第5話 湯けむりに隠した苦味と、湖畔に浮かべる痛み

 九州の片田舎でもいよいよ冬到来かと思えるほど、山間の地域では急激に冷えこむようになり、温度差にいまいち体がついていかない。そんな十一月下旬。

「やっぱり温泉はこの時期が一番ちょうどいいかもなぁ」

 僕と大地は静かな湯けむりがたちのぼる、温泉に浸かっていた。平日の観光地、大分おおいた別府べっぷ。全国でも有数の温泉地ゆえに老若男女、インバウンドが多い。

 熟したように色づいた紅葉を楽しむ客をよそに、僕らはひたすら地獄温泉巡りを楽しむ。

 硫黄のにおいにも慣れてきており、体が溶けそうになるまでじっくり温泉を堪能した。

「あー、地獄の極楽とはこのこと」

 僕の言葉に大地は「そうやねぇ」と絶対話を聞いてない様子で返事する。

「烏森くんも来たらよかったのにねぇ」

 僕が言うと大地はまたも「そうやねぇ」と返した。

 実は今回の大分キャンプに、彼も誘ってみたのだが最初は『行きたい!』と声を弾ませていたもののすぐに『学祭が……あるから……無理です』と絞り出すように言われた。このテンションの落差から彼の興味がどちらなのかというのがはっきり窺えた僕は、次もまた誘うよと慰めるしかなかった。

「モラトリアムはなかなか思うようにいかないみたいだね。大変だ」

「そうやねぇ」

 大地は今や「そうやねぇ」マシーンと化している。僕はもう何も言わず、乳白色の湯を顔にかけて蒼天を仰いだ。

「極楽だぜ……」

 デザインはあれからぜんぜん思いついてないけど、今だけは仕事を忘れようと思う。


 幾条もの湯けむりが立つ町、別府につけば、キャンプ場に行くまでにいくつもの温泉に出くわした。これはもう先に温泉に浸かってたっぷり蕩けようぜと話し合って決め、極楽を満喫していたわけだった。時折、土産物の雑貨店も冷やかす。またあちこちにある、とり天や鶏の唐揚げの店に出くわし、厳選してとり天を買って食べた。サクサクの衣にジューシーで淡白な鶏肉は、しっかり噛みごたえがある。練りからしとポン酢で食べるととてもうまい!

 いつもなら午前中にはキャンプ場に着いているものだが、今日は昼からの現地入りとなる。

 黄土色の山と海に囲まれ、ぎゅっと凝縮された町並を見ながら山へ入り、やがて静かにきらめく湖畔が見えてきた。

 志高湖しだかこ鶴見岳つるみだけの噴火による地形変動でできたというこの湖全体がキャンプ場になっていて、移動も車じゃないと大変なくらい敷地が広大だ。僕らは湖に近づける場所を目指し、手早く拠点を築いた。

 見渡す限り柔らかな土と芝、青々とした湖が一望でき、最高のスポットだ。

「あ、白鳥! すげぇ! 初めて見た!」

 大地も珍しく興奮気味。僕らのいる場所よりずっと遠くに白く長い首をしなやかに動かす白鳥が悠然と泳いでいた。カモもいる。

「でもあいつらに夕飯を食われんようにせんとな」

 大地がボソッと言うので、僕はそうだねぇと言いながらダウンの上に毛布を羽織り、湖の近くにローチェアを置いた。冬パーカーと裏起毛のあるズボン、ブーツのスタイルでも寒いもんは寒い。大地は四分の一あやかしなので、トレーナーにジャージという格好にダウンだけ。元気なやつだ。

