血霧列車 -闇への片道切符-
凪凪詩
本編
「アキラさん、今日も残業ですか?」
明るい声が後ろから聞こえ、振り返ると後輩のまどかが笑顔で立っていた。彼女は入社2年目の新人だったが、その明るさと積極性で社内でも評判の存在だ。
アキラにとっては、年の離れた妹のような、放っておけない後輩でもある。
「ああ、まだ少し仕事が残ってるんだ」
「私も手伝います!」
断る理由もなく、二人で手分けして作業に取り掛かる。2時間ほどかかったが、ようやく仕事を片付けると、外では霧雨が降り始めていた。時計は午後10時を指している。
「もう遅いし、送っていこうか?」
「え!?ありがとうございます!」
まどかの瞳が輝く。駐車場の照明に照らされたシルバーのポルシェは、凛とした佇まいで二人を待っていた。アキラが助手席のドアを開けると、車体に映る街灯の光が水面のように揺らめいた。しかし、その輝きも、霧の濃い裏道に入るにつれて、徐々に薄れていった。ラジオからは流行りの曲が流れている。霧雨がじわじわと視界を奪う中、ナビが示したのは見慣れない道だった。寂れた工場や商店が続き、あたりは不気味なほど静まり返っている。
「ここ、初めて通ったけど、なんだか寂しい道ですね」
「ああ、工事でいつもの道が通行止めらしい」
その時、遠くで踏切の警報音が響いた。霧のせいか、その音は妙にくぐもり、まるで別の世界にいるような錯覚に陥る。車が進むにつれて霧はじわじわと濃さを増し、ヘッドライトの光さえ押しつぶされていく。
前方の暗闇に、滲むように踏切が浮かび上がった。錆び付いた遮断器が道を塞ぎ、古びた標識は霧のせいでその役割を放棄しているかのようだ。警報機は不気味な赤い光を点滅させ、霧の中で妖しく脈打っている。その赤い光が霧に反射し、踏切全体が血に染まったような異様な空間を作り出していた。
「何だか不気味ですね...」まどかの表情はこわばり、声もかすかに震えている。
アキラも胸騒ぎを覚えたが、気のせいだろうとやり過ごした。ただ、警報機の音は普段より低く、遠くから微かに聞こえる列車の音も、どこか歪んでいるように感じる。車内の気温も、心なしか下がったようだ。ラジオから流れていた曲はいつの間にか止まり、無機質なホワイトノイズが聞こえている。
「あれ...?」
踏切の遮断機が下りているのに、一向に列車が通り過ぎる気配がない。しかし、警報音は鳴り続けている。
その時、霧の奥から、金属が軋むような濁った音が這うように忍び寄ってきた。列車の走行音にしては低く、不規則で、重く、鈍い。
踏切の向こう、霧の奥で、人影のようなものがその音に呼応するように微かに蠢いた。
突然、耳を引き裂くような金属の悲鳴が轟いた。同時に、低く湿った唸り声が霧の奥から這い出てくる。人の声か、獣の声か--それとも、もっと別の何かか。
「まどかさん、ちょっと様子を見てくるよ」
「だめです!行かないでください!」
まどかは必死でアキラの腕を掴んだが、彼は優しく手を解いて車を降りる。その穏やかな動作とは裏腹に、アキラの心臓は恐怖と戸惑いで激しく脈打っていた。
自分を奮い立たせようと深呼吸する。周りに立ち込める霧は、鼻を刺すような湿気と土の匂いを孕んでいた。それは、生暖かい空気に混じり、じわじわと肺を侵食してくるようだった。
アキラが踏切へと一歩踏み出したその瞬間、車のエンジンが突然停止した。メーターやディスプレイ、オーディオ等のほのかな光も全て消失し、車内が闇に飲み込まれる。
「うそ...」
まどかはパニックになりながら、ドアのロックを外そうと必死でボタンを押す。しかし、カチリとも音がしない。
