猫と記憶
@ant0105
第1話
レコードの針が古いジャズ・スタンダードをなぞるように、僕の一日もまた、いつも通りのルーティンを刻み始めた。窓の外はまだ薄暗く、東京の朝は遅い。僕は使い古されたコーヒーミルで豆を挽き、その香りを肺の奥深くまで吸い込む。それはまるで、失われた記憶を呼び覚ます儀式のようだ。やれやれ、またこの季節がやってきたのか。
僕が働くレコード店「シックス・ペニー・レコード」は、渋谷の喧騒から少し外れた静かな裏通りにある。この店で働き始めて、もう7年になるだろうか。埃をかぶったジャケットに囲まれていると、時間の流れが緩やかに感じられる。まるで、レコードの溝に閉じ込められた過去の音のように、僕自身もまた、この場所で静かに年を重ねているような気がする。
店の奥には、オーナーが趣味で集めた古いジャズのレコードが所狭しと並んでいる。デューク・エリントン、セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス。彼らの音楽は、僕の心の空白を埋めるように、優しく、そして時に激しく響く。でも、どんなに素晴らしい音楽でも、埋められない空白があることを、僕は知っている。
10年前、僕は彼女を失った。突然の事故だった。まるで、レコードの針が突然飛んで、音楽が途切れてしまうように、彼女は僕の前から姿を消した。それ以来、僕は心のどこかに穴が開いたまま、この街を彷徨っている。
今日もいつものように、開店準備をしながらコーヒーを飲んでいると、店のドアベルが静かに鳴った。ドアの方を見ると、一人の女性が立っていた。彼女は、まるで古い映画から抜け出してきたような、独特の雰囲気を持っていた。長い黒髪に、真っ白な肌。そして、深い悲しみを湛えた、吸い込まれそうなほど大きな瞳。
「いらっしゃいませ」
僕は声をかけた。彼女は、ゆっくりと店内を見回し、そして僕の方を向いて、小さく微笑んだ。その微笑みは、まるで冬の朝の冷たい空気の中に、一瞬だけ差した陽の光のように、儚く、そして美しかった。
「何かお探しですか?」
僕は尋ねた。彼女は、少し考えるように目を伏せ、そして静かに言った。
「古いジャズのレコードを探しているんです。できれば、少し変わったやつを」
彼女の声は、まるで古いレコードから流れてくる音楽のように、少し掠れていて、どこか懐かしさを感じさせた。僕は、彼女が探しているレコードが、単なる音楽以上の意味を持っていることを、直感的に感じ取った。
「変わったレコード、ですか」
僕は、店の奥にあるジャズのコーナーに彼女を案内した。
「例えば、どんな感じの?」
「そうですね…」
彼女は、棚に並んだレコードを一つ一つ眺めながら、言葉を探すように言った。
「言葉にするのは難しいんですけど…どこか遠くへ連れて行ってくれるような、そんな音楽を探しているんです」
「遠くへ…」
僕は、彼女の言葉を反芻した。遠くへ。それは、僕自身がずっと求めていたものかもしれない。失われた過去、取り戻せない時間。そして、もう二度と会えない彼女。僕は、彼女の瞳の奥に、自分と同じような喪失の影を見たような気がした。
彼女が手に取ったのは、セロニアス・モンクの『アンダーグラウンド』だった。ジャケットには、暗い地下鉄のホームで一人ピアノを弾くモンクの姿が描かれている。
「これ、いただきます」
彼女は、そのレコードを僕に差し出した。その瞬間、彼女の指先が僕の手に触れた。その感触は、まるで古いレコードのノイズのように、微かだが、確かに僕の心に何かを残した。
「ありがとうございます」
僕は、レコードを袋に入れながら、彼女に尋ねた。
「お客様は、よくジャズを聴かれるんですか?」
彼女は、少し考えてから、こう答えた。
「ええ、好きです。特に、猫と一緒にいるときに」
猫。その言葉を聞いた瞬間、僕の心の中に、小さなざわめきが起こった。僕の失った彼女も、猫が好きだった。そして、彼女と出会ったのも、猫がきっかけだったのだ。やれやれ、これは単なる偶然なのだろうか。それとも、何かの導きなのだろうか。
彼女は、店を出て行く前に、もう一度僕の方を向いて、こう言った。
「また、来ますね」