 僕は遠くの鳥を眺め、息をつくようにつぶやいた。

「あー、いいなぁ。いい眺め。でも……」

 びゅぅうっと風が吹き、髪の毛を掻き上げる。湖の水面が逆立ち、小さな飛沫が弾けた。寒い。数時間前までの極楽はすでに冷めきっている。

「カイロ使いー」

 大地が僕の頭に封を切ったカイロをペシッと乗せてくる。

「ありがと」

 受け取ってシャカシャカ振ったらあったかくなる。それをポケットに入れてぼんやりと遠くを眺めた。

 大地は何故か湖から遠ざかった場所から撮影する。

「遠くない?」

 声をかけてみると、大地がポテポテと近づいてきた。

「あれ、もう終わり?」

「この眼の前が絶景やけんね。あと、夜に撮影したら大丈夫かなー」

「ふぅん」

 確かに眼前の絶景は急がなくても逃げない。ゆったりとした時間が流れるだけだ。

「ねぇ、眞魚」

「ん? どした、大地」

「ちょっと散歩行かん?」

 その誘いに僕は眉をひそめた。

「そう嫌そうな顔せんでよ」

「そんなつもりはなかったよ」

 やっべ。でも取り繕うこともせず、僕は重い腰を上げた。

 二人で並んで湖沿いを歩く。土と芝が混ざった地面を踏みしめるたびサクサクと音が鳴る。

 歩けども歩けども、景色はあまり変わらない。その間、なぜか互いに無言だった。

 まぁ、大地にはいろいろバレてそうなんだよな。

 僕がデザインに悩んでいることや、自分の鈍感さに気づいてしまったことも。ただ、これは僕の問題だ。僕がどうにか自分で解決しなくちゃいけない。

 しばらく道なりに行くと、湖畔でキャンプしている集団や家族がいた。大地が誰にともなく言う。

「数年前までは結構賑わっとったもんだよ。家族連れもソロキャンパーもおったし。でもブーム過ぎてからはまた元に戻ったよねぇ。やっぱ冬って寒いしさ。でもキャンプのいい時期ってやっぱ冬なんよ」

「ふぅん」

 確かにこの春から大地に付き合って何度もキャンプしてきたけど、暑さと虫、食中毒などなどを考えるとこの時期が一番向いてるように思える。寒いけど。

 ぴゅうっと北風が吹き、僕は肩を上げて目をつむった。大地はあまり寒さを感じてないようで羨ましい。そりゃ大地にとっては快適なキャンプ日和なんだろう。

「大地って、本当に自然に生きてるなぁ」

 まるでその自然を吸収しているから、どんどんあやかしの力が強くなっているのではと思えるほど。最近じゃ無意識に一部分だけ狸に化けることもあるし、とくに大自然の中にいると大地は楽しそうで。

 そのうち、大地が本当にあやかしの仲間になって、人を辞めることがあったら──

「眞魚、変なこと考えんと」

 その言葉に僕はハッとする。一歩先を歩く大地がこちらを見て笑っていた。

「なんでもお見通しだな」

「ちょっとわかるだけやん。眞魚は言葉にせんでもわかりやすいけんね」

 なんと心外な。

「うまくいかんで落ちこんで、ますます悪い方に考えとる。そがんとはよくない」

「まぁ……そうだけど」

 大地の言うことはわかるが、面と向かってそう言われると癪だった。僕は頭を掻いて彼を追い抜く。大地が「あっ」と言うも追いかけてこようとはしない。ただのんびりマイペースに歩くだけ。

 僕も自分のペースに戻り、ただ大地より先を行く。そうして他サイトへ目を向けていると、なんだか見覚えのある横顔を見つけた。

「えっ」

 思わず立ち止まる。重たそうな四角いメガネと大きな鼻、白髪混じりのくたびれた髪の毛の男性。これといって特徴があるわけではないが、僕はその顔に覚えがあった。

「どうしたと、眞魚」

 大地が僕の横に立ち、訊いてくる。僕の目はその人物に釘付けで……ふいにソロキャンパーの男性がこちらを見たので、慌てて目をそらして踵を返す。

「眞魚? おい、どうしたとって?」

「……上司だ」

「上司?」

 大地が困惑気味に返し、追いかけてくる。

「前の職場の上司」

 辞めないでほしいと懇願してきたあの上司だ。僕はその顔に後ろめたさを感じ、早足で自サイトへ戻った。

 あー、最悪。こんなところでまさかかつての上司に出くわすなんて、あまりにもツイてない。誰だよ、僕を幸運なやつだと言ったのは! 大地だ!

 すぐさまテントに引っこんだ僕は体育座りしていた。大地が様子を窺うようにテントの中に顔を突っ込む。その姿は狸だった。

 心得ているかのように僕の横に座る大地。

「眞魚、大丈夫か?」

「うん」

「大丈夫やないやん。顔真っ青にしてから」

「うーん……そうかな」

 自分じゃどんな顔色だかわからない。でも大地の指摘のおかげで今、自分が動揺していることに気がついた。

 長年勤めた会社を辞めるとき、僕は結構ノイローゼ状態だった。今では落ち着いてるし、平静を装っているが、会社にいたときは毎日ピリピリして頼りない上司に苛つくこともあり、何度か言い合いになることもあった。どうかしてたんだ、あの頃は。

 そうして勝手にキャパオーバーになって、それでも無理して会社に行って。家に帰ると、もう会社に行きたくなくなってしまうから、いつしか会社に寝泊まりするほうが合理的でいいと思ったし、それについて会社が咎めることも問題視することもなく、ただ僕の評価が上がっていくだけで異常だった。そうして僕の心は、破裂した。

 一気にそこまでのダイジェストが駆け巡り、大きなため息をついた。大地が僕の足をつつく。狸のモフ毛が僕の手に当たったので、無意識に触ると大地は僕の横に寝そべった。

「遠慮はいらんよ」

「大地の声でしゃべると可愛くないんだよなぁ」

 と言いつつ僕は大地の尻尾を触る。大地は黙ったままでいてくれ、そのまま目を閉じた。

 眠っただろうか。

「はぁ……情けないな」

 会社を辞めるとき、僕を心配する人はいなかった。ただ、休みたいと連絡を入れたら「来てくれないと困る」と言われた。僕は限界だと訴えた。それでも取り合ってもらえなかった。

