第28話 日曜日のエピローグ
スマホを取り出して時間を確認する。
「誕生日おめでとう。曜子さん」
曜子さんの返事はない。僕のことを抱きしめ直しているので意識はあるはずだ。
これですべて終わった。僕は七海曜子を救うことに成功したのだ。これからは学校で話をしたり、放課後一緒に帰ったり、休日に遊びに出かけたり、夜に寝落ちするまで長電話をしたり、そんな青春の毎日が待っている。灰色だった僕は完全に色付いて。もう灰色に戻ることはない。
それなのに曜子さんの反応がないのは心配になる。
「曜子さん?」
「……ごめん、ちょっと考え事してた」
「考え事?」
「文也君って演技が上手だなって。将来役者とか向いてるんじゃない?」
「冗談はよしてくださいよ。結構いっぱいいっぱいでしたから、もう何かを演じるのはごめんです」
「いつか私が書いた小説が実写化されることになったら、文也君に主人公をやってもらおうと思っていたんだけどな」
「それはちょっと話が別ですね。ヒロインを曜子さんが演じるなら考えます。あ、キスシーンは入れておいてくださいね」
「しょうがないなぁ。あ、そうだ、今練習しとく? さっきはお預けだったんでしょ?」
「それは魅力的な提案ですけど今日は駄目です。曜子さんを元に戻したらプレゼントを渡して、それ以上何もせずに誠司さんを呼ぶ約束なんです」
「そっか。文也君らしいね」
曜子さんは心底残念そうな声色で言う。
今僕は曜子さんの上に覆いかぶさっている状態で曜子さんに抱きしめられており、僕と曜子さんの顔は数センチしか離れていないくらい近くにある。その声は感情とともに僕の耳にもれなく届く。もっとこのままでいたい衝動は理性で抑え込んだ。
誠司さんの信頼は裏切れない。
僕は曜子さんから離れ、少し待っているように言って部屋を出た。
リビングに置いてきた誕生日プレゼントを持って再び部屋に入ると曜子さんは起き上がってベッドの淵に腰かけていたので、僕も隣に座りプレゼントを渡す。
「改めて誕生日おめでとうございます、曜子さん。まずは僕から」
上等な箱に一本だけ入ったボールペンを渡した。ペン先と反対側の半分くらいが液体に満たされていて、中に桜の花びらが入っている。
「すごーい。何これ? 綺麗」
「ハーバリウムっていうらしいですよ。日本語で植物標本っていう意味です。綺麗だったし、ノートに色々書くときボールペン使ってけど、インクが切れかけていたのを見たので」
「さすが、よく見てるね。ノートはもう書く必要ないかもだけど、大事に使わせてもらうね」
「ええ、あともう一個あるんです。どうぞ」
「え? いいの? ……これは、バスボム?」
「はい。文音から聞いたんです。曜子さんはお風呂が好きだけど入院中はあんまり自由に入れないって愚痴ってたって。だからこれからのお風呂を少しでも楽しんでほしくて。いい匂いですよ。カボスとかすだちとかゆずとか」
「何それ。区別つかないよ。でも、ありがと」
最後に文音が買った初心者向けのマニキュアのセットを渡すと、僕が渡したもの以上に目を輝かせていた。どうやら前々から興味があったらしく文音に話していたが、文音は僕を出し抜くために僕には教えてくれなかったようだ。
「誕生日、文也君はちょうど一週間後だよね? 文音ちゃんは?」
曜子さんはニコニコと嬉しそうに訊いてくる。
「四月三日です。学校が始まってないから皆に祝ってもらえないって毎年嘆いてますよ」
「じゃあ来年は私たちで盛大に祝ってあげようね。ところで来週の文也君は何か欲しいものはある? 私があげられるものならなんでもいいよ」
「なんでも?」
その甘美な響きに体が反応し、曜子さんに体をグイッとよせると人差し指で鼻のてっぺんを抑えられた。
「もー。今絶対エッチなこと考えたでしょ?」
「……いえ」
「しょうがないねぇ文也君は。じゃあこうしよう。私が叶えられる願いならなんでも一つ叶えてあげるから来週までに考えておいて。ただし、お父さんが知っても怒らないことにして」
