第32話 公爵への一撃
その後、アリスは王都グルガンに戻り、こっそりと邸の一階にある自室に戻っていた。
桃色に彩られた部屋の床に、鮮やかな青色の輝きが現れる。
それは魔法陣の形をしていた。
少しして、人の形がぼんやりと浮かび上がり、やがて女の子座りをしたアリスが現れた。
彼女は部屋に戻ったことを確認すると、近くにあったぬいぐるみを抱きしめた。
ようやく緊張と恐怖と興奮から解放されたのだ。
実はアリスはキースと話すうちに知った、転移の魔法を研究して実践したのである。
(良かった。バレてない……私がここから出たこと……誰にも)
廊下に出れば何人もの護衛が歩き回り、絶対に出ていくことは叶わない。
しかし、彼女がこの度作り上げた秘密の抜け道に気づいた者はいなかった。
(これでキースに会いに行ける。ひーくんに会いに行ける時間も増える)
アリスは喜びのあまり、ぬいぐるみを抱きしめながら床に転がった。
(今日もキース……カッコ良かった。でも私、ちょっと大胆すぎたかな?)
甘い時間を思い出し、楽しい反面……嫌われたりしないかという不安も生まれる。
しかし、それでも彼女は今日という日に満足していた。こんなに感情を表に出している姿は、キースと弟以外は見ることができない。
彼女はいつになく幸せな気分で、密会の時に持っていたバッグを開いた。
実はキースと会う前、近くにあった本屋で一冊購入していたものがある。
(買う時すっごく緊張しちゃった)
カウンターに本を持っていく時のことを思い出し、胸の鼓動が高鳴る。
彼女が購入したのは、デートスポットマニュアルというタイトルの分厚いハードカバーであった。
(次は、ちょっとだけ遠くに……どういうところがいいかな?)
アリスはベッドに腰を下ろし、楽しそうにページをめくっては、次にキースと会う時のことを考えて笑顔になるのだった。
◇
「ええい。もう少し骨のある奴はおらぬか!」
男の怒声に、周囲の空気が歪む。彼は苛立っていた。
アリスの父であり、大陸でも屈指の大貴族であるフランソワは、屋敷の庭で木剣を振るっている。
精鋭揃いの騎士達が、実践さながらの練習試合で打ちのめされている。フランソワの剣は、公爵でありながら本場の騎士ですら上回るものであった。
「も、もう一本! お願いします」
「うむ、良い気迫だ。では始めるぞ」
彼は若い騎士の闘志を評価した。しかし結局のところ一方的に打ちのめされ、誰一人として体に触れることも叶わぬまま試合は終わった。
「今回の経験をよく考え、これからの鍛錬に活かすのだぞ。ではこれにて解散」
フランソワの声で、騎士達はほっと一息をついた。苛烈な稽古の上に練習試合とあっては、体力自慢の彼らでも辛いものがあった。
広大な敷地をもつローゼシアの領主であり、実戦でも多くの勝利を納めている。彼を尊敬する者は数知れない。
しかも、白きライオンを思わせるその顔は、戦いでは触れることすら誰も叶わなかったという。
(いつか、この顔に一撃でも見舞える男と出会えれば良いのだが)
フランソワは戦いが好きだ。そして、自分を熱くさせる存在を求めている。
だがそんな芸当ができる人物は、当分は現れそうになかった。
もしかしたら死ぬまで出会うことは叶わないかもしれない。
虚しい予感を胸に秘めた稽古は終わり、彼は貴族らしい日常に戻らねばならない。
木剣は付き人に手渡し、彼は足早に家へと歩いていく。
敷地内であり、特に護衛や執事がつきっきりと言うわけではなく、彼は一人で庭を進んでいた。
ふと、アリスが花を植えようとしている土の近くを通りかかる。【入らないでください】と書かれた立札があり、柔らかい土と落ち葉がいっぱいに集められているようだ。
「ふん。このようなことに精を出している場合か」
父は娘に悪態をつきたくなる。あのような軟弱で、どう生きていけるというのか。
しかも先日、あろうことか父である自分に刃向かったことを、彼は苦々しく思っている。
苛立ちを露わに、娘の立ち入り禁止を掲げていた領域を、わざと荒々しく踏み進もうとした。
だが、彼は土を踏んだ直後、まったく予想だにしない感覚に襲われた。
「む? あ、あああーーー!」
なんと盛り立てられている土と草に足がめり込み、そのまま落下していったのだ。
とは言っても、それほど深いわけではなく、体が全て埋まる程度の深さだった。
無様に尻を打ちつけた彼は、しかめ面で周囲を見まわした。まるで落とし穴だ。
それだけではない。この小さい床には、魔法陣らしき模様があるではないか。
上のほうでメイドや執事、護衛兵が自分の名を呼んでいた。急に消えたことに驚き、慌てて探しているのだろう。
しかしこの状況に戸惑ったフランソワは、周囲の声に気がつかなかった。
「これは一体……」
長く住み慣れた家に、このような魔法陣があった覚えはない。彼は魔法の心得もあった。
驚きと好奇心に駆られ、自らが座る床に魔力を注いでみる。
すると、あぐらをかいた大男の体が、青い光の中に吸い寄せられていった。
「これは! なんと高度な……」
感動している間に、転移は終わっていた。
フランソワの身体はいつの間にか、ある部屋に移動している。桃色だらけの室内だ。
ぬいぐるみや本棚、クローゼットにテーブルがあり、ベッドに腰を下ろしてハードカバーを手にする少女の姿があった。アリスだ。
微笑みを浮かべながら本を読んでいた彼女が、魔法陣の動きに気がついたのは間もなくのこと。
ぬっと現れた父と、娘の目が合う。
フランソワは何が起きているのか分からず、ただ呆然としていた。アリスは笑みが消え、無表情から徐々に怯えへと変わっていく。
「き、きゃあああああ!」
直後、悲鳴が響き渡った。そして彼女は反射的に、手にしていた本を振りかぶって投げつけたのである。
「ぶほぁ!?」
ハードカバーは少女の力とは想像できない速度と勢いで、見事にフランソワの顔面に命中した。
顔をぶっ飛ばされ、彼は天を仰ぎながら倒れ、そのままもう一度転移していった。鼻血が宙を舞っている。
「お、おとう……さま? ……お父様ー!」
少しして、ようやくアリスは部屋に侵入してきたのが父だと理解する。
この時、フランソワは混乱と激痛の中、訳も分からずこう思った。
「こ、このワシが……倒された……だとぅ……」
こうして、アリスの秘密の抜け道は見つかってしまったのである。
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