 それがあの上司、浅葉あさば部長だ。自分が上層部に怒られるからと言い、そういう説得が延々と続いた。その日だけはなんとか休日を勝ち取ったが、翌日に僕は休職届を出した。

 浅葉部長の困惑と絶望の顔が忘れられない。それがあまりにも僕の罪悪感を刺激してくるから、もう二度と会いたくなかった。

 体育座りがつらくなり、僕も横になることにした。少し寝たらこの胸のざわつきも和らぐかもしれない。そう祈り、僕は大地に背を向けてうたた寝を始めた。


 ***


 目を覚ますと、大地がいなかった。テントから出ているらしく、僕はそっと入り口から顔を覗かせる。大地はローチェアに座ってぼんやりと湖畔を眺めていた。

「おぉ、起きたか、眞魚」

「ちょっと寝ただけだよ。あれから何時間経った?」

「一時間ちょっとかなぁ。おやつでも食べよっか」

 そう言って大地はクーラーボックスからプラスチック容器を出してきた。事前に作っていたらしいそれは真っ白な杏仁豆腐。

「簡単に作れるとよ。材料入れて混ぜて煮立たせて冷やし固めるだけ。問題はソースやね」

 そう言って彼はテーブルで作っていたと思しきソースのミニボウルを見せてきた。緑色をしている。

「なにこれ……藻?」

「かぼす果汁と削った皮で作った特製ソースだよ」

 大地は杏仁豆腐を食べやすい容器にすくって入れ、ソースをかけ、輪切りにしたかぼすを添える。かぼすと言えば、大分の特産品である柑橘。すだちに似た鮮やかな緑色で無骨なやつ。どこの売店に行ってもかぼすを使ったお菓子や食品が売られている。そういえば温泉に行ったとき、大地が何か買っていた。それか。

 目の前に出されたかぼす杏仁豆腐をじっと見る。大地は「どうぞ」と言うので、僕は小さく「いただきます」と一口食べる。

 かぼすの酸味が強く、そのあとにくる杏仁豆腐のクリーミーなまろやかさがより甘く引き立つ。これがどうにもクセになり、また一口、さらに一口と止まらなくなる。

「おいしい」

「そうやろー」

 大地もご満悦でパクリと一口。酸っぱさにびっくりしたように目を見開くも、すぐ蕩けた目になる。

「うん、うまい。もう大分に行くって時点でこのメニューは決まっとったんよねー」

「僕はてっきり唐揚げを食べるんだと思ってた」

 大分は唐揚げもおいしいからね。すると大地は「それもいいな」と笑った。考えになかったらしい。まぁ大地のことだ。大分にも何度も行ってるだろうし、今日のキャンプも「ついでにかぼすを買いにきたとよ」とか言われても驚きはしない。

