第25話 アリスの弟

 娘は明らかに間違った方向に進んでいる。


 大陸でも名を馳せるローゼシア家当主、フランソワはいつにも増して不機嫌であった。


 イグナシオ伯爵家との見合いは、二度目の練習程度に過ぎないと考えていたが、思いの外アリスが本気だったことに気づいたからである。


 彼は今出先であり、他の有力な公爵達と会合を開いているところであった。


 広間では盛大な食事会が開かれ、彼を幾人もの富豪が取り囲んでいる。いつもであれば気前良く振る舞うのだが、今日は虫の居処が悪い。


 誰から話しかけられても、淡白に無表情に応じることが精一杯だった。ふと気を抜くと、昨日のことが思い出されてくる。


 あろうことか娘が、伯爵家の五男に本気で惹かれ始めている。その事実に屈辱を感じてさえもいた。


 昼から飲み交わすグラスに入った赤い液体が、自らが歯噛みして生まれた血ではないかと錯覚してしまうほどに、怒りで沸騰寸前だったのだ。


 そのような頃合いに、彼と親しくするある公爵家当主が、今まさに気になっている話題を振りかけた。


「そういえば、あなたのご子女は今、大変な騒ぎの渦中にいるようですな。心中お察しいたしますぞ」

「たわいもない。娘の婚約など、大した問題ではない」


 笑い飛ばそうとしたが、どうしても顔が強張ってしまう。


(お前なぞに、我が心を推し量ることができるものか)


 内心では苛立っていたが、彼は表には出さなかった。公爵家の男は、彼がいかに苛立っているかを見抜けない。


「ほほう。やはりフランソワ様は器が違う。しかし一つ、気になりましてなぁ。お見合いの件は存じているのですが、その相手の中に一人……これはまた面白い家があるではないですか」

「面白い家だと?」

「ええ。イグナシオ伯爵家です。しかも当主ではなく、五男坊とお見合いをされたと」


 彼が発した家名に、周囲の取り巻き達がざわついた。まさか伯爵家の五男という、格下も格下と見合いをしたことに驚いたのである。


「家名が平凡であれ、実は優れた者がいることもある。貴公らもご存じであろう?」


 フランソワは建前で話を切り上げようとした。本当は誰よりも家柄、つまり爵位にこだわる男である。


「やはりフランソワ様は分かっておられる! いやはや、私も無論そう思っていたのですがね。しかし爵位は言わずもがな、あのイグナシオ伯爵家は……ねえ。曰くつきでしたから、ええ」


 彼はフランソワの眉が片方吊り上がったことに、すぐに気がついた。


「おや、ご存じないのですか? イグナシオ家の当主といえば、悪政で有名な男ですぞ。何しろほんの少し町民に不満を感じただけで、顔に鞭を振り下ろす男ですからな」


 この一言で、先ほどとは違うざわつきが起こる。なんて恐ろしい下郎、と貴族達はかの当主への軽蔑を露わにした。


 フランソワは目を丸くしていた。そのような事前情報は、誰からも聞いたことがない。そして残念ながら事実だ。


 ロドリゲス伯爵が、気に食わない領民に鞭を当てたことは何度もある。


 しかし、ここで知らないと明言してしまうことは、彼の誇りが許さないのだ。


「だからこそよ」

「……と、申されますと?」

「面白いであろう? そのような者と一度会ってやるのもな。もしふざけた真似をするなら、その場で首を落としてのけたものを」

「おお……なるほど」


 男は恐怖を覚え、すぐに話題を切り替えた。フランソワの相貌に怒りが滲み出ている。これ以上刺激するならば、イグナシオ家より先に自身が滅ぼされかねない気がした。


(おのれ、イグナシオめ。絶対に婚約を認めるわけにはいかぬ。まあ、娘もじきに目を覚ますであろうが)


