静かなる牙
朝靄がまだうっすらと街を包む早朝。
宿屋の一階は窓から差し込むやわらかな陽光に照らされ、木製のテーブルや椅子がほのかな温もりを帯びていた。
リリシアはその窓際の席に腰を下ろし、湯気の立つスープを静かに口へ運んだ。
一口飲んでは、ほっと息をつき、ゆるやかな朝の空気を味わう――そのとき。
――バンッ!
勢いよく宿屋の扉が開き、朝の静寂を破って金色の髪を揺らすエルフの少女が駆け込んできた。
目が合った瞬間、ファリシアはぱっと花が咲いたような笑みを浮かべ、元気いっぱいに声を上げた。
「おはようございます! リリシアさん!」
リリシアはわずかに瞬きをし、肩の力を抜くように小さく息を吐いた。
「……おはよう。朝っぱらからうるさいわね」
ファリシアが胸を張り、背筋をぴんと伸ばすと、きらきらした瞳で告げる。
「では! 勇者様を起こしてきます!!」
言うが早いか、犬のように勢いよく階段へ駆け出していった。
その小気味よい足音が階段を駆け上がるたび、リリシアはわずかに眉をひそめ、カップを置きながらぽつりと呟いた。
「……本当に犬みたいね」
二階・アルウェンの部屋前……
ファリシアは勢いそのままに、**ドンドン!**と扉を叩いた。
「勇者様ぁぁぁ!おはようございますっ!!」
扉が開き、アルウェンが目を擦りながら顔を出す。
流れる金髪は陽光を受けて淡く輝き、整った顔立ちには王女らしい気品が漂っている。
だがその白い頬には細い傷跡が一本走り、細い腕にも幾筋かの古傷が刻まれていた。
戦場で剣を振るってきた証が、彼女を儚さではなく強靭さで彩っていた。
しかしファリシアは、そんな過去をまるで意に介さず、無邪気に目を輝かせた。
「今日はいよいよ《シルヴァリア奉剣祭》の日ですよ! 私、エルダリオンに帰ってからずっと楽しみで眠れなかったんです!」
彼女は胸の前で拳を握りしめ、勢いよく言葉を続ける。
「勇者様と戦えるかもしれないと思うと……もうワクワクが止まりません!」
アルウェンは片手で後頭部をかき目をそらす。
「……お前なぁ、朝っぱらからテンション高すぎだろ……」
言葉とは裏腹に、アルウェンの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「まぁでも……そこまで楽しみにされちゃ、こっちも手を抜くわけにはいかないな!」
ファリシアはその言葉を聞いた途端、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます!! 私の実力、勇者様に見せつけちゃいますからね!」
その声は朝の鳥たちのさえずりよりも元気に弾んでいた。
勢い余って両手をぐっと握りしめ、胸の前で小さく跳ねる仕草は、戦場を知る者とは思えないほど無邪気だった。
アルウェンは思わず小さく吹き出し、肩を竦めた。
「……ほんと、見た目はクールなお姫様って感じなのに、中身は完全に犬系だな……」
ファリシアはその言葉を聞いて、きょとんと目を瞬かせ、次の瞬間には悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「わんっ!って言いましょうか?」
「いや言わなくていいから……」
アルウェンは苦笑しながらも、その場の空気が明るくなるのを感じていた。
一階・食堂……。
階段を下りると、リリシアが腕を組んで二人を見上げていた。
「ようやく起きたのね、勇者様?」
「いや、なんでリリシアもその呼び方なの……」
アルウェンが肩をすくめると、ファリシアが満面の笑みで胸を張る。
「さあ!はやく支度して行きますよ!今日のお祭りは私が案内させてもらいますので!」
リリシアは呆れたように目を細め、ひとつため息を吐いた。
「……ほんと、朝から騒がしいわね。少しは落ち着きなさいよ」
そこへ、ゆっくりと階段を下りてくる足音が響いた。
現れたのは寝癖のついた髪を片手で押さえながら、大きなあくびをしているアルテミシアだった。
「……おはよー。もうみんな揃ってるんだ。賑やかな朝だねぇ」
「……相変わらずマイペースね」
リリシアが言うと、アルテミシアは無機質な表情のままひらりと手を振った。
ファリシアがアルテミシアの姿に気づくと元気よく挨拶を送る。
「おはようございます! 今日はいい日になりそうです!」
アルテミシアは半分眠たげな目でファリシアを眺め、口元だけでわずかに笑った。
「……そっか。勇者様ー、今日はいろいろと頑張ってねー、私はちょっと調べたい事があるから別行動でよろしくー」
「いや、だからなんでみんなその呼び方なんだよ……!?」
リリシアはスプーンを置いてアルテミシアに視線を向ける。
「調べたいことって……祭りの日にまでやるの?」
アルテミシアは肩をすくめ、のんびりとした口調で答えた。
「まぁ、もともとそのためにここへ来たしねー。お祭りはお祭りで楽しめるけど……」
リリシアは小さく笑みを浮かべ、どこか納得したように頷いた。
「そういえば、そうだったわね」
アルウェンが椅子の背にもたれ、穏やかな声で口を挟む。
「調べものが何かは知らないけど……困ったことがあれば言ってくれよ!」
アルテミシアは無機質な表情をわずかに和らげ、軽く片手を振った。
「ありがとう。アルウェンたちもシルヴァリア奉剣祭、頑張ってねー」
支度を整えたアルウェンたちは、宿屋の前でアルテミシアと別れを告げた。
「じゃあ私はエルダリオンの書庫に行くから後で合流できたらするねー」
相変わらず眠たげな目をして手をひらひらと振るアルテミシアに、ファリシアは元気よく手を振り返す。
「はい!気をつけてくださいね!」
宿屋を出ると、街はすでに祭りの熱気に包まれていた。
通りの両脇には緑と金の旗がはためき、木彫りの女神の飾りが風に揺れる。
露店の屋台からは甘い蜂蜜パンの匂いや、焼いた森猪(ドルク・ファング)の串肉の香ばしい煙が漂っていた。
「す、凄いわね……」
リリシアは思わず足を止め、目を見張った。
普段は落ち着いた彼女の瞳も、きらりと輝きを帯びる。
「どうですか!リリシアさん驚いたでしょう!」
ファリシアが胸を張りながら解説する。
「この木の実のランタンは森の精霊に感謝を伝えるために、朝から祭りが終わるまでの間ずっと灯すんです!」
「このシトルイユの実のアイスはシルヴァリア祭があるこの時期でしか食べられない特製品なんですよ!」
「せっかくだし、後で食べてみるか!」
アルウェンは串焼きの香ばしい匂いに小さく笑みを浮かべる。
三人は人波に混ざり、祭りの通りを進んでいく。
あちらでは子どもたちが花びらを投げ、こちらでは楽師が森の笛を吹いていた。
通りを進んでいると、子どもたちの歓声が上がる。
そこには巨大な広場があり、人を乗せたゼルビス(巨大な蜂の魔物)がふわりと宙を舞っていた。
ファリシアが目を輝かせながら言う。
「勇者様! ご興味ありそうな目をしてますね!」
アルウェンは、ふわりと宙を舞うゼルビスを見上げ、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「……あれはちょっと面白そうだな」
ファリシアは待ってましたと言わんばかりに、さらに身を乗り出した。
「やっぱり勇者様もそう思いますよね!? さあ行きましょう!」
リリシアは呆れ半分、ため息半分で肩をすくめる。
「まったく子供みたいね……私は下で待ってるから行ってきなさいよ!」
アルウェンはニヤリと口元を歪め、リリシアに茶化すように言った。
「へー? 本当は怖いんだろ?」
「はあー!? そんなわけないじゃない!」
リリシアが腕を組み、ぷいと横を向く。
するとファリシアが追加攻撃で煽るように言った。
「リリシアさん、怖がらなくて大丈夫ですよ! 子どもでも乗れるくらい安全ですから! ……たぶん!」
リリシアの額に青筋が浮かぶ。
「たぶんって何よ!? そんな危なっかしいの絶対乗らないからね!」
アルウェンは思わず吹き出し、ファリシアがくすくすと楽しげに笑った。
「わかったわよ!!乗ればいいんでしょ!乗れば!」
三人は屋台の列に並び、順番が来ると、ゼルビスの背に取り付けられた木製の鞍へと腰を下ろした。
翼が軽やかに羽ばたき、ふわりと体が浮き上がる。
「おおっ……!」
アルウェンは思わず声を漏らした。
森の木々と祭りの通りを上から見下ろせば、緑と金の旗が風に踊り、花びらの舞う通りがまるで絵巻のように広がっていた。
「わあ……やっぱり何度乗ってもこの景色はです!」
ファリシアは風を受け金の髪をなびかせながら、目を輝かせて下を指差す。
「リリシアー!大丈夫かー?」ゼルビスに乗ったアルウェンが近付きながら言う。
リリシアは、必死に鞍を握りしめながら口を尖らせた。
「べ、別に怖くないわよ! ちょっと風が強いだけで……!」
アルウェンがくすりと笑う。
「へぇー? じゃあその真っ青な顔は何だ?」
「……。」
リリシアはアルウェンの問いに何も返さず、ぷいと顔をそらし、さらに強く鞍を握りしめる。
ファリシアが楽しそうに笑いながら言った。
「リリシアさん、大丈夫ですよ! ゼルビスは人を振り落としたりしませんから!」
「そ、そんなこと最初からわかってるわよ……!」
リリシアは強がって言い返すが、その指先は白くなるほどしっかりと握り込まれていた。