「いっぱいあるけん、たくさん食べりー」

「いっぱい食べたら体冷えるじゃん……あったかいもんも食べたい」

「って言っても、今回はカップ麺くらいしかなかとよ。俺も常に金があるわけやないし」

 大地にしては珍しく、しおらしくしょぼんと肩を落とす。

「そう言えば、お前の資金源ってどっから湧いてるわけ?」

 あまりお金の話はしたくないので避けてた話題だった。でもこれを機に訊いてみる。

 大地はエコバッグからお湯を注ぐだけのカップ麺を出しながら、あっさりと答えた。

「元々は貯金からやね。ほら、東北でキッチンカーやってた時代の」

「そんな儲かってたの?」

「そこそこやなー。兄さんもそれで奥さんを射止めたんやけん」

「そうなんだ……まぁレストランの息子だし、料理の腕前もプロ級っていうかプロだもんな」

 そんなプロの料理を僕はなんの気なしにバクバク食べてたのか。しかもタダで。今さらになって恐ろしくなってきた。

「い、今までの食費は、出します」

「何言っとるとよー。俺は別に調理師免許ば持っとったわけやないし、プロでもなかよ」

「それでも人の金でバクバク食べてたのは間違いないし……今さらで申し訳ないけど」

「そがんこと気にすんなよ……って言っても、眞魚には気にすんなっていうのが無理な話か。わかった。今度実家のバイト代から引いとくけん。それでよか?」

「はい」

 僕はこくりと頷いた。少し心が軽くなる。

「そんじゃあ、カップ麺好きなの選べ」

 大地が出すカップ麺は同じ会社が作っているもので味違いがいくつかある。僕はシーフードラーメンを選び、大地はカレーラーメンを選んだ。

「ここにちょい足しする」

 そう言って大地はピーナッツをまぶした。前回のキャンプでカレーとピーナッツが合うことに気づいたからか、気に入ってるみたい。ピーナッツととろけるチーズをかけていく。

 僕はスタンダードにそのままいただきたい。二人で椅子に座り、寒空の下で夕飯を囲む。

「牛乳入れたらもっとうまいよ」

 大地が囁いてくるけど、僕は首を横に振った。

「僕はカップ麺にちょい足ししない主義」

「あっそう」

 そっけない返答だったからか大地は素直に引いた。そして、熱々の麺をすすろうとし、ピタリと止まる。

「まぁ、貯金だけやったら食いつぶすだけやし、ちょこちょこお金稼いどるとこかなー、今は」

 さっきの話の続きだ。僕が話の腰を折ったから、ちょっと間が空いたけど、大地はラーメンをすすりながらぽつぽつ話した。

「基本的には広告収入かなぁ。写真のね。キッチンカー時代の貯金の一部で、ブログ運営を雇って作ってもらった。今はアップロードとかは、ほおのきカメラの店長に頼んどる」

「あぁ、どうりで機械音痴な大地がブログできてるわけだよ……」

「基本的に、ほおのきの店長に写真渡したら、いろいろやってくれるとよ。でも今は眞魚もおるし、やってもらえたら正直助かる」

「そういうことくらいはやるよ。なんでもやりますとも」

 食費分の働きになれたらいいけども。

「そっか。じゃあ今度からは眞魚に頼もう。って感じでね、写真の仕事で地味にお金が入って、ほかにもスタジオの撮影もたまに受けよるね。それでキャンプ行って、写真撮ってーって感じ。でもこないだ東北に行ったけん、それでちょっとお金使っちゃってさ」

「あの大量の土産な……あれは買い過ぎだよ」

「だってうまかとよー、あっちのフルーツ」

「それは何度も聞いたけど」

 大地の楽しそうな話のおかげか、僕の食はだいぶ進んだ。

 なんというか、大地の職業ってフォトグラファーというより旅人って感じなんだよね。そっちのほうが似合う。そして人生がめちゃくちゃ楽しそう。

「どうやったら人生を楽しく生きられるんだろ」

「え?」

 思わずつぶやいたことが、大地の耳に入ったようで彼の食べる手が止まる。珍しく真面目な顔つきでこちらを見るけど、口元にカレーがついているので指摘したくなる。でも、僕の悪いところはそうやって自分の心を隠して逃げるところなんだ。

 シリアスな大地に対し、僕はやはり笑みを浮かべてしまい、顔をうつむけた。

「ごめん。いや、その、逃げようと思って謝ってるんじゃないんだ。けど、あー……こういう真面目な話、僕は苦手なんだ。難しい。前に烏森くんにも言われたけど、こういう場面で笑っちゃいけないんだなってわかったんだよ」

 早口になって言い訳をする。そんな僕に対し、大地はうんともすんとも言わずただ黙って僕の言葉を待ってくれた。

「そう、あれからちょっと反省したんだ。僕の悪いクセなんだろうなぁって。でも染み付いてるみたいで、やっぱり取り繕おうとしちゃうんだ。もうずっと僕は、そうやって生きてる」

 父と母が離婚したときも、母が事故で亡くなったときも、祖母と二人暮らしになったときも、祖母が認知症になったときも、介護が必要で施設に入れなきゃいけなくて、家を売りに出したときも、全部僕が一人でやらなきゃいけなかったから、そのたびに泣いてたらしょうがないし笑うしかない。まぁ人生ってこんなもんだし、これ以上の不幸はもうないだろうし、って楽観的にならなきゃ、とっくに僕も母の後を追ってたと思う。

 生きなきゃいけなかったから、僕は負の感情を表に出すことをやめたのかもしれない。

 目の前の誰かに同情してほしくもなくて、また場がしらけるのも嫌で、そうやって勝手に他人の顔色を窺って、結果的に迷惑をかけてしまうんだろう。

「情けないやつだよ、僕は。自分の弱さを見て見ぬふりして、烏森くんや大地たちに……」

「それは思い上がりやぞ」

 大地の声が鋭く割りこむ。そこには珍しく強い怒気が含まれていた。

「お、思い上がり……?」

「そう」

「え、どのへんが?」

 僕はわけがわからず動揺した。しかし大地は言葉に迷い、仕方なさそうにラーメンをかきこむ。やがてスープまで飲み干した大地は静かにカラのカップを置いて、上空へ顔を向けた。

「俺はね、ずっと眞魚を見守っとるとよ。中学の頃から」

「そうだったんだ」

「笑って取り繕うのも生きづらそうなのも、それに気づかんのも別によかばい。よかっちゃん、そのまんまで」

 大地の言葉は難しい。僕にはない考え方だから解釈するのが大変だ。

「そのまんまね……烏森くんはそのまんまの僕じゃどうもダメそうだったけど? あまり思いつめるなって言ってたし」

「だったら思いつめんな。やけん、眞魚は考えすぎって言いよるとに」

「そうかなぁ……」

 大地がずっと空を見上げながら言うので、僕もつられて空を見た。

 明かりが極限しかない真っ暗な山と湖。わずかな光源である僕らの焚き火やランタンで辛うじて見える澄んだ夜空には星がまたたいており、目をこらせばどんどん星が浮かび上がって見えてくる。

