすぐ見つめる。

「本当は弁護人、つまり誰かの助けを必要としてないんじゃない?」

 その発言を聞いた途端、姫瑠がすぐに判決を下す。

「狗崎きょうか、お前は死刑だ」

 そして夢の中で何度も殺される。ある時は蹴られ続け、ある時は殴られ続ける。体は燃やされる時もある。銃弾を受ける時もあった。

 怖い夢だ。誰もが知る、悪夢だ。

 火炙りを受けて、天を見つめるきょうか。

 それでもきょうかは、罪の意識に苛まれることはなかった。

(私が何をしたというんだろうか)

 そう思いながら、今日も刑罰を夢の中で受けていた。


•••


 それでも月日は巡り、きょうか達は中学二年生から中学三年生になろうとしていた。

 中学二年生の、最後の定期テストを渡される。

「きょうか、惜しいね。点数は悪くないんだけどな」

 その犬子の言葉に全てが凝縮されていた。答案の総合点は四百二十点。そしてランキングは二十四位。

 ずっと入ってた十番内。きょうかはそれから外れていたのだった。しかも、点数が低いという理由で。

「…………は?」

「受験が近いんだよ。もっと頑張らなくちゃね」

「……そうですが……はい」

きょうかはくるりと向こうを見た。

「俺頑張ったんだよー!!二十位から六位なんだ!」

「私も頑張ったよ!七十点だった数学が八十点だったの!」

 きょうかは歯軋りをごりごりごり、とした。

 心が出てくるのは悔しさと、これからさらにやらなくてはいけないという努力の心。そして、周りを憎たらしく思う気持ちだ。

 そんな時に藤沢が点数を上げたらしく、周りに褒められていた。きょうかはそれを気にしてつい、瞬きもせず藤沢を見ていただけだった。

(あいつ…八十四点か?珍しいな……)

 それだけだった。

「うちね!八十四点だったの!数学!……あ、あれ?」

 藤沢と自分の目があった。藤沢は最初こそまるでなぜこっちを見ているのかわからないようだったが、ハッとした。

 そして一言。

「ねぇ、うちが勉強できてるからってきょうかがこっち見てるー。やだねぇ」

「いや、そんなことないよ。ただ成績上がったんだなって思っただけで………」

 きょうかは最初こそ藤沢に対して敵意のなさを見せつけるように説明した。弁明だ。藤沢だって納得してくれると思っていた。それなのに。

「いや〜!絶対違う!成績が下がってるからってうちのこと見てる!ねぇ、やだね!ほんと!ねぇ!みんな!」

 ついにきょうかは激怒した。藤沢には昔から憎らしく思っている瞬間が何度もあった。

 自分よりも絵が上手い藤沢。

 周りに好かれている藤沢。

 その藤沢についに怒鳴りつけた。

「うるさいんだよ!!!!そんなことないって言ってるだろう!!?いい加減にしろ!!」

 ペンケースで机をバン、と叩き、藤沢を睨みつけた。全員が成績のことでガヤガヤと騒いでいたのに、しぃんとあたりが静まり返った。

「…………う、うち、そんなつもりじゃ………」

 藤沢の顔が真っ青だ。犬子がそれを感じ取り、やってきた。

「どうしたの!?きょうか…!」

「なんでもない……チッ!馬鹿が!」

 きょうかはペンケースを握りしめて、教室から立ち去った。これから大事な話し合いがあるのに、無視して教室から立ち去った。


 二年生の時はこれで終わりだ。

 そして、三年生の受験期が、幕を開ける。


•••


 クラス替えが始まった。藤沢も、翔太も、花美もやよいもいなかった。一年の時に一緒だった生徒の一部が再び現れた。

 クラス替えの表を見ている時、きょうかはあることに気づいた。

(…?担任は、犬子先生か)

 そして横から犬子が声をかけてきた。きょうかに向かってだ。

「どうして君はこのクラスのメンバーになってるか、わかる?」

「さぁ。私と仲良しだからとか、私のことを知ってる人が多そうな人が多いようには見えます」

「大正解だよ」

 犬子はついに口を開いた。ゆっくりとしているが、きょうかの心に疑念を植え付ける。

「二年生も、三年生も、きょうかを理解している人達を入れてるんだよ」

「………え?な、何言って──────」

「じゃあ、またね」

 犬子はそう言って教師に呼ばれたのか、人混みの中消えていった。

(何言ってんの…??理解?藤沢や、翔太、花美、やよいもそうなのか?)