その言葉は、まるで古いジャズのレコードのように、僕の心の中で、いつまでもリフレインし続けた。
第2話:猫と記憶と雨の匂い
彼女が店を去った後も、僕はしばらくの間、ぼんやりとドアを見つめていた。彼女の残した余韻が、古いレコードのように、静かに僕の心の中で回り続けていた。やれやれ、これはどういうことなのだろう。僕は、彼女のことが気になって仕方がない自分に気づき、小さくため息をついた。
その日から、僕は彼女がまた店に来るのを、密かに待つようになった。彼女がどんなレコードを選ぶのか、どんな音楽を好むのか、もっと知りたいと思った。彼女の瞳の奥に潜む悲しみは、一体どこから来るのだろう。そんなことを考えていると、仕事にも集中できない。まるで、針飛びしたレコードのように、僕の思考は何度も同じ場所をぐるぐると回るばかりだった。
一週間ほど経ったある日、雨が降っていた。東京の雨は、まるで世界の終わりを告げるように、重く、静かに降り続く。僕は、窓の外を眺めながら、彼女のことを考えていた。彼女は、こんな雨の日には、どんな音楽を聴くのだろう。
その時、ドアベルが鳴った。僕は、反射的にドアの方を見た。そこに立っていたのは、あの女性だった。
「いらっしゃいませ」
僕は、いつもより少し明るい声で言った。彼女は、小さく微笑んで、僕の方へ歩いてきた。
「こんにちは」
彼女の声は、雨音に混じって、かすかに聞こえた。
「また、来てくださったんですね」
「ええ。この間買ったレコード、とても良かったので」
彼女は、そう言って、手に持っていたトートバッグから、一枚のレコードを取り出した。それは、ビル・エヴァンスの『ポートレイト・イン・ジャズ』だった。
「このアルバム、お好きなんですか?」
僕は尋ねた。
「ええ、特に『枯葉』が好きです。どこか懐かしい感じがして」
彼女は、そう言って、少し遠くを見るような目をした。その瞳には、やはり深い悲しみが宿っているように見えた。
「何か、思い出されることでもあるんですか?」
僕は、思い切って尋ねてみた。彼女は、しばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「昔、飼っていた猫のことを思い出すんです。その猫も、この曲が好きだったみたいで、このレコードをかけると、いつも私の膝の上で、気持ちよさそうに眠っていました」
彼女の声は、少し震えていた。
「その猫は、もう…」
僕は、言葉を続けることができなかった。
「ええ、もういません。ずっと前のことですけど」
彼女は、そう言って、悲しそうに微笑んだ。僕は、その笑顔を見て、胸が締め付けられるような思いがした。
その日、彼女は、チェット・ベイカーのレコードを数枚買って帰った。彼女が店を出た後、僕は、ビル・エヴァンスの『枯葉』をかけた。ピアノの旋律が、雨の音と混じり合い、店内に静かに響く。僕は、目を閉じて、その音に耳を傾けた。
彼女の言った通り、その曲には、どこか懐かしい感じがした。それは、まるで、失われた過去の記憶を、優しく呼び覚ますような、そんな音楽だった。
その夜、僕は久しぶりに、彼女の夢を見た。夢の中で、彼女は僕のアパートの部屋にいて、一緒にレコードを聴いていた。彼女は、僕の飼っている猫、サバを膝の上に乗せて、優しく撫でていた。サバは、気持ちよさそうに喉を鳴らしていた。
目が覚めた時、僕は、自分の頬が涙で濡れていることに気づいた。やれやれ、僕はまだ、彼女のことを諦めきれていないのだ。僕は、ベッドから起き上がり、窓の外を見た。雨はまだ降り続いていた。
第3話:失われた言葉と、かすかな光
それから何度か、彼女は店にやってきた。彼女はいつも、ジャズのレコードを数枚買って、そして少しだけ、自分の話をしてくれた。彼女の名前は、ユキと言った。彼女は、古いアパートで一人暮らしをしていること、フリーランスで翻訳の仕事をしていること、そして、昔は小説家を目指していたことを話してくれた。
彼女の話を聞くたびに、僕は彼女のことを、もっと知りたいと思うようになった。彼女の悲しみの根源は、一体何なのだろう。彼女は、なぜ小説家になることを諦めてしまったのだろう。
ある日、僕は思い切って、彼女を食事に誘ってみた。
