砂川緑

第1話

「この橋は、どこにもないんです」

女の囁く声は控えめながら、僅かに苛立ちと倦怠を孕み、語尾が投げやりに突き放されていた。深い穴の上に掲げたハンカチを、はら、と手放す光景がよぎる。白い絹の正方形は旋回しながらみるみる縮小し、鳥か紙屑かも判別不能になり、底なしの黒へと失せる。

襲来した雨粒が窓で砕ける音、室内に薄く漂う亡霊のような湿気、蒸れて肌に纏わり付くシャツ、濡れたズボンの不愉快な重みに五感を蝕まれていた僕には、突如降って湧いたその声も、雨がもたらす厄。心地良い質の響きではなかったから。

「現存したことがないんです」

 女が真横に立っていることに、やっと気づいた。声の宛先が自分だということにも。

「ひとときも、です」

七、八センチの距離で、女が睨んでいた。

墨汁を被ったと見まがう髪に縁取られた頬が病的に白く、小作りな顔をした、知らない女が。歳は二十前後、しかし十代か、三十歳近いと言われても納得する、童顔ゆえの年齢不詳。フリル襟の黒シャツ、すとんとした黒い膝丈のスカート、実用性が疑わしい高さの、赤いパンプス。細い肢体に載った頭の小ささが不安にさせる。腰部へ垂れた直毛は、体型に反して重々しい。姿勢がいやによく、八分音符の擬人化かとも思う。

「架空の、橋なんですか。なんだか……不思議ですね、写実的なのに」

 動揺を抑え、前方の額縁の中身に注意を払うそぶりで嘯く。実際は、そこに何が描かれているかも把握していなかった。穏やかとは見受けられない相手を、穏便にやり過ごしたかった。

「そうでしょう」

 語気を強めた女の声。細い踵が床を叩く音で距離が詰まり、僅かに肩が触れあった。

「なのに無いんだから、許せない」

 女の目の奥で燻る熱に、悪手を打ったと悟る。

「そう、思いませんか」

 挑戦的にねめつけてくる。すぐにでも走って退室したい。けれど他の客と目が合って押し留まった。声量を落とさない女のせいで、ちらほらと視線が集まっていた。知り合い同士に見えているかもしれない。誰にともなく訂正したくなったが、女に素性を問う機を逸してしまってもした。

「僕には、よく分からないけど」

 敗北感とともに紡いだ言葉の先を探しあぐね、眼前の油彩画に思考を移す。

 橋は薄灰色の石造りで、アーチ型に反っていた。アーチは一つきり、下を流れる川幅は狭い。欄干には、等間隔に並んだ小さな柱の頂部を繋ぐ形で細い手摺りが取り付けられていた。柱の煉瓦石の所々が苔むしている。人物が描かれていないので測り難いが、全長五十メートルに満たなそうだ。両のたもとは、暴力的に繁る緑に、蓋をされていた。

 点描の集積で成るそれはモネを彷彿とさせた。技巧が劣るのは素人目にも明白だが、有機的で柔らかな色彩は好もしい。まどろむ午後の陽と思しき濃淡まばらな黄が、水面や煉瓦にふんだんに乗っている。対照に、橋を飲まんとする樹々の陰翳が狭隘ながら目を引き、対岸への畏怖を滲ませた。

「古い橋ですね、山奥の村にでもありそうな。そこの住人くらいしか使わないような」

答えとして成り立たないのは承知で、端的な感想だけ述べた。

 沈黙が落ちる。存外に長い。女の顔を窺い見た。

 厚い前髪の下、女は睫毛を伏せ、何事か思案する様子。人差し指の腹でトントン下唇を叩く。パンプスと揃いでエナメル質の爪と唇。

「そう、なのかもしれない」

 腑に落ちた、とでもいうそぶりで油彩画を注視する女。語尾の棘が抜けた。そのまま、横顔を観賞した。正面からの印象より鼻梁が高く、先端が三角に尖っていた。

 意識の外に追いやられている。にわかな遮断が不愉快だった。それで、話しかけた。絵の曰くを、率直に訊いた。数秒要したが、女の世界線上に再び僕は立った。

「私が描きました。これは百枚目」


「お待たせ、久我くん」

 背中を叩かれる。振り向くと、磨紀乃(まきの)さんが保冷バッグを掲げて立っていた。

「冷ましてから詰めるのに時間かかって。ごめんよ」

 片手で口元に衝立を作って囁き、バッグを差し出してくる。それなりに重量感があるバッグの中には、青蓋の透明タッパーが積まれている。隙間に、膨れた保冷剤。容器の中は手製の漬け物、煮物、ロースト肉や魚のソテーで占められているはずだ。