(……あいつらが私を理解してた? あの藤沢が?翔太が?やよいが?花美も?)

(じゃああの見下し、嘲り、私を避けているという扱い、嘘。全部「理解した上での行動」だったってこと? ふざけるなよ。そうじゃないだろ)

(理解した上であんなことをするのも邪悪だけど、理解してない可能性の方が高いだろう。悪い意味の理解?か?)

 心臓がドクンと跳ねるが、気が散りたくなかった。

(まあいいさ。私はついに難関高校を目指すんだ。学年一位や学年五位の実績がある。前よりもたくさん勉強すれば、できる。考えるのはその後。その後でいい)

 きょうかはクラス表をじっと見た。

 自分よりも成績が良さそうな人が、三、四名しかいない。そのうち一人は自分と同じくらいの成績だ。

(できないことないだろ。きょうか。ここまでみんなが認めてくれて、人権も獲得できた。二年四組はクソだけど、前よりも待遇は確実によくなっている)

(────いける。勝てばいい。勝ちはどんな正義よりも確実でわかりやすいんだ。何はともあれ、南関校にいけば)

 その遠くで歩実と姫瑠が何かを話している。彼女達はこちらを見てあることに気づいた。

「私達一組のクラスと、四組のクラスって、引き離されてるよね」

 歩実はほくそ笑んで、姫瑠に耳打ちした。姫瑠は少し目を丸くしたが頷いた。


•••


 きょうかは三年四組として、教室に入った。小六からの顔ぶれや、他の生徒達と挨拶もそこそこに、親しく会話をする。 

 だがきょうかは知らない。自分の知らないところで、確実にある計画が進行していることを。そして自分の母親の純が、それに使われようとしていることを。

「いやー、きょうかも同じなのかー!よろしくな!」

「うん、よろしくね。受験生だし、大変かもしれないけど」

「そうだよな!俺達も頑張らないとな!」

 二年四組のメンツはほとんどいなかった。代わりにいたメンツの和やかさや明るさが、きょうかの気分を盛り上げていた。

(……なんだ、思ったより悪くないな。いいね)

 きょうかは教室を見回しながら、心の中でほっとしていた。

(二年四組の時みたいな、あの歪んだ空気はない。むしろ、普通で、居心地が良さそうだ)

「きょうかってさ、頭いいんだろ?塾とか行ってるの?」

と隣の男子が話しかけてくる。

「うん。そうだね。でも油断したら落ちるから、あんまり言わないでよ」

 軽く肩をすくめ、笑って返した。自然と会話が弾む。

 だがその裏では、仕事をしていない純の元には一本の電話が入っていた。

「狗崎さん……貴方の娘さんのことについて、ちょっとお話が……」

 その声は、教師の声だった。純はそれがどんな意図を持つものかも知らず、ただ「娘のためになるなら」と、その話を聞こうとしていた。

 一方きょうかは、教室の新しい空気にどこか救われたような気分で、初日の午後を過ごしていた。

(今度こそ、勝ち上がる。余計な感情は捨てて、上だけ見ればいい)

(下なんて、いくら見ても大したことないんだしな)

