彼の岸に見ゆ
東屋彦那
序章
もう二度と、アルコールなど摂取するものか。
固い決意とは裏腹に僕の足元は頼りなく、帰り道の間に何度も電柱に手をついては呼吸を整えるための小休止を挟んだ。
遠くに見える山々の間から太陽が顔を覗かせ、新しい一日が始まろうとしていた。雲ひとつない、どこまでも薄青が広がる空。眩い太陽光が浸透し、輝きに包まれる大地。それらの間で、僕は吐き気をこらえつつ呻いていた。
先日、僕は二十回目の誕生日を迎えた。
つまり、成人になった。
二十歳になったからといって、昨日までの僕と何かが劇的に変わることはない。世間的には大人と見られるだろう年齢だが、僕の中にあるイメージの大人は、今の僕とは遠くかけ離れているように思う。
だが、何も変わらないわけじゃない。例えば、分かりやすいものとして、酒と煙草。
これらを、誰にも気兼ねすることなく、警察の目を怖がる必要もなく、堂々と買って楽しむことができる。
誤解を招くことのないように補足しておくが、別に僕は成人になる前から警察に怯えつつ酒や煙草を楽しんでいたわけではない。
そもそも、二十歳を迎える前から酒を嗜んでいたのなら、こんな体たらくを晒してはいないだろう。
一歩進むたびに、頭の中がぐわんぐわんと揺れる。銅鑼か鐘などを内側で鳴らされているような、味わったことのない不愉快な振動が身体の内で波打っている。
二十歳になった祝いだ、という先輩の言葉に乗った昨日の自分の首を締めてやりたい。悪いのは先輩ではない。酒の飲み方も分からず、片っ端から手を付けた僕が悪いってことは重々承知している。
それでも、誰かに責任を押し付けてしまいたい。この気分の悪さは僕の自己責任ではなく、誰かの意思が絡んだ事件だという事にしてしまいたい。
ビール、レモンサワー、焼酎、日本酒、ワイン、ウォッカ……あと何を飲んだっけ。
もう、どれがどんな味だったか思い出せない。これが酒に呑まれるということを言うんだろう。
いい経験になった。そして、二度と経験したくはない。
太陽光を浴びながら、吐き気や頭痛、倦怠感、眠気等々の症状と戦いながら歩くこと数十分。遂に僕は借りているアパートに辿り着いた。
不思議なもので、ゴールが見えた途端に、少し身体が軽くなる。
あと少し歩いて鍵を開ければ、そのまま布団にダイブするだけだ。そうすれば、この苦痛から解放される……はず。
僕の借りている部屋は二○一号室。アパートの外に取り付けられている階段を上がって最初の部屋だ。
手すりを使って、限界を迎えつつある身体を強引に引き上げる。とてもじゃないが、自分の身体とは思えない。さっさと階段を上がれと命令しているのに、その通りに動いてくれない。
たっぷり時間を掛けて二十段弱の階段を上り切り、僕は扉の前に腰を下ろす。正しくは、腰を下ろしてしまった、だ。後は部屋に入るだけだと言うのに、休憩を挟むつもりなんてさらさらなかった。
立ち上がれ、鍵を探せ、家に入れ、それらの命令を僕の身体は尽く無視している。疲れているはずなのに、頭だけが冴えてしまって眠れない、そんな状況に似ている気がする。
ん?
ふと、首を動かすと、郵便受けに封筒が入っているのに気付いた。
比良沢(ひらさわ)尚人(なおと)様へ、と、手書きで書かれている。
何かの会員登録や、学生でも入れる保険の案内などで、僕の名前が印字された封筒は何度か見たことあるが、手書きとは珍しい。
一体どこからだろう、と封筒を裏返して、
「──ッ」
僕は言葉を失った。
ぞわり、と全身の毛が逆立つ感覚に襲われ、反射的に立ち上がる。
酒を飲みすぎて頭痛が酷いとか、身体が言うことを聞かないとか、気持ち悪くて死にそうだとか、そんなことが全てどうでもいいと思えるほどの衝撃。
差出人のところに書かれた名前を凝視して、心の中で反芻する。
そんな馬鹿な、と頭の隅で叫んでいる。
どこか遠くで蝉が鳴き出した。その鳴き声が、いやに鮮明に耳へ届く。
柔らかく僕を包んでくれた朝の光はいつの間にか鋭い熱を帯び始めていて、夏の到来を感じさせる強い光に変わっていた。
額に浮かんだ汗が鼻筋を伝い、
唇の横を通り、
顎の先から地面に落下する。
僕は気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと息を吸い、そして、吐く。心臓の音がやけにうるさい。こんなにも強く、そして早く心臓が脈打つことなど久しぶりの感覚だ。
何かの間違いかと思って、何度も封筒をひっくり返してみたが、当然ながら差出人の名前が変わったりはしなかった。
封筒に書かれていた名前は──中学生の時に死に別れた、親友の名前だった。
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