第17話

もうすぐ、抜けられるような気がするの。描いて失って、虚を突かれて、渇望して、また描いて失って、そんな堂々巡りから、解き放たれるの。今描いている〈橋〉が完成すれば、きっと、お終い。五嶋さんが、教えてくれたの。宮間さんは、橋を自分の中に留めたいというよりも、手放したいんじゃないかって。体の内に根付く橋を丁寧に取り出して、客観的に見られる場所に立ちたいんじゃないかって、言ってくれたの。静謐な美術館や博物館で展示物をガラスケース越しに眺めるみたいに、安穏に、平らかに慈しむの。近視眼的になりすぎていたんだわ、これまでが。だから時折、目眩と耳鳴りがして、心臓が搔き毟られるみたいだったんだわ。ねえ、久我くん。人は、自分と似たものに惹かれるのか、違うものに惹かれるのか、どっちだと思う? よく考えていたの、このごろ。はじめは、違う方だと思ったんだけど。ずっと考えていたら、どちらも、だという結論に辿り着いたの。ある夜、窓の外に北極星を見つけたときに、そうだ、と思ったの。その夜の北極星が、特別に輝いていたわけじゃないんだけど。ただ黄みがかって、中心からささやかな光を伸ばしていただけだったんだけど、針くらいの細さの。脈絡無く、それこそ天から答えが降ってくることって、あることなんでしょう。それで、人は誰しも誰かに似ていて、でもやっぱり違っていて、だから、惹かれるんだとわかったの――

 助手席で語る恵麻の、声、言葉、馳せる思考、心此処に在らずの態度、すべてが無造作に頬を叩(はた)くようだった。彼女から迸る幸福感。僕にはそれが、狂気と言い換えられる代物に思えた。又は悪い夢に。両肩を掴んで、言ってやりたかった。違うんだと。恵麻、きみが視ているもの聴いていること、全部が全部、ほんとうというわけじゃないんだ。人は、生きる道のうえに散りばめられた数多の事物から、見聞きしたいものを選り好んで懐に取り込んでいる。よって、歩き方が偏る。正道から逸れていく。恵麻は、まだ解っていないんだ。恵麻。ほんとうは。ほんとうのきみは。

 交差点で恵麻が降りたあと、白鷺橋の河川敷のスロープを下り、車を停めた。運転席でうずくまり、喉から奔出しかねない想念を抑え込む。瞼を上げると、夜の帳は降りていた。ドアを開け、芝を踏むと、靴の下で枯れ草がパキと鳴った。アーチに月光をのせた橋は、居丈高に僕を見下ろしていた。

堤防を登り切ると交差点が視界に入る。毎回、恵麻を拾い、降ろす地点だ。この場まで、そして此処から歩き移動する恵麻を、まともに見たことがない。

今、他に人間は居なかった。外灯と信号機のランプが照らす範囲外は、おおかた闇に沈んでいた。橋と交差点、見えている道路の他に、この世は無いように思えた。信号機の三色だけが鮮烈な色彩だった。恵麻は、どこから来てどこへ帰っているのか。光の外側に、恵麻の帰る家などあるのか、本当に? 疑念が湧いた。確かめなくては。俄に決意が芽吹く。

恵麻が利用したというコミュニティバスの停留所、恵麻の勤め先だというアクリル商品の製造会社の位置を携帯電話で確認し、ここから進むべき方角を推測した。導き出した針路に信憑性は皆無だが、光のはずれへ踏み出した。

白。黄。橙。橋から離れ歩くうち、様々な光色が待ち構えたように現れては網膜に侵入した。張り巡らす線で夜空を分断する電柱の灯り。知らない家の知らない者が点けた灯り。人待ち顔で人工的な光を振りまく自動販売機の灯り。「外」にも道は延々と敷かれ、踏みしめるべきものは無尽蔵に、周到に用意されており、十分、二十分と歩き進むなかで、自分という存在が縮んでいく心地がした。家の群れが途切れると、農地を越え次の住宅地を求めた。数台のバイクと車が僕を追い越した。三十分、四十分経っても、凍てて爪先の感覚の薄れた脚を休めることなく家々の表札を睨んだ。一軒一軒、見逃すまいと目を凝らした。表札に刻まれた文字を睨めつけては違う、と確かめて歩く。違う、違う、違う、違う。いつしか声に出していた。唇を開く度に舌を冷気が乾かした。顔中で、口の感覚だけ突出していた。鼻も耳も、見えている筈の目さえも実在感が覚束なく、夜と同化したダウンジャケットのフードに覆われた顔は、ヒトの形を保っているか。