 きょうかは知らない。

 犬子が自分を支援するのを途中でやめることも。

 姫瑠と歩実が成績を上げるために努力することも。

 純がこの学校に来て、全ての真実を知ることも。

 そして、この一年間で自分の成績は最下層になることも。


•••


 純は携帯を閉じ、あることを思い出した。

 自分が中学の教師達になんて言われているのかもう、わかっている。

 過干渉。過保護。そうして言われて、今にもきょうかと純はきょうかの知らないところで何度も引き剥がされそうになっている。二人の絆。そして信頼をだ。

 それでも純は大人だ。先生と会えば食事やマンゴープリンを持ってきて、先生達と仲良くなり、信頼を得る。けど、過保護や過干渉という言葉を言われて謝ってもらったり、過去になんかあったのかと質問をされたり、前言撤回してもらったことはない。

(学校に行くの?私が?仕事してないから?)

 純は携帯の通知を全部確認した。

 最近純は、常に犬子や他の先生から連絡が来ている。

「貴方の娘は頭がおかしい、けどこれは言わないで」

「貴方の娘は病院に行ったほうがいい」

「今日もこんなことがあった、翔太を無能と暴言を吐いた」

「藤沢にも怒鳴りつけた。感情的に激怒していた」

「姫瑠を避け続けている。歩実も、一也もきょうかが避けている。一也は困り果てている」

「何があったのかは知らないけど、娘は一旦病院で検査を受けたほうがいい」

(何言ってんの…?あの子は、病院や大学教授のもとで、相談をしているのに………私だって、その場にいるのに……)

 純はあまりにも連絡が来るので、ある日こんなことを言った。

「先生は、私の娘や私に何をして欲しいんですか?そんなに私の娘がおかしいなら、仲良し学級に入って欲しいってことですか?」

 しかし先生は口ごもり、続けた。

「そんなことありません。そもそも仲良し学級に行くのは基準があります。貴方のお子さんのように勉強ができる生徒は、仲良し学級に行くことはできないんです」

 それが全てを物語っていた。さらに先生は続ける。

「でも、きょうかさんの精神状態が心配ではあります。そして提案があるんです。三時間だけ学校に来ると言うのはどうでしょう。今は受験期で、みんなも勉強に集中しないといけない時期。きょうかさんも休憩や安寧が必要なんです」

 それでも、純は先生達に過干渉と影で言われていることを覚えている。

(過保護とか過干渉って言って、都合が悪くなったら私と連携を取ろうとするの?私にお願いするの?)

 やりとりはその時すぐ終わったが、純はそれを思い出してため息をついた。

(だから先生って、信用ならないんだよ)

 それでも純が学校に来て欲しいと言われてるのは変わらない。渋々だが様子見も兼ねて行くことにした。

(先生はいつもそう。昔の先生も厳しくてきつくて嫌いだったけど、あの時の方が幾分マシだった)

 純は昭和生まれだ。昭和の頃の過激だがルールを守り勉強をしないと怒る、冷酷だが規則的な担任や他の先生達を思い出した。

 あれはあれで嫌いだが、今の先生はどうだろうか。

 優しさの皮を被り、誰かに常に物事を押し付け、自分はその癖実績があると信じたい。

 純は上を見た。天井だ。特に何もない、実家の天井。

(きょうかが優秀な高校に受かって、頑張っていけば、うまくいく。けど、これ上手くいかなかったらどうなるんだ?)

 純は社会人ゆえ、何事にも全てうまく行く保証がないとわかっている。ポジティブな出来事もあれば、ネガティブな出来事もある。それが人生であり、成功と失敗。

(途中でうまくいかなかったら、先生は何してくるんだ?)