霧の奥に、ぼんやりと赤い影が滲む。それは次第に形を成し、やがて血に濡れたような真っ赤な列車が姿を現した。それは通常の列車とは明らかに異なり、車体は錆び付き、剥がれた外装は今にも崩れ落ちそうだ。窓ガラスはひび割れ、そこから入り込んだ風がボロボロに裂けたカーテンを揺らしていた。周りに立ち込めていた霧は一層赤みを増し、まるで血の霧に包まれているかのようだ。車両の窓に目をやると、無数の歪んだ顔が貼りついていた。彼らの顔には血の気もなく、生気が完全に抜け落ちている。それはまさしく死人の顔だった。その濁った瞳が、一斉にアキラとまどかを見据えている。
「アキラさん、戻ってきて!」
まどかの悲鳴が車内に響き渡った。
真っ赤な列車は徐々に速度を落とし、骨が軋むような不穏な音を響かせながら、踏切の上で完全に停止した。くぐもった警笛のような音が霧の中にこだますると、車両のドアがゆっくりと開いた。そこから這い出してきたのは、腐敗した肉体を引きずった人影だった。辺りに異臭が立ち込める。生ごみが腐ったような臭いと血なまぐさい臭いが混ざり合った、吐き気を催す臭い。
人影から伸びた無数の手が、アキラに向かって襲い掛かる。
「まどか、逃げ...!」
アキラの声が途切れた。彼の体が、強大な力で引き寄せられるように、列車の開いた扉へと吸い込まれていく。彼の指が必死に地面を掻きむしるが、爪が剥がれ落ちるほどの力でも抗えない。最後に見えたのは、彼が振り返った瞬間の絶望的な表情だった。そして列車は、アキラを飲み込んだまま、徐々に濃くなる霧の中へと姿を消していった。まるで、この世界から消え去るように。
まどかは恐怖で凍りついたまま、車内から全てを目撃していた。指先が震え、スカートを握りしめる音がかすかに響く。歯が小刻みに音を立て、肌が粟立ち、冷たい汗が背中を伝う。次の瞬間、窓を爪で引っ掻くような異音が耳を劈き、車内の気温が急激に下がった。空気が張り詰めている。腐敗した何かと、金属臭が混ざった不快な臭いがまどかの鼻を刺す。背後に嫌な気配を感じ、心臓が早鐘を打つ音が耳の奥で反響する。振り向きたくない。振り向いてはいけない。ゆっくりと、スローモーションのようにバックミラーに目をやると--後部座席には、いつの間にか無数の人影が座っていた。人影は徐々にまどかに近づき、長く伸びた指で彼女の肩に触れる。指先は氷のように冷たい。指が肩から首筋へと這い上がってくる。
「い...や...」
まどかの悲鳴は闇に吸い込まれた。彼女の姿は、まるでモヤがかかったフィルムのように徐々に霞んでいき、最後は車内の闇と同化するように消えていった。まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
車内は静寂に包まれている。しばらくすると--車のラジオが勝手に入り、ノイズとともに『次の停車駅は...』と掠れた声が響いた。
翌朝、踏切付近で一台のポルシェが発見された。しかし、それは昨夜までのシルバーではなく、まるで生き物の血のような真っ赤な色に変わっていた。車のいたるところに残された汚れは、幾重にも重なった手形のようにも見える。
車内には誰もいない。霧で曇ったフロントガラスには、まるで誰かが内側から細く長い指でゆっくりとなぞったかのような文字で、不気味なメッセージが残されていた。
「 次 ハ 、 君 ノ 番 ダ ヨ 」
その後、ポルシェのドライブレコーダーには、最後の恐ろしい映像が残されているのが判明した。アキラが列車に吸い込まれる瞬間と、まどかが車内で何者かに襲われ、闇に溶けていくような映像。不思議なことにその映像は異様にノイズが多く、まるで電波が著しく乱れたかのような状態だった。
真相は今も謎のままだ。ただし、霧雨の夜、この踏切を通る人々は、時折真っ赤な列車を目撃すると言う。そして、その度に誰かが消えていくのだった...。
血霧列車 -闇への片道切符- 凪凪詩 @Louloulou
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