「星空見とったらさ、自分の小ささがわかる」

 そう言ったのは大地だった。

「あの遠くにある星の向こうにも無数の星があるし、それを考えとったらさ、自分の存在が小さなもんで、悩みとかいろんなことが吹き飛ぶよ」

「大地も悩むことあるんだ」

 失礼ながら素直にそう言うと、大地は「あはははっ」と愉快そうに笑った。ちょっと怒ってたかなと感じていたから、笑ってくれたら安心する。

 僕と大地も滅多にないけど、言い合いをした際、どちらかがあえて煽るようにふざけたら馬鹿らしくなって機嫌が治る。そういう付き合い方をしていたので、大人になっても同じだなとなんだか懐かしくなった。

「俺もこう見えて悩むさ。悩む悩む。明確に人と違うやんか。たまに思っとったよ。普通の人間やったらって」

 あやかしの血筋であることをまるごと受け入れているものだと思っていたから、そのカミングアウトには素直に驚く。

「何か嫌なことでもあったの?」

「いや、ないんやけどね」

 ないんかい。

「帯電体質なのも大人になってからやけんねー……子供のうちは本当気楽やった。ばってん逆に自分を苦しめることもあったし悩んだよ。眞魚に共感できん自分が薄情に思えてさ」

「え、僕? そこに僕が絡むわけ?」

「うん……あんま言いたくないっちゃけどさ。ほら、そがんこと話したら眞魚はまた考えこんで思いつめるけん」

 大地が悔しそうに言う。思い当たることが多くて僕は愛想笑いもできない。でも彼の悩みを聞いてみたい。

「思いつめんね?」

「思いつめない。努力する」

「わかった。じゃあ、俺の悩みを聞いてくれ」

 そう言って大地は一息ついた。月明かりがない空はとっぷりと黒い。そういえば以前、狸は月がないと切なくなると聞いたことがあるような。

 大地が息を吸いこむ。

「眞魚のお母さんが亡くなったときやった。あのとき、眞魚はやたらとおばあちゃんの世話ばしとって、手伝わせてくれる隙がなかった」

「そうだったっけ……」

 これはしらばっくれているわけではない。本当に記憶がなく、またそんなつもりがなかった。そんな僕に対し、大地は少し笑った。

「あのときの俺は、この前の烏森くんみたいな気持ちやったんよなぁって、彼と話して気づいたと。俺も実際、どういう感情やったろうかようわからんでさ。俺はあのとき、すごくモヤモヤしとったんやなって。だから親に話して、見守るっていう結論を出したとよ。歯痒はがいかったけどね」