 恐らく、いや、でも。きょうかには言えない。きょうかは犬子を信じているからだ。自分を認めて支援する大人は犬子しかいないと信じているからだ。

「やめよう。ひとまず五月から様子見のために行くんだ。あの学校で、何が起こってるのかを」

 あの、田んぼの中、立つ中学校。

 青春を謳歌し、多くの明るい生徒が卒業して思い出となる場所に、純は五月から、初めて足を踏み入れる。


•••


 きょうかは、苛立っていた。最初のテストもうまくいかなかったのに、今がかなりきつい。

 当たり前だった。自分は勉強をしに中学に来ていて、受験のために自習をしようとしたりしているのに、邪魔が入るのだ。

 姫瑠と歩実が、自分の教室の外で何かを話している。歩実は大声で友達に絡むが、姫瑠は無表情でただ一点を見ている。

(なんであんな奴がいるんだよ………………)

 きょうかは犬子の方を見た。

「先生、あいつらがここに来て三回目ですよ。早く追い出してくださいよ」

 しかし犬子は困った顔をした。

「……なんですか、その顔」

「先生はね、何度も二人に言ってるんだよ。ここにいないで他のところに行ってって。でも、あの二人は「私達は音楽係で、神出鬼没な担当の先生がここに来るって聞いたから待ち構えてるだけだ」って」

「は?そんなの嘘に決まってるじゃないですか!」

「でも、言ってるからなんとも…音楽係なのは本当みたいだよ。先生だって何度も言ってる。けど、ああして居座ってる」

「でも……」

「それにきょうか、あんな二人がいても大丈夫だよ。きょうかは頑張れるよ。実力だって出せる。負けないでテストに向けて頑張って」

「………は」

 それで犬子は話を切り上げた。きょうかは歩実の方を見た。歩実と一瞬、目があった。歩実はにんまり笑っている。まるで、お前を笑うためだけにここに来たと言いたげな顔だ。

「ゴミクソデートDVバカキノコが…………………」

 きょうかは何も聞こえないくらいの声で呟いたが、歩実はさらに煽るように咳払いを一つした。

 巨大な、誰にでも聞こえる咳払いだ。

 そのやり方がいかにきょうかを怒らせるかなんてみんなわかっていた。生徒の一部はきょうかを怒らせるためだけにあいつらは来ていると思うくらいだ。

 しかし犬子はそう思わなかった。それが全てだった。

(絶対殺してやるよ。あんな奴ら)

 

•••


 五月末になり、定期テストが終わり、きょうかは三十四位まで転落していた。その中でも純はきょうかや周りの授業を見守るために、落ち着いた服で中学校に行くことにした。

「お母様、今日は来てくれて嬉しいです。ありがとうございます」

 たくさんの先生が彼女を出迎えるが、純はあることを思い出していた。

(そういえば…六月に、心理相談の大学教授の芝先生が…来るんだったね)

 周りの先生と挨拶もほどほどに、現れたのは犬子だった。

「お母さん、来てくださってありがとうございます。きょうかさんの様子をぜひ間近で見てください。彼女も、きっと安心します」

 純は挨拶を笑顔で返したが、脳内ではもう全てがわかりきっていた。

(違うでしょ。きょうかは安心なんかしない。むしろあの子はきっと不安に思うことが増えるだけ)

(先生。あんたはきょうかの理解者かもだけど、本当はどうなんだろうね)

 教室に入り、紹介もそこそこにきょうかの勉強しているところを眺める純。

 純は知っていた。自分の娘の成績が下がって行くことに。そして必死に勉強をしていたこも。だが驚いた。彼女の目は勉強をすることに取り憑かれているようで、全くそんな気配がない。

 理由はわかっている。きょうかから少しずつだが聞いている。周りの先生からも話は聞いている。

 休み時間になれば、歩実と姫瑠がやってくる。そして友達と長話をして帰って行く。ギリギリまで四組に居座り続ける。そして、周りに来ないでと言われても先生を探しているだけと言い訳をする。

