第17話
浅く不快な眠りから覚めた致は、暗い部屋を見て顔をしかめた。どうやらやかましい隣人はどこかへ出かけたまま、まだ帰ってきていないらしい。時計を見てみれば十八時。今日は祭で使用人たちも忙しいため、晩飯は致たち自身で台所へ取りに行かなければならない。三人分を一人で運ぶのは億劫だ、そう思った致は辻村の帰りを待とうと思っていた、のだが。
(いや、さすがに遅いか?)
とはいえ、もうそろそろ十九時になりそうだ。よほど面白いものでもあったのだろうか。何度かスマホを確認してみるものの、メッセージの類どころか着信もない。ふらふらと室内を何度か回ったのち、致は辻村に電話をかけてみる。
「あ? 切った?」
本人が切ったのか、それとも切られたのか。全く判断がつかない。その後何度かけてみても、辻村に繋がることはなかった。電源を切っているのだろうか。
「なんだよ、取り込み中か……?」
半分愚痴と化した呟きを放って、致は連絡を取ることを諦め、致は階段に足をかける。
「渡、渡」
そのまま声をかけながら階段を登っていくが、返事はない。
(寝てんのか?)
電気もつけずに、返事のない座敷牢を覗き込む。暗い中、漂ってきた生臭さが鼻をついた。ゾワリ、と予感が走る。電気をつけるということすら忘れて、致は格子に縋りつくようにして中の様子を改めようとする。座敷牢の内で倒れ伏している人物が一人。黒い水たまりに飲まれるようにして、その人はこと切れていた。瞬時に廻った思考は一つの結論を叩き出す。迷いなき爪先は階下を抜け、庭先へ飛び出した。
先ほどの一瞬の間に日はすっかり沈んでいた。カエルと虫の鳴き声に神経を逆撫でされながら、致は集落へと足を踏み出し──
背から腹を重い衝撃が抜けていった。
喉で声が詰まる、流れていた思考が一気に拡散されていく。訳を理解する前に、致は地面に倒れ伏した。刹那、己を今まさに暗闇から手を伸ばして襲わんとする梅染色を見、そして。
「あ」
もう一撃。
嫌な感覚と共に意識は途絶えた。
じわり、と温かな感触がどこかに触れたのが分かった。ゆっくりと乾いた瞼を開いてみれば、暗く、ぼやけた部屋の中にいることが分かった。意識の覚醒と同時に腹のあたりが酷く痒み出す。思わずそちらへ手をやって爪を立てようとして──その手を誰かに掴まれた。
「かぐるな」
唸るような声と皺だらけの冷えた手が力強く致の手を引き剥がす。あっけにとられた致は、されるがままに手を下すこととなった。眉間に深い深い皺が刻まれた老人は、手が腹から離れたのを確認すると襖を開けたままどこかへ行ってしまった。襖の外からは小さな雨音と仄かな光が差し込んでくる。
(あ、そうだ、俺)
ぼんやりと雨音を聞いていると、記憶がジワリと蘇ってくる。先ほど掻こうとした腹の方を慌てて確認してみれば、傷跡らしきものが残っているだけだった。目を丸くし、体を起こそうとして走った痛みに悶える。
いつの間に戻ってきていたのか、先ほどの老人が盆を少々強気に差し出してきた。彼は眼鏡をかけ直して、盆を受け取る。上には水の入ったガラスの曇ったコップと不器用にラップで包まれたおにぎりだった。一瞬顔をしかめそうになった致だったが、目の前で押し黙って座り込んでいる老人の圧に負けて、水を一口飲み下した。存外に滑らかな水の味に致は動きを止める。
「あの、ここは……」
「翠嶺から少し下ったところだ」
壁際に気配を感じ、そちらを見てみればあの時の花柄ワンピースの女性と目が合った。彼女は致と目が合うと、ふっと微笑んで正座していた足を崩す。
「あの、あの方は?」
「俺はナツコと呼んでいる。死に掛けのお前を連れてきたのもあの子だ」
「そ、それは……ありがとうございます」
致の礼の言葉に、ナツコは小首を傾げてみせた。あまり言葉が通じないのだろうか。困惑する致を見、老人は首を横に振った。
「口が利けないだけだ。言葉の理解も甘い時がある」
「そうなんですか……」
ふんわりと返事をしたところで、強い眠気が襲ってくる。辛うじて二人に一言眠ることを伝え、致は再び横になった。
次に目が覚めたのは昼頃だった。外はまた雨が降り出したらしく、昼間とは思えないほど薄暗い。部屋の柱時計を見ても時間の感覚を合わせることができず、致は顔をしかめた。
机の上にあった郵便物を見てみるに、どうやらここには鳴木という男が住んでいるらしい。他の住人と言えば、あの女性くらいだろうか。縁側から見える庭には、使い込まれた農具が置かれている。
(あの、鳴木……?)
ポスターのことが気にかかったが、なんとなく口に出しがたい。少々踏み入る必要のある話題だ。今の状態で話を切りだすのはよろしくないだろう。
枕元にはまだ盆が置かれていた。いつからなのか、部屋の隅で座り込んだままのナツコを手招きして、致はおにぎりを差し出した。
「なんというか、そういう気分じゃない。けどもったいないだろ」
そう言うと彼女は致の意図を理解したのか、おにぎりを受け取って食べ始めた。それを確認してから致は玄関へ向かうべくゆっくりと立ち上がった。未だ傷が痛むが、気にかかっていることが多すぎる。
「……!」
玄関に踏み込み、靴を履こうとしゃがんだ致の肩を細い指が掴んだ。ゆっくり振り返ればナツコが頬に米粒をつけて、ちょうど真後ろにしゃがみこんでいた。
「な、なんだよ……」
困惑する致を気にしていないのか、ナツコはただ首を横に振る。
「傷は治り切っていない。なにをするつもりだ」
いつの間にナツコが呼んできたのか、廊下の奥から鳴木が姿を現した。相変わらずしかめっ面をしている彼は、ぬっと手を伸ばしてくる。
「連れが気になるだけです。せめて連絡だけでもしようかと」
致はそれを片手で阻止しながら答えた。
「無駄だ。持ち物は期待しない方がいい。処分していた。公衆電話もない」
「え、いや。冗談でしょう?」
致の言葉になる気は口を真一文字に結んで黙りこくる。
「見てきたと……?」
「連れのことだが、昨夜は九十九家に帰っていない」
話は強引に辻村へ移った。
「それは……」
辻村のことだ。事態の急変を察知してどこかに身を隠している可能性もある。目を伏せた致に対し、鳴木は変わらず低い声で続けた。
「こちらで探しておくから、安静にしておけ」
「安静に……そうだ、そもそも変だ」
引っかかった言葉を反芻して顔を上げる。
「俺は確かに傷を受けたはずです。それも致命傷の。なのになせ今、こうして立っていられるくらいに──」
「留守中は好きにしてくれて構わない。ただし内蔵には絶対入るな。ナツコ」
名を呼ばれたナツコは返事の代わりに、こくりと一つ頷いた。
「この人をちゃんと休ませなさい。大丈夫、お前にしかできないから頼んでいる。あとおにぎりの盗み食いは駄目だ」
無実の罪に対し無言で抗議をするナツコを放って、鳴木は足早に玄関から出て行ってしまった。しばしの間、雨音だけが賑やかに話つづける。ひとしきり鳴木に対する文句(?)を言い終えたのだろう。ナツコは玄関に向かって小さく舌を出し、踵を返した。
「ナツコ、っていうのか……?」
致の問いに、彼女はこくこくと頷いた。とはいえそれ以上なにかを聞けるわけでもなく、言葉を必死に練る致を気にもとめずにナツコは側にしゃがみ込んだ。
「な、なんだよ」
ぐいぐい、と細い指は致の衣服を引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。力の弱い彼女に逆らう気も起きなかった致は、されるがままに内蔵の入り口まで連れてこられた。
「いや、ここは駄目って言われてただろ。早速連れてきてどーすんだ」
致の言葉を理解したのかしていないのか、曖昧な反応を示した後にナツコは内蔵の戸を開け放った。どうやら鍵はかかっていなかったらしい。湿気と埃のにおいが一気に廊下へ流れ込んできた。
「見ろって? 中を?」
確認の言葉に、ナツコは今まで一番大きく頷いて返した。致は素直に、恐る恐る中を覗き込んでみる。出入り口付近に罠のようなものは見当たらない。本棚にぎっちりと詰まったノートなどの冊子類が、うっそりと致を出迎える。内蔵というよりは書斎に近いと感じた。そのくらいに中には本がしまい込まれている。山積みの書物に占領された文机は、長らく主人の帰りを待っているらしい。文机の上にはほかに、埃を被った夫婦の写真が立てられていた。そちらに気を取られそうになるが、のちのことを考えると手を伸ばすことも憚られる。埃にまみれた蔵内を今一度見回して、ナツコに向き直る。
「ほら、見たぞ」
その言葉を聞いたナツコはむっと頬を膨らませ、致のすねを蹴り始めた。
「ちょっ、おま、やめろバカ。口が利けないからって暴力に走るな」
小さな攻撃から逃げるようにして致は内蔵に踏み入る。敷居をまたいだ途端、空気が一変した。重く、どこか緊張感を感じさせる張った空気だ。それが湿気、埃、カビのにおいと混ざり合って言い難い気持ち悪さを醸し出している。山積みになった紙束に、埃を被った本棚がじっとこちらを見ているような気がした。見えないなにかに背を押されるようにして、致はうち一冊を手に取る。本棚から引きずり出された古い書物は、一緒に朽ちかけたノートを何冊も連れて這い出てきた。
「うわ、これは……湿気、か?」
癒着してしまっている表紙に気を付けながら、致は内蔵から複数の読めそうな書物を持ち出す。複数の古文書について分析がされた個人の研究ノートらしい。原本らしき古文書も探し出せばいくらでも出てくるだろう。当然、時間はかなりかかりそうだが。
ぺらぺらと中身を改めていく。形の整った文字の数々から、書き手はある程度教養があり、マメな人間だったことが分かる。
「なぁ、ここは鳴木さんの家なのか」
致の問いに、ナツコはぶんぶんと頭を横に振った。
「もとは違う人の家ってことか?」
もしかして、と思いノートの後ろを覗き見る。書き手はやはりマメというべきか、なにかしらのこだわりがあったらしい。奥付代わりに執筆期間と『百々瀬樹』という書き手のサインが残されていた。この百々瀬樹は、部屋に残されていた日記から推定するに、百々瀬克樹・天和兄弟の曾祖伯父に当たる人物らしい。
「ふーん、なんでこれがここにあるんだか……元百々瀬家ってことか……?」
しかしここは、いわば村の外だ。そんな場所に追いやられるほどのことを、過去に百々瀬家はしでかしたのだろうか。ぶつぶつと得た情報を反芻していく。執筆期間は少し古く、最新のものでも今から三十年以上前のものばかりである。劣化が進み、茶色くなったノートの端がぼろぼろと崩れ落ちているものも少なくない。読み進めていく中で、致は気にかかる記事を見つける。
(鬼退治伝説に、ついて……?)
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