 大地はそう言ったあと「うーん」と腕を組んで考える。

「どう言っても眞魚は自分を責めるやろうな……本当はそんなに自分を痛めつけんでいいとよ。そして、お前に背負わせるような言い方もしたくない。それでまぁ、悩むんよね」

 僕はうつむいた。大地の言葉はもっともで、彼や烏森くんにそう思わせていた自分を責めようとしていた。確かにこれは難しい。

「それも眞魚の性格やけん仕方なかよ。これはもう性分さ。俺が旅に出たいのとおんなじごと、眞魚は自分に厳しい」

「うん……? 全然繋がりがないような気がするんだけど、まぁ言いたいことはわかった」

 大地の旅好きと僕の性格にどんな因果関係があるんだよ。大地は「あはははー」と楽観的に笑った。

 楽観的になりたいけど、きっと僕はそうなれない。意識して努力しても、できそうもない。今こうして悩むことも、おそらく彼らの本意じゃないんだろう。

 そしてこうして悩んでいることを大地はすぐに察知している。現に僕は彼の視線をしっかり感じていた。

 やがて大地はため息をついて、ゆるりと柔らかな言葉を放つ。

「眞魚、日々是好日にちにちこれこうじつって言葉、知っとる?」

「へ? 急に何?」

 顔を上げると、大地は大きく伸びをして言った。

「簡単に言や、その日をいい日に考え、悪いように考えんっていうこと。詳しく言えば、過去を悔まず、未来を心配せず、今を大切にするっていう禅語のことやね」

「なんだか前向きになれそうだな」

「俺はこれが好きでね」

 なるほど。大地の根底というかモットーというか、思いのほか味わい深いことを言う。

「それを実践するもよし、無視して自分を貫くのもよし。でも眞魚のことやし、絶対今日のことを気にするやろ。やけんこの言葉で締めさせてもらおうかなって」

 日々是好日、か。僕と相反する言葉に思えたが、どうにも心に馴染むから不思議だ。僕はこれを求めていたのかもしれない。

「でも大地が言うと、狸の知恵って感じがするわ」

 狸だからこその柔軟な発想とでも言うのだろうか。つい茶化して笑うと、大地は「そうかぁ」と首をかしげ、何かを思いついたように笑顔を浮かべる。

「じゃあ『ぽんぽこ是好日』やな」

「ははっ、なんだよ、そのかわいい言い方! 似合わねぇ!」

「こうしたら似合う!」

 大地はポンと音を立てて狸になった。確かに、こうしたら似合う。

 丸くて柔らかい、モフモフの生き物はつぶらな瞳とクマのような模様をこちらに向け、尻尾を揺らした。


 一日をいいと思うか……。悪いように考えないという精神は、確かに今の僕に必要な要素だと思えてくる。なんでも後ろ向きに捉え、忙しさで寂しさを埋めようとし、周囲に心配をかけて自滅する。それも個性といえばそうだし、大地も烏森くんもそんな僕と親しくしてくれるし、迷惑だと思ってないんだろう。それはありがたいことだ。

 でも、やはり根が真面目な僕は、彼らにこれ以上の心配はかけたくないと思うんだ。

「ねぇ、大地」

 狸のまま星を眺める大地に、僕は静かに言う。「ん?」と狸がのんびり振り返った。

「さっきの杏仁豆腐、まだ残ってたよね」

「え? うん。食べる? ソースかけちゃろうか」

「いやいい、そこまで過保護にするな。自分でできるし、ちょっと人にあげたくて」

 その言葉の裏を大地は読み取ったのか、一拍置いて頷いた。

「うん、いいよ。行ってきー」

 僕はクーラーボックスにある、かぼす杏仁豆腐を容器に入れ、懐中電灯を持って出かけた。

 まだ二十時。眠るには早い時間帯だ。真っ暗で広々とした地面をサクサク歩いていく。風が冷たい。温かい飲み物のほうがよかったかもなぁと思いつつ進んだ。

 やがて、見えてくるのはソロキャンプ用のテントと簡素なレイアウト。もうあとは寝るだけなのか、テーブルなどは片付けてあるものの焚き火とランタン、ローチェアは置いたまま。

「浅葉部長」

 ゆっくり近づくと、ランタンの明かりで読書をしていた壮年の男性、浅葉部長が顔を上げてこちらを見た。

「あの、お疲れさまです」

 なんとも不器用に声をかけると、彼はメガネのずれを正して固い笑顔を見せた。

「こんばんは、米持くん。君もここに来てたんだね」

 つい癖で「お疲れ様です」と言ったことを早くも後悔する。しかし浅葉部長はとくに気にしていない様子だった。気まずさはあれど、強張っていたものがいくらか和らぎ、僕は苦笑して言った。

「それはこちらのセリフですよ。わざわざ東海から九州に」

「僕はね、趣味がソロキャンプなんだよ。ここは毎年来てるんだ」

「そっか。ちょうどこの時期の会社は閑散期でしたね」

 浅葉部長の声音はどうも僕の存在を知っていたかのようで、随分と落ち着いていた。

「さっき、こっちに来てたでしょ。米持くんに似てるなぁと思ってたんだ。でも声をかけるのはね……嫌かなって思ったから」

 そう言って浅葉部長は苦笑を漏らし、立ち上がって僕に椅子を勧める。

「そんな、いいですよ。地べたで」

「さすがに冷えるよ。大丈夫。僕はここに座るんで」

 そう言うと浅葉部長はテントのへりに座った。そうなれば僕は椅子に座らざるを得ない。素直に従う。

「あ、そうだ。これ杏仁豆腐です。僕の親友が作ったものですけど、よかったら」

「わー、ありがとう。いただくよ」

 浅葉部長は朗らかに言い、僕が持つ容器を受け取った。スプーンは使い捨てのものを持ってきて容器に入れている。浅葉部長はすぐに「いただきます」と言って一口食べた。

「すみません……寒いときに冷たいものなんて。でも、浅葉部長って甘いもの、好きでしたよね」

「うんうん、そうなんだよ。よく知ってたねぇ」

「そりゃ、給湯室でコーヒーにシュガースティック三本入れてたし、昼ごはんに必ずデザート持ってきてたじゃないですか」

 ほんの数ヶ月前まで在籍していた日常が、言葉にするとなんだか遠くにいってしまったかのように思えてくる。そんな僕に対し、浅葉部長は恥ずかしそうに杏仁豆腐をもぐもぐ食べた。