 犬子は何も言わない。きょうかが「あいつは私を見てバカにして笑う」と言っているのに、他のものを見て笑っているだけだと言っていることも、わかっている。

 きょうかはそんな余裕そうな姫瑠と歩実をきっと睨むと、勉強のために自習をする。これからの未来、そして受験のために、最難関校を突破するために。

 しかし二人の友達との駄弁りにはらわたが煮えくり帰ったきょうかは、昼休みに机をバンと叩いた。

「もううんざりだ!」

「うるさいよ、きょうか!」

 他の男子や女子が注意をするが、この後最悪の未来が待っていた。

 純が瞬きをする間に、きょうかは学生鞄からあるものを取り出した。

 祖母の料理包丁だ。

「きょうか!!!」

 純の方が動きが早かった。だが、きょうかは包丁を持ち出し、教室から出た。その異変に察知し、純と遅れて犬子が教室から出る。

 きょうかの脳内には、ある一つの事実だけが浮かんでいた。

(ここで、あいつらを殺さないと、私の人生が惨めなものになる。全てが壊れる)

 周りの生徒は怯えて怖がって何も言えない。

「ねぇ、見た?」

「きょうかが、包丁を」

「あれ、料理のだよね?どこから持ち出したの?」

 きょうかはそれでも無視をして、包丁を持って姫瑠と歩実の前に立った。

 しばしの沈黙。そしてきょうかの考え。歩実と姫瑠は笑って、きょうかを無視するように駄弁っている。

(………どっちを殺すか。元凶は歌見だけど、今鬱陶しいのは歩実だ)

 ふいに歩実は気づいた。きょうかが包丁を持っていることを。しかし、にんまり笑うだけだ。姫瑠は姫瑠で包丁を見てもなんとも思わない。

 恐怖心も殺意も、そこにない。穏やかな無関心。

 包丁を握りしめて、きょうかは歩実の顔に突きつけようと近づいた。

「殺して………殺してやるんだ………お前達みたいな奴らなんかに人生を邪魔されてなるもんか…!」

 きょうかが包丁を歩実の顔に狙って、握って突き刺そうとした時、純よりも、犬子の方が早かった。

「危ない!!!!」 

 犬子の強烈なタックルに、きょうかの手から包丁が外れる。その金属が落ちると音に全員がこちらに集中する。

「きょうかが包丁を持ってる!」「あいつ、姫瑠や歩実を殺そうとして!」「に、逃げろ!!!どうなるかわからない!!!!」

 周りの生徒や教員が叫んで悲鳴をあげ、逃亡したり、避難させたりしている。

「歩実さん!姫瑠さん!速やかに教室に戻りなさい!帰りなさい!」

 だが、きょうかが犬子に捕らえられた。純が包丁を取り、自分の袋に包もうと教室に戻った。

 避難の指示は二人に聞いてるはずなのに、二人はびくともしない。片方はきょうかの惨めな姿を笑うようににやにやと笑い、姫瑠は無表情にこちらを見つめるだけだ。

 まるで、次はどうするの?と言いたげな顔だ。しかし、本性を見せない。

「殺してやる…!!!絶対に殺す!!!お前達のような奴らがいてたまるか!!!いつもいつも私の邪魔をしやがって!!!!」

 犬子が抱きしめるようにきょうかを取り押さえるが、きょうかは惨めったらしく、姫瑠と歩実に怒鳴り散らした。

「いつもそうだ!!!そうやって、私達は普通に生きてます、と言ってるその姿!気に入らない!お前達みたいなのは、肉塊にされて、知らない民族の飯にされてしまえばいい!!」

 怒鳴り散らす。苦痛を与えるように罵倒する。だがきょうかは知らない。この二人の前では強い叫びも、ただの娯楽とノイズにしか聞こえないことを。

「屑!馬鹿野郎!知能の低い邪魔者!片方はデートDV、もう片方は洗脳をするいじめっ子!みんな信じてくれない!クソだ、お前も、先生も、友達も、全員この場にいる。私以外の、こいつらを知らない、知ろうとしない。全員ゴミだ!みんな死んでしまえばいい!」