遠くまで来すぎた、恵麻の家は見つからない。明白な結果が、たわんだ意識の糸の一端に引っ掛かりくるくる回るが、別の一本に不格好に絡みつく何かが絶えず唆(そそのか)した――僕は、恵麻の家を探し当てる。「宮間」の二文字を掲げる表札の前に辿り着く。そして呼び鈴を押せば、恵麻か母親あたりが応答し、僕が名乗ると、慌てた様子で恵麻が扉を開く。恵麻は黒色以外の部屋を着て、化粧も落としている。扉の奥には廊下が延び、暖色の照明に染まった居室が垣間見える。恵麻は僕に用件を訊く。僕は、恵麻を夜のドライブに誘う。恵麻は再び驚いて、少し考えてから踵を返して家族に話をつけ、戻ってくる。娘の外出に厳しい両親が渋々認めるような嘘を急遽拵えて、首尾良く。部屋着の上に分厚いコートを羽織って、気の抜けた靴下とスニーカーでも履いて、僕と夜の道を行く。車までは体感的に瞬く間で、一切の光と音が過ぎ行く景色に埋没してしまう。道中、自販機で温かいカフェオレでも買って恵麻に手渡す。恵麻は熱がって、右と左の掌の間で缶を往き来させる。車に着けば、僕らは同じフロントガラスから夜空を仰ぐ。走り出せば、恵麻は着いてくる円い月を眺めつつ歌を口ずさむ。不安を補うためでなく、自然と口をついて出た彼女の、少し調子外れながら軽やかな声が車内に響く。僕は、かつて二人で訪れた吊り橋を目指し車を走らせる。辿り着くと、深まる夜に益々冴えた月とささやかな照明が橋の姿を浮かび上がらせている。僕らは橋の裾に立つ。風が二人の髪を滅茶苦茶に揺すり、粗雑な手際で軽々と体温を奪う。恵麻は橋を見つめる。夜の橋に立つのは初めてで、表情を強張らせているが、次第に彼岸へ向けた眼差しに憧憬のようなものが混じっていく。僕は、寒さと心の揺れから震える恵麻の手を取る。恵麻は僕の顔を見る。僕は語りかける。恵麻、きみは、ほんとうは。ほんとうは、渡りたいんだ。橋を自分から切り離したいんじゃない、逃げずに、渡り切ることを望んでいるんだ。僕は恵麻に詫びる。橋に怯える恵麻を見て心の空洞を補填していた事実を白状する。恵麻は戸惑い、黙して傾聴する。でも、今は違うんだ。今の僕は、恵麻を。恵麻を見てきて、恵麻のほんとうの望みが、たしかに見えたんだ。橋を渡りきったとき、恵麻はなにかを得られるはずなんだ。既存の言葉で表せない類いの、なにか重要なものを。なぜ僕がそれを望むのかうまく言えないけど、僕は、それを見届けられれば僕は、変われるように思う、少しでも今より、愚かでないものに。だから。だから、僕と行ってくれないか。恵麻は何と答えるだろうか、それとも無言を貫くだろうか。とにかく恵麻は、彼方を見つめ続ける。僕はいつまでもそれに付き合う。北極星を軸にいくら星々がまわっても、夜が繰り返し訪れても尚、動かない覚悟でいる。しかるべき時を経てやがて恵麻は、行くわ、と呟き、一歩を踏み出す。いつか、こんなことが起こり得るとどこかで予期していた気がする、筆先で紙上の橋を幾重にもなぞりたしかめながら、こんな出来事を、子供部屋の窓を叩く誰かの来訪を、待っていた気がする、といったことを告白するかもしれない。僕は恵麻の手を握り、恵麻の歩幅に添って橋を進む。途中、恐怖で竦む彼女の背を押したりはしない。躊躇いがちな、這うような一歩一歩の蓄積に、大きな意義がある。陸からゆうに隔たった中腹、僕らは深淵の上で浮遊している。唸り鳴き嬲る風に掠め取られた五感。肉体を剥ぎ取られた二つの魂そのものとして、寄り添い浮かんでいる。再び堅強な拠り所を目指すにつれ、次第に四肢の感覚が蘇る。骨を包む肉と、張り巡る血潮を末端からひとつひとつ取り戻す。それでも、風に吹かれ飛ぶシャボンの泡のように危うい足どりで、恵麻は行く。僕は片腕をまわし、彼女の薄い背中を強く支える。恵麻は息を呑み、頼り無い歩みに反して鬼気の宿った瞳を凝らし、前方を捉えている。やがて、僕らは対岸に到達する。途端に恵麻は糸が切れたように両膝を土につけ倒れ、目を開けたまま茫然としている。僕は、恵麻が上半身を起こすのを待ち、後方の軌跡を振り返るよう促す。もしかすると、空は白み始めているだろうか。恵麻は呆けた顔つきで、長いこと顧みている。そして俄に立ち上がる。唇を震わせ、夢みたいだと、ふやけた声を漏らす。考えるより先に、生まれたての形そのまま、整う前に不意に滑り出た脆くやわらかな音で、夢みたいだと、何度も何度も、繰り返す。僕は、なるたけ穏やかに語りかける。やっと醒めたんだ、長くて暗い夢から。恵麻を縛る怖いものなんか、ほんとうは無かったんだ。恵麻のほんとうは、これから始まるんだ。恵麻は微笑む。たった今、この世に生まれ落ちたような無垢な笑顔があらわれる。

 まるで夢みたいだ。

 シャッターの閉じた煙草屋の自販機を力任せに蹴った。煙草の包装模型を覆った硝子は揺れもせず、鈍器で打たれたかのような痛みが脚に返るのみ。僕は前進を断念した。断念する契機を求めていたのだ。途轍もない虚無感が両肩を圧する。首の後ろに悪寒が走る。咄嗟に蹲り、自販機の前に無色の胃液を垂らした。口元を拭い起き上がり、背を屈め歩き出す。酸い匂いが鼻腔に残る。フードを目一杯深く下ろした。黒く醜い男が行くほか、路上に生きものの体温は落ちていなかった。帰路の長さを笑いたかったが無理だった。耳朶が熱い。目下の道路が歪んで見える。脳味噌が茹だるように、胸部が、発火しそうに熱い。皮膚の内で渦巻く熱風が、紙一重で保つ意識を翻弄する。この命だけ、夜の端で苛烈に燃えていた。

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