天使病
辻田煙
第1話
いつか見たことがある気がする。
知らないはずの湖は、たしかな懐かしさを持って
鈍い太陽の光を受け、きらきらとする水面。わずかな波はゆらゆらとゆっくり揺れ、都会の喧騒とは無縁であることを証明している。ここにはせかせかした大人も、どこか生き急いでいる子供もいない。
車窓から見える湖のその様は、黄昏るにはピッタリと言える。
「……ねぇ、あとどれぐらいで着くの?」
後ろから運転手へ透明なアクリル板越しに尋ねる。
「もうすぐです」
男の事務的な口調。どこの誰なのかも分からない。医療関係なのだろう――雫が当て推量できるのはそれくらいまでだった。
普段なら学校で授業を受けているはずの時間。空調で暖まった教室で、空腹混じりに先生の退屈な講釈を聞き流しているはずだった。中高一貫校なため、校庭で体育をしている中学生が二年からは見えたりする。そんな日常だ。
荷物はない。着替える暇はあったが、逆に言えばそれだけしかなかった。彼女が教えられたのは、これから行く場所でしばらく過ごすということ。詳しいことは何も知らされていない。そして、理由も――
大きめの橋を渡ると森に入ったのか、湖が見えなくなる。雫としては同じものを繰り返されるよりもまだ水面の方がいいが、景色は変わってくれない。
時折り真っ黒な館が目に付く。
ぼうっと流れる景色を眺めていると、やがてゆっくりと止まった。
「到着しました。外へ出てください」
口調こそ丁寧だが、有無を言わせないものがある。
車を出ると男が「こちらです」と手をある方向へ向けた。
外は暖房の効いていた車内とは異なり、吐く息が白くなる寒さだ。雪こそ積もっていないものの、森に生命の気配はなく、風の音しか聞こえない。
館は開けた場所に建っていた。真っ白で両端が奥に向かってカーブしている。入口は正面にだけ見え、一階にも二階にも窓が点在している。屋根はドームのようになっていた。
前には円形上の広場があり、中央には噴水になるであろう、円盤が三つ連なっている置物が鎮座している。水は流れておらず、中はカラカラで寒々しい。
車は噴水を挟んで停まっていた。
「――あの館にお入り下さい。中にメイドがいますので、そちらから今後の説明を受けてください」
「……あなたは来ないの?」
「ええ、私はここまでです」
そのまま男は黙り込む。真っ黒なサングラスが些細な考えさえも読ませない。雫は寒さも相まって、不安ながらも館に向かう。
風の音だけが彼女の耳に入ってくる。メイドがいると言っていたが、本当にそんな人がいるのか、雫の不安は増すばかりだった。
水無き噴水を回り込み、わずかな階段を上って玄関に辿り着く。
「これも真っ白……」
雪が降ったら見失ってしまいそうだ。
なにもかもが真っ白な建物の中で、唯一そうではない窓を見つつ、呼び出し音を鳴らす。
映画の開始音のような古めかしいものが、静寂を破る。
身を縮め、足を動かして待っていると、扉の向こうから足音が聞こえ――ようやく開いた。
「ようこそ。藤宮雫さまですか?」
「はい、そうで……、す……」
現れたのは男の言った通りの姿の女性だった。細身の身体をクラシカルなメイド服に包み、前髪は長く、こちらが見えているのか分からない。ただ、ちらちらと真っ赤な双眸が雫を窺っていた。
「あのー……」
「はい、なんでしょう?」
雫が疑問に思ったのは、メイドの服のことや長すぎる前髪ではなかった。ましてや、かなり珍しい真っ赤な眼などではない。彼女にくっつき、雫を窺っている一人の少女。
ふわふわの茶髪に、パッチリとした猫のような瞳。好奇心と不安が入り混じっているような眼差しは、真っ直ぐに雫を捉えていた。
「その子は……?」
「――この子は、
メイドはにっこりと笑みを見せた。
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