「きょうか!あっちに行くよ!」

「犬子、あんただって、私からあいつを守ったな!庇って助けたつもりか!これだから、教師というのは…!!!」

 犬子を剥がそうとするが、他の先生達が近づききょうかを取り押さえる。純も取り押さえて、きょうかは動けない。

 闘争反応が起きるPTSD。これが全て無駄になる。

「あぁ!死ね!生きる人間の癌!塵芥!屑!タチが悪い!地獄に堕ちろ!!!」

 罵倒した。声がからからなのに、歩実はただニヤニヤ笑っている。しかし、二人とも言い返しを避けている。言い返したら自分達の本性がみんなに知られてしまうのを、二人もわかっている。

「ミンチだ!死刑だ!どんな刑罰がいいか?目をくり抜く?舌を切る!なんでもいい!死ね!お前達みたいなのは、地獄の底がふさわしい!!」

 そして、意識がぶっつり消えた。途切れた。きょうかはそこで倒れた。


•••


 その後、話はまるで魚がすばやく川の中を泳ぐように進んでいった。

「きょうかは三時間のみ中学に来ること、それ以外は純の元で過ごすこと」

「昼ごはんは純の作るご飯を食べて、早急に休み時間は家で過ごすこと」

「仲良し学級に行くことは基準によりないが、きょうかにはとにかく休んでもらうこと」

 この三つのことが決定した。それでも、きょうかは塾に行かないといけない。学校を終えて塾に行った時、塾講師から話し合いの場を設けられた。

「先生、どうしたんですか?」

「今日は君に話があって場を設けたの。後でお母さんにもきてもらいたいんだけど…」

「はい」

 先生ははっきりした意見を好む厳しくも優しい美人な先生。そんな強そうに見える彼女がとても困った顔をしている。

「唐突だけど、姫瑠さんって人が、この塾に来るみたいなの。もちろんすぐにとは言わない。けど、受験のために、来るか来ないかを考えてるんだって」

「……………」

 きょうかは黙って先生の話を聞いてる。

「お母さん、呼んだ方がいいよね。今から呼ぶね」

「はい、そうしてください」

 きょうかは知らない。ここで彼女が愛した塾を辞めることになるなんて、知らない。そして自ら辞める結果になるとも、今はわかっていない。


•••


 塾を辞めた後、きょうかは家庭教師をつけた。だが話が脱線しがちで、気が散り、きょうかは現実逃避を始めるようになった。

 そんな中でも、きょうかは学校に行き、犬子に声をかけた。

 みんな元気そうだった。しかし、学力にはきょうかと圧倒的に差がついていた。

 犬子はいつも明るい笑みをしていたが、きょうかを見ると別室に連れて行く。

 そして犬子はきょうかと雑談もそこそこに、ついに口を開いた。

「姫瑠と歩実は、教室に来てないよ」

「え?」

「なんだかね、先生もよく知らないけど、最近はきてないの。受験勉強に集中してるみたい」

「ち、ちが………先生、それは…」

 否定しようとしたが、犬子は自分の言葉を遮る。

「でも、先生は思わなかった。ようやくきょうかが難関の高校に対して勉強を頑張って、中1から中2まで成績を上げてきたのも知ってるよ。けど………一つきょうかは、大事なことを忘れてるよね。どうして、君がここまで頑張ってきたかを」

「え」

「私達が、最初に理解して歩み寄ったんだけどなぁ。先生も、君の友達も、学年のみんなも。それなのに、どうしてわかってくれないんだろうって、先生不思議に思ってた。みんなが君に尽くしてくれたのに」