 フランソワには、娘の気持ちが分からない。彼女に芽生えている感情が、いかに揺れ難いかを知らないのだ。


 キースとアリスが婚約するにあたり、彼は最大の障害へと変わってしまった。


 ◇


 王都グルガンの南東には、険しく広い森がある。


 森を抜けるとしばらく草原が続き、一つだけ家が建っていた。


 さして大きくはないその家に、三つの馬車が向かっている。約六十人で編成された護衛兵が周囲を囲んでいる。彼らは皆、大陸でも名うての猛者ばかり。


 先頭の馬車が到着し、漆黒の扉が開かれると、中から少女が飛び出した。アリスである。


 彼女は今にも泣きそうな顔で、家の扉までやってきてノックをする。周囲の護衛兵が慌てて取り囲む。


「お嬢様、お下がりください」

「何があるか分かりませぬ」

「……ごめんなさい。でも、大丈夫です」


 はやる気持ちから、普段とは違う落ち着きのない動きになっている。扉が開かれると、中から剣を腰に差した二人の男が現れた。


「おや。おはようございます、アリス様。よくおいでになられますね」

「ドライ……」

「あんまり良くないんじゃねーすかね。お嬢様がこんな辺鄙な場所に来るってのは」


 挨拶を返そうとした彼女に、口の悪い男が割って入った。


「口を慎め。アリス様を前にして、その言い方はやめろ」

「へいへい」

「毎度の無礼をお許しください。あなたの弟君はいつもどおりです。最も、喜ばしい知らせもありますが」

「お知らせって、何?」

「お会いすれば分かります」


 ドライと呼ばれた男は、礼儀正しい口調と笑顔で彼女を招き入れた。もう一人いる口の悪い剣士はズィーベンという。


 居ても立ってもいられないとばかりに、アリスはすぐに部屋の奥——少年がいる扉へと向かう。


「はい」


 ノックした時、意外にもはっきりとした声が返ってきた。彼女が扉を開いた先にいたのは、少しだけ顔色が良くなった弟ヒルデである。


「ひーくん!」


 駆け寄ってきた姉を見て、弟もまた笑顔になる。


「お姉ちゃん! 来てくれたんだ!」

「最近来れなくてごめんね。なんだか顔色、良くなった?」

「うん。僕、ちょっとずつ元気になってきたみたい」

「本当? 良かった!」


 思わぬ朗報に感極まった彼女は、気がつけばヒルデを抱きしめていた。会うたびにやつれていたその姿が、快方に向かっている。それが堪らなく嬉しい。


 ヒルデはローゼシア家の末息子である。しかし、ある時期に原因不明の病にかかり、寝たきりの日々を過ごすことになってしまった。


 父であり当主のフランソワは、かねてから軟弱な末息子を良しとは思っていなかった。さらに今回の病気の件があり、世間体から彼を煩わしく感じるようになる。


 そしてある時、もはや家から断絶してしまおうと考え、この人里離れた家に最低限の護衛や世話係と共に送ったのだ。


 いずれこの少年は息絶える。要するにフランソワは、ヒルデを見捨てた上に、ローゼシアの歴史にも名前を載せないつもりである。


 アリスはその行いに賛同することができない。彼女は弟を愛していたし、彼が見捨てられ死ぬ運命を、どうしても受け入れることができない。


 だから機会を見つけては、こうして会いに来ている。定期的に物資を運ぶ時期があり、その時に責任者や護衛兵に無理をお願いして、同行するようにしていた。


 アリスは弟が明らかに元気になってきた姿に、嬉しさのあまり涙が溢れている。


「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」

「……ん。これは、ね。嬉しくって。あ、そうだ。とっても素敵なお人形があるの。これ、もし良かったら」


 彼女は袋の中から、魔法使いを思わせる人形を取り出して、彼の前に見せてあげた。


「わああ! かっこいい。それ、僕にくれるの?」

「うん。私も貰ったのだけれど、ひーくんが喜ぶかもって、思ったの」

「嬉しい、ありがとう! 実はね、僕もこの前お人形を貰ったんだ。お兄ちゃんから」

「……お兄ちゃん?」


 誰のことだろう。この家でお兄ちゃんといえば、ドライかズィーベンか。しかし、ヒルデは首を横に振る。


 弟は楽しげに教えてくれた。最近たまにやってくる、気さくで爽やかな少年について。


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