誠司さんが怒らない、か。日下部さんを消すためにキスすることまでは許してくれたから、これはたぶん大丈夫。でも誕生日の権利を使ってキスをするというのは少しもったいない気もする。だってさっきキスの練習に誘っていたし、お願いしなくてもそのうちしてくれそうだ。
そう考えると今すぐには何も浮かばない。曜子さんと恋人になれると考えただけで割と満足してしまっていて、特別なことは求めていない。誠司さんに怒られそうなことならたくさん思いつくのに。
名残惜しいがプレゼントを渡したら誠司さんと交代する約束だったので、明日一緒に登校することを約束して曜子さんの部屋を出た。僕がプレゼントしたものを抱えながら手を振ってくれる姿を見ると頬が緩む。多分僕は今、気持ち悪い顔をしている。
誠司さんは文子さんの仕事部屋の仏壇の前に座っていた。
「終わりましたよ、誠司さん。結局キスはしませんでした」
「そうか……本当に君がいてくれて良かった」
立ち上がって振り返った誠司さんの手元には一冊の大きめな本があった。表紙には中学校の名前が書いてある。
「曜子さんの卒業文集ですか?」
「うん。久々に読みたくなってね。他にもアルバムとか色々見ていたんだ。これから曜子との日常が戻ってくると思うと、妙に緊張してしまってね」
誠司さんは恥ずかしそうに文集を一瞥したあとそれを静かに本棚に戻し、僕に右手を差し出した。僕は右手でその手をしっかりと握る。
「ありがとう、文也君。君は曜子と私の恩人だ。曜子とこれからも仲良くしてくれるかい?」
「もちろんです」
がっちりと握手を交わして僕と顔を見合わせた誠司さんは文子さんの部屋を出て行った。これからは家族の時間。誠司さんの顔はいつも優しくて疲れていたが、この時ばかりは安心と喜びの涙であふれていた。
手持無沙汰になった僕は誠司さんが先ほどまで読んでいた曜子さんの中学の卒業文集を手に取った。勝手に見るのは悪いとは思ったが他のは見ないから許してください、と仏壇に飾られた文子さんと前の旦那さんの写真に心の中で謝る。
文集を開くと曜子さんのクラスのページの最初の方にクラスの人たちで色々なランキングを作ったページがあった。
【素敵な彼氏を作りそうな人ランキング二位 七海曜子】
おかしい、これは一位のはず。
ちなみに僕の中学校のクラスでも同じような企画があって、僕はシスコンランキング一位だった。
少し変わった文言のランキングが並ぶ中、曜子さんの名前はもう一つあった。
【将来サインの価値が上がりそうな人ランキング一位 七海曜子】
役者か小説家か、どちらかは分からないけれど中学のクラスメイトからはそういう評価を受けていたようだ。今の曜子さんは小説家を目指している。誠司さんの話では昔の曜子さんは役者を目指していた。中学卒業時の曜子さんはどちらだったのか、それは文集にしっかりと書かれていた。曜子さんらしいしっかりとしつつも可愛らしさがあふれる字で、文子さん、前の父親、誠司さんへの思いが四百字の原稿用紙一枚では足りないくらいに綴られている。
【私の夢 七海 曜子
先生以外誰にも言っていませんでしたが、私の母は作家の奥空文子です。以前図書委員会が作成した好きな作家ランキングで母が一位になった時はとても嬉しかったです。
ニュースにもなっていましたが、母は去年から病気で入退院を繰り返しています。ですがいつも笑顔で小説を書き続けています。私はいつも母のそばで宿題をしたり、本を読んだり、母と話をしたり、演技の練習をしたりしています。
私は私が小学生の頃に亡くなってしまった父の影響で役者を目指し始めました。そして父と母と母の作品が大好きです。
私の夢は、父が好きだった演技で、母の作品を世に広め、永遠に残していくことです。
母は私にも小説家を目指してもらいたいそうですがこればかりは譲れません。なぜなら新しいお父さんも母の作品が大好きだからです。母の作品が私たちの絆なのです。 】
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