 ぶるぶるときょうかの心が震えた。

 貴方は何を言ってるんですか?そんな気持ちにしかならない。

「は」

「先生、私は自ら勉強して、実力を積んだんですよ?みんながそれで私をすごいって認めて、ちょっとずつ仲良くなったんですよ?」

「うん、それはわかる。でも根本的な話をしてるの。最初に貴方を認めて歩み寄ろうとしたのは、誰だっけ?きょうかがみんなに認めさせてやるなんて、やってるわけないしね」

「……………」

 席から立ち上がりそうになったが、きょうかは沈黙した。

「………いや…………」

「先生、気づいたんたけどさ。他の人はみんな頑張ってるんだよね。結果も出してるし、もう少しで高校受験に向かって安全圏に入れる生徒もいるの」

「…………」

「きょうかも、新しい高校探し、頑張ってね」

 それだけだった。自分は安全圏ではないが、優秀な高校に入ることをまだ諦めてはいない。

 だが、その言葉の意味をきょうかはわかっていないようでわかっていた。だからこそ頷いた。

「はい……」


•••


 それから後のことは、もう覚えていない。自分は自宅待機で絵を描きながら、気が散るように勉強ができず、時に部屋で暴れて泣き出し、薬を投与されても拒絶した。

 精神科も頼れなかった。確実に彼らは頼もしいはずなのに、無能で無力に見えた。

 そして今日は、ついにあの大学教授の芝が中学校にやってきた。彼はきょうかの状態を説明する。ただそれだけのためにわざわざやってきたのだ。

 しかし芝は職員室に入るなり驚いた。知らない先生が声をかけてきたのだ。

「芝先生!来てくれたんですね!よかった!」

「おお、初めまして。貴方は…?」

「先生!私達もうどうしたらいいか、わからないんですよ!!きょうかさんも、あんなに暴れて人を怒鳴りつけるなんて……」

「一旦、落ち着いてください。私はきょうかさんの状態を説明してこれからどうすればいいかを言いますので」

「ですが……」

 芝はこうして先生達にきょうかの状態を説明した。だが自宅待機させられているきょうかに、これがプラスの意味になっているのか、誰にもわからなかった。


•••


 その後はもう、ガラガラと転がるような感覚がきょうかの中でじわりじわりと出てきていた。

(自分は転落してんだなぁ)

 きょうかは私立の高校のパンフレットを見ながら実感した。

 十月。明日は私立の高校の面接がある。これを通ればきょうかは合格だ。

 勉強しなくてもよかった。成績表や特技を提示することもないと言われた。

 他の生徒は受験で頑張っているらしく、中には馬鹿だったのに成績を上げて発表をするようになった生徒も山ほどいるらしい。

 自分と交流してくれた女友達も、きょうかを仲良しの友達としてもう認識していない。一也だって受験で頑張り、工業系の高校に行こうか悩んでいる。

 自分の高校は私立で、金が必要だ。純は働くし祖母の金があるから心配ないと言ってくれるが、偏差値が〇の、成績が低くても通れる高校と聞いていた。

 苦々しく微笑んだ。面接が終われば、後は卒業式でゆるりと時間を待つしかない。

 怠惰にお菓子を食べる。美味しいアップルパイ。けどその中の味は特に意味がない。無意味で虚無を象徴する味。

(歌見は偏差値がちょっと高めの高校、歩実は農業高校か…………)

 もうあの頃より三キロ太っている。落ち着かせるためにミルクティーやジュースをガブガブ飲んだ結果だ。昔の自分が見たら怒られそうだと、笑うしかない。

 今の彼女に高校で新しく頑張るというのはなかった。もう頑張れない気がしたのだ。それに、あんな馬鹿な高校で頑張って一番になっても、そんなに嬉しくなかった。

「不登校、精神障害、発達障害、苦労した子も歓迎!どんな子もポジティブに導きます!」

 パンフレットにはそう書いてある。きょうかは歯軋りをして、ベッドに乗り、天井を眺めた。

(私を導いてみせろよ)