「ユキさん、もしよろしければ、今度一緒に食事でもどうですか?」
僕は、少し緊張しながら言った。ユキは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの静かな微笑みを浮かべて、こう言った。
「いいですね。どこかおすすめのお店はありますか?」
僕は、渋谷の裏通りにある、小さなイタリアンレストランを提案した。そこは、僕がよく行く店で、料理も美味しく、雰囲気も落ち着いている。
「そこ、行ったことあります。美味しいですよね」
ユキは、そう言って、少し嬉しそうな表情を見せた。
食事の当日、僕たちは、レストランで、ワインを飲みながら、色々な話をした。ユキは、自分の過去について、少しずつ語ってくれた。彼女は、かつて愛した人を、事故で亡くしていた。それは、僕が彼女を失ったのと同じような、突然の別れだった。
「彼も、音楽が好きでした。特に、ジャズが好きで、よく一緒にレコードを聴いていました」
ユキは、遠くを見るような目で言った。
「彼が亡くなってから、私は、小説を書くことをやめました。言葉が、何も意味を持たなくなってしまったように感じたんです」
彼女の声は、静かだったが、その奥には深い悲しみと、そして諦めのようなものが感じられた。
「でも、最近、また少しずつ、書き始めてみようかなって思ってるんです」
ユキは、そう言って、小さく微笑んだ。その笑顔は、まるで長い冬の後に、ようやく訪れた春の陽の光のように、暖かく、そして希望に満ちているように見えた。
「それは、素晴らしいですね」
僕は、心からそう思った。
「あなたの書く小説、ぜひ読んでみたいです」
「ありがとう。いつか、あなたにも読んでもらえたら嬉しいです」
ユキは、そう言って、僕の目を見つめた。その瞳は、まるで深い湖のように、静かで、そして澄んでいた。僕は、その瞳に、吸い込まれそうになった。
その夜、僕たちは、長い時間、一緒に過ごした。まるで、長い間離れ離れになっていた友人が、再会を果たしたかのように、僕たちは、いつまでも話し続けた。
別れ際、ユキは、僕にこう言った。
「今日は、ありがとう。とても楽しかったです。また、会いましょう」
「こちらこそ、ありがとうございました。また、近いうちに」
僕は、そう言って、ユキと別れた。
その夜、僕は、久しぶりに、温かい気持ちで眠りにつくことができた。ユキとの出会いは、僕の心の中に、小さな光を灯してくれたようだった。
第4話:真夜中のジャズと、二匹の猫
ユキと食事をしてから数日後、彼女から電話があった。
「もしもし、私です。ユキです」
彼女の声は、電話越しでも、いつもと変わらず静かで、そして優しかった。
「今、少しお時間ありますか?」
「ええ、大丈夫ですけど」
僕は、少し驚きながら答えた。
「実は、相談したいことがあるんです」
彼女は、そう言って、少し言いづらそうに続けた。
「私の家の猫が、昨日の夜から、行方不明になってしまって…」
「猫が?」
僕は、思わず聞き返した。
「ええ、サクラっていうんですけど…もしかしたら、あなたのアパートの近くにいるかもしれないと思って…」
ユキは、僕がアパートで猫を飼っていることを知っていた。以前、店で話したことがあったのだ。
「わかりました。一緒に探しましょう」
僕は、すぐにそう答えた。
その夜、僕たちは、僕のアパートの周辺で、ユキの猫を探した。僕の猫、サバも一緒に連れて行った。サバは、ユキの猫の匂いを覚えているかもしれないと思ったのだ。
「サクラ!サクラ!」
ユキは、何度も猫の名前を呼びながら、暗い路地を歩き回った。僕は、懐中電灯で、建物の隙間や、植え込みの下などを照らして、猫を探した。
しかし、なかなか見つからない。
「ごめんなさい、こんな夜遅くに…」
ユキは、申し訳なさそうな顔で言った。
「いいえ、気にしないでください。きっと見つかりますよ」
僕は、ユキを励ますように言った。
しばらく探していると、サバが、突然、何かに反応して鳴き始めた。
「サバ、どうしたんだ?」
僕は、サバの視線の先を、懐中電灯で照らした。そこには、古いアパートの裏庭に通じる、狭い路地があった。
「もしかしたら、あそこにいるかもしれません」