 部長が黙れば、僕も後が続かなくなる。別に謝りにきたわけではなく、ただなんとなく彼の話を聞きたいなと思ったんだ。

 しばらく焚き火を見ていると、部長が「ごちそうさま」と言って容器とスプーンをゴミ袋に入れた。

「甘酸っぱくておいしい杏仁豆腐でした」

「それは何よりです。親友に言っておきます」

「うん、よろしくね」

 浅葉部長はそう言うと、ふぅと小さく息を吐いてメガネを取る。

「……元気にしてた?」

 遠慮がちに聞かれ、僕は焚き火を見ながら小さく「はい」と答えた。しかしすぐに「いえ」と訂正した。

「元気なふりをしてました」

「そっか……地元、佐賀だったよね。ゆっくり休めてる? でも君のことだから、ゆっくりはできてないかもしれないね」

「そのとおりです。その、今一緒に来てる幼馴染の家にお世話になってて、その家でバイトしてます」

 かいつまんで話すと、浅葉部長は手持ち無沙汰なのか、メガネのくもりを拭き始める。

「そうだったね、君の家族はちょっと複雑だった。なんだかその君の状況とか、性格に甘えてたなぁって思うよ」

 そう言って彼はメガネを掛け直してため息をついた。指を組み、今度は焚き火に目を向ける。

「申し訳なかった。君が倒れているのを見つけたのは、僕じゃなくて他の人だった。それも言い訳にしかならないけど、あのとき、僕が気づいてやれたらって何度も悔いたよ。遅かれ早かれ、君は辞めてたかもしれないけどね」

「……えぇ」

 すぐに「そんなことないですよ」と飛び出しかけたが、ぐっとこらえて自分に素直になる。

 この人は一体何度絶望し、腐ったのだろうか。哀愁なんかでまとめられるほどではない、巨大な闇を従えたような顔つきと声で、部長はそれからも懺悔めいた言葉を続けた。

「ほんと辞めないでほしかったよ。正直、君はとてもいい部下だったから。人一倍、気が利くし仕事は丁寧だし。君の先輩たちなんて、我関せずで電話番でさえやってくれないからね」

 あははと乾いた笑いが部長の口からこぼれ落ち、僕もつられて笑う。そうだったな。最初は雑務をやっていたから、それが染み付いてて、結局何年も電話番やらコピー用紙の取替やらやってたんだ。

「僕は使い勝手のいい部下でしたか?」

「うん。今まで仕込んだ部下の中でも優秀だった。これは君個人の意思を無視した、会社側の身勝手な言い分なんだけど、いつかは僕の後釜にって考えてたんだよ」

 至極残念そうに言う浅葉部長。こういうあけっぴろげなところは好ましく思う部分ではあるけど、彼の言葉に僕は素直に驚いていた。

「それは初耳でした」

「君の腕とかセンスとか、飲みこみの速さとか本当によかった。でも、妙なところで頑固なんだよね。時間をかけて丁寧にやりたいんだろうなぁと思ってたから、あえてそういう仕事を振らなかった。やっぱり通常業務をそつなくこなす人がね、一番いいんだ」

 浅葉部長は一息に言うと、咳払いして「でもなぁ」とゆっくり続けた。

「そのせいで君に我慢を強いてたんだよね。頼むから耐えてくれと何度も思いながら仕事を振ってた。君のやりたいことを封じたのは僕だね」

「……そんなふうに思ってたんですか」

「うん、君が辞めてからちょっと自分でもショックでね。人の入れ替わりなんて、僕の現役時代でも頻繁だったのに、どうにもこうにも君の退職は素直に響いてたんだ。惜しい人材を手放したことが本当に悔しくなって、これまでを振り返って、そういうことなのかもなぁって考えてたんだ」

 すると浅葉部長はおもむろに立ち上がった。大きく伸びをするその姿は、なんだか重たい荷物を下ろしたような解放感を思わせる。

「ここに来たら、いつもこれまでの一年を振り返るんだ。その中には後悔もたくさんあるけど、自分を見つめ直すにはとても有意義な時間だよ」

「それは……はい、そうですね。僕も親友のキャンプに付き合ってみて、それはなんとなく感じます」

「いいだろ、キャンプ」

 得意げに言う浅葉部長。その表情は、いつも気弱な彼と同一人物に思えなくて、僕はつい噴き出して「はい」と答えた。

 それからしばらく、今の会社の状況を聞いた。僕が辞めてからはしばらくゴタゴタしていたそうだが、今は何事もなく乗り切っているそうだ。

「そうそう。君が担当していた社報誌ね、他の人が引き継いだんだけど、やっぱり君のデザインが好きだったって先方が言ってたらしいよ」

「そう、なんですか……」

「なんだい、嬉しくないの?」

「そんな風に思われてたなんて……そんな大して凝ったものは作れてなかったのに」

「お客さんの好みを把握して効率よく捌いてたでしょ。だからだよ。君にとっては嫌な仕事だったかもしれないけど」

 バレてるし。図星をつかれては苦笑いするしかない。対して浅葉部長は機嫌よく笑う。

「そういうものだよ。うまくいくことのほうが少ない。でも届く人には届く。それをひたむきに信じるしかない。途方もないことだけど、腐っても生きてる以上はね」

 それから彼は何を思ったか、寂しそうな笑顔を見せると力強く言った。

「君なら大丈夫だよ」

 どういう意図なのかはすぐには理解できない。でも、これからの僕を応援してくれているのだと気づけば、自然と笑みがこぼれていた。

「はい。ありがとうございます」


 それからほどなくして僕は浅葉部長と別れた。これで本当に最後だろう。まだまだ自信はないけど、彼との話でひとつ憂さが晴れたことは間違いない。

 拠点に戻ると、大地が人間姿でカメラを構えて立っていた。

「ただいま」

「おかえり」

「また撮影?」

 隣に立って訊くも大地は答えない。真剣な顔つきで夜空にピントを合わせている。彼が捉えるその先には、分厚い雲の裏にあった白い三日月。あまりにも遠いが、この広大な景色の中に浮かぶ三日月とちりばめられた星空がキレイだった。