 テレビではアニメがやっている。だが、別に内容は入ってこなかった。

 それがいかに惨めで疲労の色を見せるか、きょうかにはよくわかっていた。


•••


 面接は通り、合格した後、きょうかは落ちぶれたようにゲームに熱中した。

 アニメも見て、勉強を放棄し、具合が悪くて胃腸炎にもなったがすぐに治った。体重は減った。

 そしてついに卒業式の話で、きょうかは呼び出された。犬子は前よりも元気そうだったが、きょうかを見ると一つの質問を投げかけた。

「卒業式、行く?来る?」

「もちろん行きたいです。私は卒業式だけでも出たいです」

「でもねぇ……」

「何か問題ごとでも?」

「歌見も、歩実もくるの。ううん、他にもその人達の親御さんもくる」

「でも、私ももう避けたりしないし……」

「我慢できる?」

「…………」

 犬子は寂しそうに目を伏せた。

「行かない方が、いいかもしれないね」

「なんでですか」

「君の精神の安定のために」

「………」

 そう言われたら、なんとも言えない。沈黙と相槌が、肯定に捉えられた。それだけだった。


 勝利の女神は、きょうかに微笑まない頑張る生徒や姫瑠、歩実に微笑む。

 それが如何にきょうかの全てを敗北とするか、よくわかっていた。だからこそきょうかは事情は後で説明してもらおうとして、引き下がった。

 犬子を、信じたかった。


•••

 

「どういうことなんですか!?」

 純は呼び出された。犬子の説明を受けて目を見開いている。

「うちの子が、卒業式に行けない???そう話が進んでいるんですか?」

「はい」

 犬子は頷くしかない。

「卒業式に行けないのは、歌見達がいるからですか?その人達の親もいるからですか?ならお願いします。ギャラリーだけでもいさせてください。あの子は卒業式に出たいんです。お願いします」

 しかし犬子はさらに純を驚かせるようなことを言った。

「もう、決まってるんです。あの子は療養した方がいいし、何よりも…もう、先生達の間で決定したことなので、ギャラリーに呼ぶというのは……」

 純はその話を聞いて、犬子を静かに睨みつけた。

(そうか、その手で来たんだね。うんうん。そうかそうか。不利な方向に行ったら、もうあんた達は、きょうかを助けないんだ。助けなくてもいいけど、結局見返りを求めるなら、助けないで欲しかった)

 純はその言葉を飲み込んで、会議室から立ち去った。


•••


 卒業式は、行ったが行けなかったも同然だった。

プチ卒業式が、きょうかのために開かれた。

 無意味だった。主任や担任の犬子はきょうかに「頑張ったね」や「ありがとう」の言葉も投げかけなかった。

 母親の純にも「協力感謝します」の一言もなかった。

 幸せそうに、プチ卒業式が進行する。だがきょうかはみんながいる所を眺めた。

 玄関でみんなが楽しそうに写真を撮っている。

 あの場には行けない。行くことも許されない。

 なぜなら自分は最大に努力して、最も惨めな方法で負けたからだ。

 そして、歩実や姫瑠も嬉しそうに卒業する。他の生徒もだ。一也、花美、藤沢、梅、翔太、倉田、やよい、他の生徒達みんなも、楽しそうにこれからの未来に胸を膨らませる。

 卒業の手紙を開く。思い出を書くのかと思いきや、犬子は手紙にきょうかの性格は決めつけがひどいのでもっと寛容になるように、と書いてあった。

「死ねばいいのに」

 きょうかはぽつりとそう呟いた。しかし、その言葉は周りにそう言ったのか、先生にそう言ったのか。そして自分に向けたのかももうわからなかった。


•••


 高校の入学式の前にきょうかは純に尋ねた。

「犬子先生がなんであんなことしてたか、お母さん知ってた?」

「知ってたよ。犬子先生があんな人だったこともね」

「じゃあ…どうして、私に言ってくれなかったの」

 純の答えは無駄がなく、きょうかの頭に言葉を刻ませた。

「だって、言っても、聞き入れないのわかってたから」

 車で高校に向かう二人。これから始まる高校生活。

 それでもきょうかは全部わかっていた。

(私が、この高校でポジティブさに導かれることはなさそうだ)

 そしてその言葉は現実になってしまうのだった。

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きょうかちゃんは人類愛者? 水割り(ぎむれっと) @gimlet_kuroyuri1213

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