「いつも、ありがとうございます」

 夢から醒まされたようだ。意識の焦点を結べないまま、習慣的に頭を下げる。

「あれ、もしかして割り込んじゃった? ……恵麻ちゃん!」

 僕の肩越しに女を認めた磨紀乃さんが、小さく叫んだ。

「こんにちは」

 女が磨紀乃さんにお辞儀する。驚いたのは二人が知り合いだという事実に対してもだが、何より女の顔つきと声音が心安く変化したからだ。手品のごとく瞬時に。

僕等三人は、ギャラリーから退室した。

「私のも展示してもらえて、嬉しいです。今日は仕事休みなので、見にこさせてもらいました」

 女の言葉に、磨紀乃さんは頷く。

「あの絵、評判いいみたい。長いこと立ち止まって見てく人もいるし、店でも感想話してたお客さんいたわ。色合いがあったかいとか、懐かしいかんじ、とか」

 目を弧にした磨紀乃さんに、「本当ですか」と、はにかむ女。

二人を横に立ち去ろうとしたが、呼び止められた。

「恵麻ちゃんも帰るところみたいだし、久我くん、送ってあげればどう。途中までさ」

 磨紀乃さんは、余計な行いが多い。もっと他に、ギャラリー内の湿度を下げるだの、軒先に掛かった蜘蛛の巣を取り払うだの、やるべきことがあるはずだ。

 恵麻とかいう女は、僕等を友人か何かと早合点した磨紀乃さんに訂正を入れもせず、笑顔で応えた。そして表情筋を固定したまま僕を見て「すみません」と言った。

 玄関へ続く木造廊下で、女の靴音が耳障りに響く。重々しい両開きの扉を開けると、横殴りだった雨の勢いは幾分落ちていた。蜘蛛の巣が宙に、水晶の幾何学模様を出現させている。僕と女はそれぞれ、真鍮の傘立てから濡れそぼった傘を引き抜いた。

 度重なる建て増しにより幾つかの館に分かれるこの古い洋館は、かつて磨紀乃さんの祖父が先住のイギリス人実業家から買い取ったのだという。今は磨紀乃さんが館の一部をカフェ、また一部を地元民の作品などを展示するギャラリーとして運用している。僕は遣いで磨紀乃さんを待つときに、無料で開かれたギャラリーで時間をつぶすことが多い。壁や棚の展示品に軽く目を通すこともあれば、今日のように観賞のポーズだけでやり過ごすこともある。

この町で「洋館」といえば、ここで通じる。

息子や嫁に送迎されてカフェに通う気難しい、又は姦しい年寄り連中とも、天性らしき人当たりの良さで上手くやっている磨紀乃さんだが、建物の管理にはおそらく不向きだ。

 駐車場への移動中、気まずさを払拭しようと口を開いた。来たときに踏んだ水溜まりを注意深く避けながら。

「そんな靴で、どうやってここまで来たんですか」

「コミュニティバスで。バス亭からは歩いて」

 女は真紅の傘から白い頬を覗かせ、こともなげに答える。赤い仮面を着けているみたいだ。

「あんな道を、二十分も?」

「気を付ければ、案外平気」

 心もとなげに山麓に佇む錆びた看板のバス停から、洋館まではそこそこ急な坂だ。館への客はたいてい車で訪れるというのに、そんな折れそうな踵で? 僕は再び戸惑い口を噤む。傘を叩く雨粒だけが軽快に歌う。

「宮間恵麻といいます」

 迷う素振りも無く助手席に滑り込んだ女は、僕が運転席に座った途端、高らかに名乗った。

「久我、陸斗です」

 くがさん、と呟いたきり黙り、女は左方のガラスを伝う滴の軌道を眺めているつもりらしかった。

「バス停まででいいですか? こっちは岩見川を少し越えたとこまで行くけど、そっち方面なら、」

「白鷺橋の手前で、降ろしてください」

「はい」

湿気った車内に無音のときが過ぎ、おもむろに声がした。

「磨紀乃さんは、アトリエ三木の先輩なんです。楠本町にある、絵画教室。私は、二年前から通い始めて」

「そこ、知ってます。うちの母親も通ってたことがある。僕は、あの人の旦那さんに雇われてて」

「えっ。磨紀乃さん、結婚してるんですか?」

 声が半音上がった。

「間違えた、元旦那」

「元ですか。それにしても、知らなかった」

「意外に思うの、分かります」

「はい、磨紀乃さん、若く見えるというか……どこか、少年みたいなかんじがするから」

「喋りかたは普通におばさんだけど」

「失礼、ですよ」

 会話がまた止む。沈黙は心地よくも、苦痛でもなかった。交わした言葉、声質や抑揚、シートに背を預けすぎないやや畏まった座りかた、どれをとっても普通の女の範疇に思える。拍子抜けする。最初声を掛けられたときの異質さは何処へ。

 何も再生していないのに、声が流れる。女が、歌っている。か細い声で、聞いたことのない歌を。妙に明るい調べ。音のとり方が不安定。それですら、なぜか厭な感じはしなかった。少し独特なだけで、危険な人物ではないのかもしれない。そして、僕は初見で舐められている。

バス停を通過し交差点を三つ越えるまでに数回、「久我さん、」と気儘なタイミングで話し掛けてきた。僕が相槌を挟まないのに、一人で喋った。それで、十九歳で、 アクリル商品製造会社の事務員をしている、今日は有給休暇を消化する日で、朝食にはいつも冷蔵庫から適当に選んだ果物と牛乳をミキサーで混ぜたものを摂っているが、今朝は林檎どころかバナナ一本でさえ無かったので牛乳だけ飲んだ、というような、何の有用性もない情報を得た。ただ、若者の少ないこの町で、そういった話を聞くこと自体は貴重だった。

返事の代わりに僕も、二十一歳で、五嶋隆行という漫画家のアシスタント、というか雑用をしている、と言った。マイナー誌でしか連載しない五嶋さんをやはり知らないらしい女は「へえ、」と軽く頷いただけで、僕に訊いた。

「じゃあ絵を描くの、好きなんですか」

 少し考えて、答えた。

「そんなに」

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