第14話
「すみませんでした。信じてください、責めたいわけじゃないんです」
なるたけ平板な声で働きかけた。
「継父は、一年近く帰っていません。母は単身赴任だと言ってますが、嘘だと思う。市内に部屋でも借りてるんじゃないかと。母ももう、生活資金さえ提供されるならと、受け入れているみたいです。樹生さえきちんと育てていれば、継父は家を切れないと踏んでいます。実際はどうなのか、保証はないけど――だけどそれは、磨紀乃さんのことと関係ないです。磨紀乃さんと逢おうと逢うまいと、いずれこうなっていたと思います。――違う、こんな話をしたかったんじゃない。五嶋さんのことです。五嶋さんと、やり直すことは有り得ないですか」
反応を確認したかったが、喋る度に白んで膨らむ息が邪魔した。乾燥して端の切れた唇を閉じ、呼気を断じ待った。
「……どういうこと。隆行さんが、何か言ったの」
「いえ、五嶋さんは、何も。ただ……」
僕は、ここにきて初めて言い淀んだ。最適な説明を、予め用意しなかったのを自覚した。家の内情など、どうでも良かったのだ。
意味もなしに舌で頬肉の内壁を押し、両の指を臍の前で隙間無く組む。裸で飛び出したことに気付いた痴れ者のように、心許なかった。肩を圧するジャケットの重みが、奇妙に他人行儀だった。唇を舐め、月を探したが、やはり壁の影からは見えず、ボイラー音が警笛のように唸るばかりだった。
「……ただ、」
唇をこじ開け口火を切った。恵麻が五嶋さんから場を借りて絵を描いていること。恵麻が、五嶋さんを崇めるような態度であること。崇拝が恋愛感情に発展してもおかしくないという私見。僕と恵麻がかつて橋巡りをしていて、五嶋さんのもとを訪れてから機会が喪失したことは伏せた。
殆ど、独白だった。先刻まで罪を曝く検察官の心持ちだった僕は今や、拘束具で自由を奪われ断罪人の前に引き摺り出された罪人に同調するまでになっていた。喉は、内に溜まった汚泥を汲み出すポンプだった。ところどころ、詰まった。磨紀乃さんは、苦々しげに目を眇めていた。調子の悪い排水ポンプの作動を眺める現場監督のように。
「それだけ?」
「――はい」
「そのことと私と、どう関わりがあるの」
「はい、それは、」
僕は口の端を適切な角度で上げて見せた。次に、聞き取りやすい明朗な発声のために唇を丸めた。
「五嶋さんの、仕事の支障になるんじゃないかと。……それに。それに、僕は、五嶋さんのことを理解して支えられるのは、磨紀乃さんだけだと思うんです。五嶋さん、未だに禁煙を守っています。磨紀乃さんが勧めたんですよね、口寂しそうなときでも、耐えてるんですよ、誰も咎めないのに。それから、偏食なのに、磨紀乃さんの料理は残さない」
真っ当な訴え、もっともな言いつけ。
「それで?」
磨紀乃さんはやはり目を眇め訊いた。
「だから……、僕は、五嶋さんは今も、磨紀乃さんを必要としていると、」
「どうして、あなたに言われなきゃいけないの」
「五嶋さんは、生活の細かいことに無頓着だから、磨紀乃さんが一緒に、」
「つまんないねえ、あははは」
磨紀乃さんは声高らかに笑った。あはは、あははと、文字通り腹を抱えて笑った。僕は動転した。同時に、ホテルの従業員が声を聞きつけて来ないかと、懸念が過ぎった。
「つまんない、久我くんは。可哀想」
物理的に腹が捩れたとでもいうのか、腹部を押さえ前屈みになって、ははははと、声を絞り出し続けた。笑い袋が人間になったようだ。何処かを押せば止まるだろうかと考えながら、近づくことが出来なかった。引き攣れるほどの笑顔というのは、上半分だけ見れば苦難の表情に見える。ようやく笑い終え、前傾姿勢のまま僕を見上げた。
「それが訴えたくて来たの? わざわざ、ホテルの前で待ち伏せたの? 違うわよね、は、ほんと気持ち悪い。はは。そんなに心配しなくても大丈夫だから、恵麻ちゃんは」
磨紀乃さんは体勢を立て直した。僕のより短く細い背骨が、撥ね付けるように伸びた。
「隆行さんには性愛がない」
磨紀乃さんの瞳は僕に向けられていたが、形ばかりだった。眼窩が、ただ暗い穴だ。磨紀乃さんは言った。
誰かに欲情したことも、執着心を抱いたこともないんだって。人生で一度も。高校三年のとき、告白したらそう言われたわ。隆行さんはすでに漫画家として活動していて、物珍しくて、何度も仕事場を見学させてもらっていた。ペンを走らせる隆行さんの手を一日中眺めても飽きなかった。時々、おもしろい悪戯を考えついた子供みたいな目をするのも好きだった。体よく断られたのかと思って食い下がったけど、そのうち本当なんだと解ってきた。解ったからといって気持ちは消せなかったから、しつこく隆行さんの一番近くを保ち続けて、求婚した。毎日一緒に暮らせたら、他は望まないからって。根負けして承諾してくれたようなものよ。暮らすうちに、変わることもあるかもしれないなんて期待していた。傲慢よね。眠る間際の期待が、少しずつ隆行さんを追い詰めていたのに止められなかった。目を凝らす必要なんか無かった、日に日にヒビは深くなって。隆行さんは、苦しそうだった。並んで暮らすことはできる、でも接触はできないって、済まなさそうに言った。苦しめたくて結婚したんじゃないから、別離も私から切り出した。隆行さんにとって、人間は横並びなの。特定の一人が抜きん出ることは無いの。誰かを想って深い悲しみに溺れることも、強い喜びに溢れることも皆無。他者と他者とが心を擦り合わせ織りなす人間模様を、遙か遠い場所で語られるお伽話として、仄かな興味とともに俯瞰しているの。隆行さんの描く人間は、肉の体そのものなの。大地を跳ぶ野生動物のしなやかさに見惚れて、シャッターを切るのと同じ。女というものは、男と体の造りが異なるヒトであって、否応なしに焦がれ、惹かれる対象ではないの。でも私も似たようなものかもね、いくら招き入れたって得られたものなんか無いもの。昂ぶりなんか、歓びなんか、それらしいものが訪れかけては瞬く間に消えるだけで残らない、なにも。肌を擦り合えば合うほど別の場所が削れていく。それでも止められないんだから病気かもね。隆行さんとはできなかったけど……したらしたで、もしかしたら違和感があったかもしれない。できないから余計に特別視していたのかな、自分でも解らないわ、どう思う? ああ、でもやっぱり違う、私と隆行さんは。隆行さんは感情が鈍磨してるんじゃない。そもそも欲していないの。欲さずに、満たされているの。隆行さんにだけ見て触れることのできる、調和の取れた世界があるの。隆行さんはそこにだけある空気を吸って生きているから、私とは違うの……
もう一度「違うの」と呟き、磨紀乃さんは背を向けた。ホテルの影から月明かりの下へ進み出て、一度立ち止まって月の声を乞うように天を仰ぎ、駐車場へ歩き出した。
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