第35話 あなたへのメッセージ
退院後、残り僅かな三学期をきちんと学校で過ごし、睡眠をしっかりとった上で小説を書いた。三月の末、書き始めてから約三ヶ月後、小説は完結し古川さんからもこれなら問題ないとお墨付きをもらうことができた。
全部で十五万文字程度の作品のうち僕が書いたのは二万字にも満たない。たったそれだけを書くのに三ヶ月以上かかった。それでも充実していた。四百字詰めの原稿用紙だと五十枚ほどになる文量、仮にこれだけの文章を書いて来いと宿題に出されたとしたら今までなら嫌気がさしていただろう。今なら間違いなくウキウキで書くことができる。
古川さんに認められたとはいえ、僕はゼロから小説を生み出したわけではない。文子さんが生み出して、曜子さんが書いて、僕は最後の仕上げをしただけなのだ。僕に小説家としての技量があるかどうかはまだ分からない。
それでも古川さんは「とりあえず自由に一本書いてみて。いつでも見てあげる」と言ってくれた。誠司さんは感動して泣いていた。文子さんの遺作が完成したのだから仕方がない。文音は「お兄ちゃん天才」と褒めてくれた。
そして今、僕は曜子さんの部屋のベッドの上に座っていて、曜子さんは椅子に座って紙に印刷された僕らの小説を読んでいる。曜子さんは漫画は電子書籍でもいいけど小説は断然紙派なのだ。パソコンやスマホの画面だと目が流れてしまうらしい。
曜子さんは自分が書いた部分から無言でじっくりと読んだ。僕は曜子さんが小説を読む横顔を見続けた。時に微笑み、時に真剣な表情になり、三時間ほどたったところで大きく息を吐いて背もたれに寄りかかり天井を見つめる。未読の紙はまだ残っている。きっと曜子さんが書いた部分を読み終えたのだ。
これから僕が書いた部分に入る。勝負が始まる。
難解な言葉を使わない、心理描写を詳しく丁寧に、古川さんから指摘された二点は曜子さんが書いた部分も参考にしながらかなり気をつけて書いた。言葉の難しさの基準は文音に見てもらった。曜子さんの心情も文音や誠司さんに助言を求めながら考えた。文子さんが書いた中高生向けの作品も読み直して参考にした。
そして最も気をつけたのが、奥空文子の作品の登場人物は明確な悪役以外は優しさにあふれているということだ。だから作品自体も優しさに包まれている。読み終わった時に心が温かくなって、つらいことがあった時に読み返したくなる。そんな作品になるように書いたつもりだ。
部屋の中では曜子さんが紙をめくる音と、クリスマスに文音がプレゼントした熊のキャラクターが描かれた置時計の針の音だけが微かに聞こえている。
落ち着かない。古川さんにお墨付きをもらっても、誠司さんを感動させても、文音に天才と言われても、曜子さんが認めてくれなければ意味がない。僕の書いた小説から奥空文子を感じ取って、希望を持ってくれなければ失敗だ。
曜子さんは、二万字ほどの僕が書いた部分を一時間かけて読んだ。文章どころか単語一つ一つを大事に大事に読んだ。
読み終えた曜子さんはベッドの上、僕の隣に腰かけた。小説では全てがうまくいっていて、キスをしてハッピーエンドになる。
「文也君は、ママの小説から何を一番感じ取った?」
早速僕が書いた小説とは違う言葉が出てきた。でも大丈夫。多少流れが変わっても最後が同じなら問題ないことは経験済みだ。優しさ、と正直に答えると、曜子さんは優しく微笑む。
「私も同じ。だから私もそうなるように意識して書いていたし、文也君が書いた部分からも感じ取れる」
「それじゃあ……」
「でも、駄目なの」
もう春なのに全身に一瞬だけ寒気を感じた。息ができなくなる感覚がして、曜子さんから目を逸らす。失敗の二文字が脳裏に強烈に浮かび上がる。曜子さんはそんな僕の手を取って、自分の方を向くように促した。キラキラと光る目が僕を見つめる。
「私も今気がついた。七海曜子が本当に求めていたもの」
「本当に求めていたもの……?」
「パソコンに保存してあるやつを読んでみて。七海曜子はそれを読むのが好きだったの」
意味がよく分からなかったが、一旦元の場所に戻していた文子さんのノートパソコンを確認しに文子さんの仕事部屋に入ると、日下部さんを消した時のように誠司さんが仏壇の前に座って分厚い本を見ていた。今度は卒業文集ではなく、晴道さんが生きている時に撮られた家族写真のアルバムだ。