 雲が完全に流れ、三日月の全体が現れる。その瞬間、大地はシャッターを切った。

「うん。いいのが撮れた」

「ラッキーアイテムがちょうど帰ってきたからな」

 おどけて言ってみると大地は、気を抜くように笑った。

「そうだな……よし、ココアでも入れよ」

 大地がカメラを仕舞おうと車に戻る。その間、僕はやかんに水を入れて、焚き火に置く。大地が二人分のマグカップにインスタントココアの粉末を入れて戻ってきた。

 その間、彼は僕がどこに行っていたのか聞こうともしない。二人で椅子に座り、だんだん厳しくなる寒さに耐えながら、赤々と燃える焚き火に目を向ける。

「あのさぁ、大地」

「うん」

「なんか、大地があやかしだって初めて実感した気がする」

「え? なんで? どのへんが?」

 大地が驚いて言う。いや、今まで狸に化けたり異様に察知能力が高いし、帯電体質だし、普通の人間ではない要素はあったよ。

「なんというかね……こう、達観してるというか。同級生なのに、大地のほうが大人というかさ。そういうところが、ある意味ではあやかしじみてるなぁって」

「えー……わけわからん」

 首をかしげる大地。僕も言っててよくわからなくなってきた。

「なんだかすごいよ、大地も烏森くんも。どっちも人間を俯瞰して見てるんだよ。僕なんて他人の考えとかちっともわからないし」

「うーん……そりゃ、俺も烏森くんもかなり人間の心に敏感かもしれんね。どうにもわかってしまうとよ。これも血筋やろうかねぇ」

 どうやら自覚がないらしい。僕は呆れてため息をついた。

「まぁ、天狗はきっと上から見とるよね。烏森くんの言動は基本的にそうで、本人も自覚しとる。それが彼の悩みの種みたいやけど、天狗なんやけん堂々としときゃいいとにね」

 なるほど。それは確かに思うところはあるが、天狗への評価が厳しいな。

「でも俺は下から見上げて、手を伸ばしたくなる感覚っていうんかな……人間の真似事をして心配したり悩んだりするんやけど、あんまり悩まず気楽に生きりゃいいのになぁって思うんよね。そう落ち着いたら、やっぱ俺は狸やなって思う」

「そういうものか」

「そういうもんだよ」

 大地は柔らかにそう言うと、カタカタ鳴り始めたやかんを焚き火から引き上げた。カップに湯をそそぐ。ふわりと甘い湯気が立ち、スプーンでパウダーを溶かす。

「はい」

 カップを渡され、僕は両手でそれを受け取った。

「ありがとう。あ、そういえばココアっていったら牛乳だよな。なんでお湯沸かしたんだろ、僕」

「よかよか、気にすんなって。牛乳ならまろやかなココアやけど、お湯はお湯で濃厚なココアになるけん、どっちもうまい」

 ふぅっと息を吹きかけて同時に飲む。とろみの少ないココアは確かに味が濃くて、これはこれでおいしかった。

「大地のそういうところ、ほんと羨ましいよ。でも僕はそうなれないし、ならなくていいんだよな」

「そう。眞魚はそのままでよかとよ」

 甘やかすなぁ。でも、その言葉に救われる。そしてそれが気恥ずかしくもある。

「あんまりこういう話するの、正直苦手なんだけど。ほら、素直になって話すみたいな」

 照れ隠しに笑って言うと、大地は「まぁねぇ」と同じように笑った。

「でも、大人になるってそういうことかもしれんよ」

「大人か……子供の頃はできなかった話だもんな」

 僕は感慨にふけった。そうか。大人というのはつまり、生き方に慣れてくるということなのかもしれない。

 烏森くんに心配され、浅葉部長に励まされ、大地に甘やかされ、ようやくここで自分という存在を振り返ることができた気がする。

 今までの旅は現実逃避じゃない。大地流、ぽんぽこ是好日で言う、地に足つけて柔らかく生きるための準備だったんだ。

「……なぁ、大地」

 静かな湖畔を見ながら、僕はぼんやりと口を開いた。

「デザインの仕事、お前と一緒に考えたいんだけど、いい?」

 ちらりと大地を見ると、彼もココアを持ったまま湖畔を見つめ、穏やかに返す。

「わかった」

 最初からこうしておけばよかったんだと、つくづくそう思えた。

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