ゼルビスの背にまたがる、ファリシアが少し得意げに言う。
「勇者様、ゼルビスに乗る時は腰を低くして足でしっかり支えるんですよ。手綱を引きすぎると暴れちゃいますからね!」
アルウェンは軽く笑い、ゼルビスの背を叩きながら言った。
「なるほどな……よし、ファリシア!シルヴァリア奉剣祭の前にゼルビス競争やらないか?ルールはあそこに見える木に先にゴールした方が勝ちって事で!」
ファリシアが目を丸くし、すぐにニヤリと笑みを返す。
「ふふっ、勝負ですか? 望むところです!」
リリシアは後ろで呆れたようにため息をつく。
「……まったく」
「じゃあ、行くぞ!よーい!どん!」アルウェンの掛け声と共にファリシアが先に軽やかに加速し、アルウェンも負けじと体を前に倒してスピードを上げた。
「おおっ、こいつ意外と速いな!」
アルウェンの口元に少年のような笑みが浮かぶ。
ところが、加速しすぎたゼルビスが急に羽ばたきを強め、バランスを崩したアルウェンの体が浮き上がる。
「うおっ……!? ちょ、待て待て!」
そのまま振り落とされそうになった瞬間、先頭を走っていたファリシアが片手でアルウェンの腕を掴み、もう片方の手で自分のゼルビスの鞍を握り締めていた。
「勇者様っ! ちゃんと腰を下げてって言いましたよね!」
アルウェンは少し顔を赤らめながらも苦笑いを浮かべる。
「あははは……わ、悪い……調子に乗りすぎた……」
ファリシアはくすりと笑いながら、アルウェンを引き上げる。
「この勝負私の勝ちですね!」
「あ、あぁ……俺の負けだ…」
遠くから二人を見ていたリリシアは額に手を当て、呆れたようにため息をついた。
「はぁ……ほんと、子どもみたいなことして。ま、嫌いじゃないけど……」
ゼルビスから降りた後3人は屋台を周っていた。
広場の喧噪の中、通り沿いには色とりどりの屋台が並び、香ばしい匂いが漂っている。
焼き串の肉の匂いや甘いフルーツの香り、その中でもひときわ目を引いたのは、黄金色に輝くパンを並べる屋台だった。
(アルウェンは王に謁見する前に、宿屋近くの両替所でライドレアスの通貨リルをこの国サタルディアの通貨エルムに換金していた。
ライドレアスの通貨リルの方がやや価値が高いため、エルムへ替える際には少し得をした形になった。)
ファリシアの目がきらりと輝く。
「勇者様、リリシアさん! 見てください、あれですよ、ゼルビス蜂蜜パン!」
屋台の主はひげ面の陽気なエルフで、笑顔を浮かべながら焼き立てのパンをトングで取り出していた。
パンの表面はほんのりと金色の光沢を帯び、甘い香りが風に乗って漂ってくる。
アルウェンが興味深げに覗き込み、首をかしげた。
「このパン……普通の蜂蜜パンとなにか違うのか?」
屋台の主は誇らしげに笑みを浮かべて答える。
「へっへっへ、そりゃあ違うさ。こいつは《ゼルビス蜂蜜》で作った特製だ。
森の奥に棲むゼルビスが集める“精霊樹の花蜜”を発酵させて作る蜂蜜は、ほんのりと花の香りと優しい甘みがあってな。普通の蜂蜜よりも軽やかで、焼くと表面がこんがり香ばしくなるんだ」
リリシアが横から顔を寄せ、感心したように眉を上げる。
「なるほど……だからこんなにいい香りがするのね」
ファリシアが財布を握りしめ、屋台の前に一歩踏み出した。
「ゼルビスの蜂蜜パンこれ私の大好物なんてすよ! 外はカリッと、中はふわっとしてて……一口食べればもう頬がとろけてしまうんですよ!」
アルウェンは思わず吹き出し、屋台の主に手を伸ばした。
「じゃあ、三つ頼む。ゼルビスの蜂蜜パンを」
パンが渡されると、ふわりと甘い香りがさらに強く鼻をくすぐった。
一口かじると、外側のカリッとした香ばしさと、中のふわふわの生地が絶妙に混ざり合い、舌の上で蜂蜜の優しい甘みがとろけていく。
「……これはうまいな」
アルウェンが思わず感嘆の声を漏らすと、ファリシアは目を細めて嬉しそうに笑った。
「でしょう!? 毎年この味のために頑張ってるって人もいるくらいなんです!」
リリシアも控えめにひと口かじり、その表情がわずかに和らぐ。
「確かに……この蜂蜜、とろけるみたいに優しい甘さね!」
ファリシアはにこにこと頷きながら、焼きたてのパンをもう一口。
「この時期に採れるゼルビスの蜂蜜が年間を通して、1番甘くて濃厚なんですよ!」
三人は祭りの喧噪と甘い香りに包まれながら、しばし束の間の平穏を楽しんでいた。
まだアルウェンたちは知らなかった。
この日、森の奥でひそかに目覚めた影が、静かに牙を研いでいることを――。
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