「どうだった?」
「僕の文章から文子さんと同じような優しさを感じるって言ってくれました。でも、駄目だって。本ではなく、パソコンに入っている文子さんの作品を読んで欲しいそうです」
成功したわけではないが失敗と決まったわけではない。
「そういえば、昔古川さんから聞いたことがある。文子は完結したデータを送る時、必ず最後に関係ない文章を入れてくるって。消す作業が増えるから最初は面倒だったけど、いつしかそれが楽しみになっていたって言っていたよ」
「一番最後、ですね」
手始めに、陸田文子名義で書いた火村さんが主人公の作品を開き、最後のページを確認する。本文が終わって空白を置いた後にそれは書かれていた。
【お母さん、お父さんへ
今までありがとう。まだ不安はあるけど、私、小説家として生きていくことに決めました。きっと恩返しするからね】
次に水無月さんが出てくる作品を確認した。
【晴道君へ
図書室の会話のシーン、ほんの少しだけ私たちが高校生の時の出来事を入れました。少し恥ずかしいけど、どこか探してみてください】
次は木田さんだ。
【晴道君へ
お腹の中にいる子の名前、曜子なんてどうかな? 曜という字には月曜日とかの曜日の意味の他に、日の光が美しく輝くっていう意味があるんだよ。なんとなく晴道君っぽいよね。子は私の要素。明るい子に育ってくれたらいいな】
金井さんの小説を見た。
【晴道君へ
曜子も大きくなってきたね。晴道君の劇に連れて行った時はいつも目を輝かせて晴道君を見ています。曜子も役者を目指すかな? でも私としては小説家もありだと思っています。五歳にしてはいい文章を書くんだよ。 曜子へ あなたには小説家の才能がある。私の娘だから間違いない。そしてあなたには役者の才能がある。晴道君の娘だから間違いない。親の勝手な願いだけど、どちらかを目指してくれたら嬉しい】
次は土門さん。
【曜子へ
あなたが役者になって私の作品を演じたいと言ってくれた時はすごく嬉しかった。パパもきっと天国で喜んでいるはず。頼りないママと二人きりで不安なこともあると思うけど、頑張っていこうね】
日下部さんの作品にはメッセージはなかった。提出先が古川さんではないから書かなかったのだろう。僕はさらに後に書かれた作品を確認していく。
「文也君? もう何をすればいいのかは分かったんじゃないかい? 文子は最後に大切な人へメッセージを残していたんだろう。だから君も曜子に向けてメッセージを残せばそれで……」
「いいんですか? 誠司さんへのメッセージも……」
「恥ずかしいんだ。見てしまったら君の前でどんな姿を晒してしまうか分からない。あとでゆっくり確認するよ。私はリビングにいるから」
照れくさそうに苦笑いしながら誠司さんが部屋を出て行った。悪いとは思いつつも興味が勝ってしまい、誠司さんの名前が出てくる作品を探してしまった。これが初出だ。
【曜子へ
ママは再婚することにしました。迷子の曜子を助けてくれた誠司君。ママより三歳年下だからおじさんなんて呼んじゃ駄目よ? とても優しい人なの。きっと曜子にとって大切な新しいお父さんになってくれるはず。
晴道君へ
君のことは忘れない。君のことはずっと好きなまま。あなたは永遠に曜子のパパ。
誠司君へ
私が晴道君のことが好きなままでも構わないと言ってくれてありがとう。あなたのことを愛している。きっといつか乗り越える】
次に今僕が書いている作品の前に書いた作品。つまり生前の奥空文子が最後に完結させた作品の最後のページを見た。
【曜子へ
ママはもう長くないそうです。あなたが去年きまぐれで書いた小説、何も言わずに
誠司君へ
自分も仕事で忙しいのにいつも支えてくれてありがとう。君が私の作品を褒めてくれるたびに嬉しくなってやる気が出ます。曜子のことをお願いします。世界で一番愛してる。
晴道君
もうすぐそちらに行きます。誠司君のこと、たくさん教えてあげます。嫉妬するあなたを見るのを楽しみにしています。そして何十年後かに誠司君が来るのを一緒に待ちましょう。そしてもっと先の未来で、曜子と曜子が好きになった男の子が来るのを待ちましょう。もう少しだけ見守っていてください】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます