第11話 ペットとわたし
俺はペットが嫌いだ。別に動物が嫌いなわけじゃない。世の中には犬派・猫派というくだらない争いがあるが、どちらかといえば猫派に属する。庭に野良猫がいようと気に留めないし犬が吠えてもうるさいなとしか思わない。
ただペットという商品が気に入らない。もっと正確にいえばペット産業という存在自体が嫌いだ。動物を商品として売り買いし利益を出すことは犯罪じゃないし、ヴィーガンでもなければ毎日の食卓に動物性タンパク質の食物がのぼることだろう。
法でなければ道義の問題かというとそれも違うと思う。もしバックボーンを宗教などに求めれば人間の身勝手な論争になる。食べてもいい動物、汚れている動物、敬う動物等みなバラバラだ。そもそも生命を食むという観点なら植物だって含まなければおかしい。
価値観の問題ですらない。俺の頭ではこの話を深掘りすることも考えることも無理だ。だから好き嫌いの問題に収まる。
俺が中学生のとき姉が猫を拾った。仕事から帰宅し、俺に土産と無地の小箱をわたす。受け取って開けてみると茶トラの子猫が出てきた。そのときなぜかグレムリンという映画を連想した。
部活中に怪我をして紆余曲折を経て帰宅部になった俺は退屈を持て余していた。同級生の多くは放課後運動部で汗を流し、学習塾もなかったので自宅で1人でいる時間が長かった。
姉はそんな俺が寂しい想いをしているだろうと考え、たまたま勤務先の駐車場で迷い猫を保護したのでついでに連れてきたのだという。放っといても車に轢かれるか保健所が回収する。野良として生きてもせいぜい2~3年で死んでしまうのだからと。
そして情操教育をかねて俺に猫を飼わせた。当時は今と違って猫の外飼いはいたってふつうだった。もちろん好ましく思わない人もいただろうし俺だって野良猫が自宅に上がったら怒った。近所のお目こぼしもあり、また賢い猫だったので(子猫のときは気性が荒かったが)飼うのに手間はかからなかった。
俺が進学を機に上京し独り暮らしていると、いつの間にか実家が空き家になっていた。ある日帰省しようと母親に連絡したところ家族で賃貸住宅に引っ越ししたという。そして自宅の庭で野良化している飼い猫を捕まえろとの指令が下った。母猫と子猫は義兄の職場で飼うことが決まっていた。母猫が危険を察知したのか子猫を連れ実家から逃走したらしい。
友人の手を借りたが結果は散々だった。結局子猫を何匹か捕まえることは出来なかった。そしてせっかく保護した母猫と残りの子猫も義兄の職場から消えた。おそらく新しい環境になじめず縄張り争いにも負けたのだろう。
それ以来俺は、猫にかぎらず動物を飼うこと自体が嫌になった。幼い甥や姪が喘息気味で動物アレルギーも疑われていたので、実家でも猫は飼えないし潮時だったのだ
あきらめがついた。
つまりは八つ当たりだったのだ。可愛がってた茶トラの飼い猫がいなくなり自分がなにも出来なかったことが嫌で仕方なかった。
「別れを恐れてなにもしなかったら、なにも愛することは出来ない」昔読んだ漫画のセリフ。陳腐なのに妙に刺さった。そして意地になった。
多分この先、誰になにをいわれようとも俺は変わらないと思う。OSじゃあるまいし更新なんて無理だと。そしてまた一人こうやって偏屈な老害が生まれてくるのだ。
ペット産業については好き嫌いとは別に思うことはある。商品として生産、販売、在庫、廃棄と経済合理性を追求した結果を、少しでも想像すれば分かると思う。
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