僕は、ユキにそう言って、路地の奥へと進んでいった。
路地の奥には、小さな空き地があった。そこに、一匹の猫がうずくまっていた。
「サクラ!」
ユキは、猫を見つけると、一目散に駆け寄った。
「サクラ、よかった…」
ユキは、猫を抱きしめながら、涙を流していた。その姿を見て、僕も、胸が熱くなった。
「見つかって、本当によかったですね」
僕は、ユキに言った。
「ええ、本当に…ありがとうございます」
ユキは、涙を拭いながら、僕にお礼を言った。
「あなたがいなかったら、きっと見つけられませんでした」
「そんなことないですよ。サバが頑張ってくれたおかげです」
僕は、サバの頭を撫でながら言った。
その夜、僕たちは、ユキの部屋で、コーヒーを飲みながら、遅くまで話し込んだ。サクラは、ユキの膝の上で、気持ちよさそうに眠っていた。
「サクラは、私にとって、家族なんです」
ユキは、サクラを撫でながら、静かに言った。
「彼を亡くした後、ずっと一人で生きてきました。でも、サクラがいてくれたから、何とかやってこられたんです」
「そうだったんですね…」
僕は、ユキの言葉に、深く共感した。僕にとっての彼女も、サクラと同じような存在だった。
「あなたも、猫を飼っているんですよね?」
ユキは、僕に尋ねた。
「ええ、サバっていうんですけど」
「サバちゃん…今度、会わせてくれませんか?」
「もちろんです」
僕は、笑顔で答えた。
その夜、僕は、ユキと出会ってから初めて、彼女の心に、少しだけ近づけたような気がした。
第5話:そして、新しい朝が始まる
それから数日後、僕はサバを連れて、ユキの部屋を訪ねた。ユキの部屋は、僕のアパートと同じように、古くて、狭かったが、彼女の好きなもので溢れていた。壁には、古いジャズのレコードジャケットが飾られ、本棚には、たくさんの本が並んでいた。
「いらっしゃい。サバちゃん、初めまして」
ユキは、サバを抱き上げて、優しく撫でた。サバは、最初は少し緊張していた様子だったが、すぐにユキに慣れて、喉を鳴らし始めた。
「サバちゃん、人懐っこいんですね」
ユキは、笑顔で言った。
「ええ、誰にでもすぐに懐くんですよ」
僕は、そう言って、サバを見つめた。
「サクラと、仲良くなってくれるといいんだけど」
ユキは、少し心配そうな顔で言った。
「きっと大丈夫ですよ」
僕は、ユキを安心させるように言った。
その日、僕たちは、ユキの部屋で、レコードを聴きながら、ゆっくりと時間を過ごした。サバとサクラは、最初は少し距離を置いていたが、次第に一緒に遊ぶようになった。
「なんだか、二人とも、楽しそうですね」
ユキは、猫たちを見ながら、嬉しそうに言った。
「ええ、まるで、昔からの友達みたいですね」
僕は、そう言って、ユキを見た。
「私たちも、そうかもしれませんね」
ユキは、僕の言葉に、小さく頷いた。
「そうですね…」
僕は、ユキの瞳を見つめながら、そう言った。その瞬間、僕たちは、言葉を交わさなくても、お互いの気持ちが通じ合っていることを感じた。
夕方になり、僕はユキの部屋を後にした。
「今日は、ありがとう。とても楽しかったです」
僕は、ユキに言った。
「こちらこそ、ありがとう。また、遊びに来てくださいね」
ユキは、笑顔で僕を見送ってくれた。
帰り道、僕は、清々しい気持ちでいっぱいだった。ユキと出会ってから、僕の心は、少しずつ癒されていった。彼女を失った痛みは、まだ完全には消えていない。でも、ユキとの出会いを通して、僕は、新しい一歩を踏み出す勇気をもらったような気がした。
その夜、僕は、久しぶりに、彼女の夢を見なかった。その代わりに、僕は、ユキとサバとサクラと一緒に、広い草原を歩いている夢を見た。空は青く、風は優しく、そして、遠くから、美しい音楽が聞こえてきた。
目が覚めた時、僕は、窓の外を見た。東京の空は、まだ薄暗かったが、東の空が、少しずつ明るくなってきていた。
「やれやれ、新しい朝が始まるのか」
僕は、小さく呟いて、ベッドから起き上がった。新しい一日が、そして、新しい人生が、始まろうとしていた。
猫と記憶 @ant0105
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