RED PENSIL

音宮 まい

オープニング 

『もし、人間の頭脳が我々が理解できる程度に単純であったならば、我々は単純すぎてそれが理解できないであろう』


<0.0 あや

 薄汚れたタイルの壁からわかった。10年ほどは経過しただろう雑居ビル。

そこへ高橋綾たかはし あやは足を踏み入れた。

 エントランスはただの通路でしかなかった。

 ヒールの音がやや暗い空間全体に響く。

 夕暮れの会社帰り、綾はここでいいはずだと、地下へと通じるエレベータのボタンを押した。


 乗り込むと、早くこの状況をなんとかしたいという気持ちがこみあげてきた。


 クロテッドグリーム……

イギリス発祥で高カロリーな食べ物、いや脂の塊。

スコーンへバターのようにつけ、初めて口へ運ぶと雪のようにすーっと溶けていった。濃厚なうまみが脳細胞を刺激し、思わず目を閉じた。

くらくらした。


 その味わいを求めすぎたあげくが……ターンオーバーが衰えかけた自分のウエストを、綾はぎゅっとつまんだ。

 憎らしい。

 ここまで太ったことはなかった。

 憎らしい。

 社長め。

 

 ああ目測を誤った、いや社長の小田切の策にはまったというべきか。秘書として働く綾はいつも小田切の趣味に付き合わされてばかりいた。

 ヨガ、茶道、乗馬……そして……試食を強要されたお菓子作り……


 こんな余分な脂肪がついた身体でウエディングドレスなんて着られない。

しかも、全身総レースの特注品だった。


 サイズ変更できない。

それに、この体つきでは靫彦ゆきひこに申し訳なくて仕方がない。

綾は4つも靫彦より年上で三十路に入ってしまっていた。

 年を取った、いや「ばばあ」だと何より思われたくない。そう思うはずがない

いい男だとわかっていても。


 結婚式まで一か月月を切ってしまっている、とにかくこのウェストを絞らなければ。

 その瞬間、目の前の扉が開くと、一気に周囲が明るくなった。

 

 やはりここでよかったらしい。しかし、次の不安がおそう。

本当にここはエステサロンなのだろうか。

受付を待つためのソファすらない。

 室内にはリラクゼーションのための調度類が全くなかった。

完全予約制なのだから、客を待たせることはないからなのか。


 考え始める前に、すうーっとやってくるものがあった。

直立移動型ロボットだった。

 165㎝の綾の胸のあたりの高さで、女性の音声が流れた。


「お待ちしていました、高橋綾さま、ようこそエステクラウドへ」


 本当に無人のエステサロンなのだ、と綾は感心した。

 たとえデータ処理にヒトが介入していても、マシーン相手のほうが気楽だと感じる。

 自分のボディを他人に見せられる自信がない、自信が消えかけていれば、こんなところのほうがいいだろう。


 ここは、無人ですべての施術メニューを提供するプロトタイプのエステサロンだった。

 初めてだったが、依頼メニュー、悩みどころをサロンへ綾は伝えていた。

予約アプリでデータとして入力ずみだった。

 

 奥の部屋に案内されて入った。簡素な脱衣所だった。

「こちらでお着換えください。貴重品はこちらへ」

 セーフティボックスに財布とスマフォを入れ、四桁の暗証番号でロックした。

 綾はスーツも下着も脱ぎ、簡易な不織布のガウン一枚を身につけた。

ぽこっと出すぎてしまった腹をまたおさえる。

 一ミリでも減らさなければ。


 病室にあるようなカーテンをくぐりぬけた。

 室内は薄着になっても、寒さを感じない。

 空調は完璧だった。

今のところ、サービスに支障はないと採点していた…。


 だが…そこにはエステのための施術台があるはずだった。

 すべて匠の手さばきをラーニングした自律型マシーンがいるはずだった。

 目に映った光景がわからず、振り返る。

 扉を閉じる音が重く響く。

 駆け寄ったカーテンの奥からは硬くて冷たい感触しかない。


 もう一度振り返った。

そこにあるのは、棚だった。

2メートル強の天井まで非常食やペットボトルの水がいくつも並んでいた。何週間分もあった。


 身体に力が入らなくなり、瞬時に綾はくずれおれた。

 どうしてこうなったかまるでわからなかった。

わかったことはひとづだけ。

 そう、閉じ込められた。



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