どんなに辛い時もふと見上げれば美しい空が広がっている

みにぱぷる

どんなに辛い時も...

1


「盗難にはくれぐれも気をつけなさい」

 福田先生はそう締めくくり、終礼を終えた。それと同時に動き出し真っ先に家に帰って行くものもいれば、残って雑談をしている生徒もいる。

「早く帰りなさい」

 雑談している生徒をみかねて、先生はそう付け足した。

 浦田功は荷物を鞄に突っ込み、帰り支度を済ませる。何の意味もなく、靴の裏にこびりついた砂が気になって、手で払う。そうしていると、隣に座っている村木昭が話しかけてきた。

「帰ろうぜ」

 村木は浦田の数少ない幼馴染の一人だ。活発で、字が綺麗で、運動神経抜群、顔も良ければ頭も良いという完璧な人間で、当然、女子人気も高い。浦田は小さい頃に彼の家に行ったことがあるのだが、とても豪華な家で、嫉妬さえ覚えた。そんな完璧人間である。

 彼は両手にはめた手袋の砂を払い、鞄を担いだ。

「いいよ」

 浦田は素っ気なく返事をし、鞄を背負い、歩き出す。

「だれだろな、犯人」

 ざっざっと砂を踏み締める音と、秋風の立てる小さな風音。単調な音だが、なんだか心地の良い音だ。

「ん?」

 感傷に浸っていた浦田は、完全に村木の話を聞いていなかった。

「いやだから、盗難の犯人。これで四件目。全部財布が取られてるけど。犯人だれだと思う」

 浦田は半ば面倒くさそうに

「落としたとかじゃないの。ほら、ごちゃごちゃした今の世の中だしさ」

 と返した。どうでも良かったわけではないけれど、何だか上の空だった。

 その返答に呆れたのか、村木は退屈そうに道端に落ちていた金属片のようなものを蹴っ飛ばす。金属片は耳を裂くような甲高い音を立てて転がっていき、三度跳ねてどこかへ行ってしまった。村木は満足できなかったのか、近くに落ちていた石ころを手袋をはめた右手で拾って投げた。だが、どこかで引っかかったのか、石ころは綺麗な放物線を描かず、垂直落下し彼の足元で小さく跳ねた。

 聞こえてくる工事現場の爆音。新しく建物が作られ、すでにある建物の残骸が作り直されて生まれるこの爆音にどこか親近感と、明日への期待めいたものを勝手に感じ取り、浦田は明るい声で言う。

「だれが盗んだにしても、盗んだ人の気持ちもわかるし。おれらが考えることじゃないしな。おれらはもっと楽しいこと考えようぜ。家族と友達ともっと遊んで笑ってる方が楽しいだろ」

「そうだな。そういえば、これ。返し忘れてた」

 村木がそう言って鞄から取り出したのは以前彼に貸した本だった。スティーブンソンの宝島。浦田は、先週初めてこれを読んだのだが、冒険心を駆り立てる物語と、特徴的な登場人物、そして、そのそれぞれが抱えるもの、そういったテーマが刺さり、すぐに村木に勧めた。世の中にはこんなに面白い本があるのかと感銘を受けたあの瞬間から、浦田は家から十キロ近く離れた書店に、たびたび顔を出し、なけなしの金で本を買うようになった。家族がそれを少し嫌がっているのも知ってはいたが。

 村木と別れた後、浦田はとても罪悪感に襲われた。というのも、村木には父親がいない。それなのに、勢いに乗って彼の前で家族の話をしてしまったことが、彼を傷つけてしまったような気がする。彼の父親は「行方不明同然」の状態でいるらしい。幸い、三人の兄弟がいて寂しい思いをすることはない、と彼は言っていたが、本当はどうなのかはわからない。

 どことなく晴れない気分になって空を見上げた。雲がぽつぽつと見えるけれど、晴れの空。いつ見てもそれはそこにある。

「ただいまぁ」

 浦田は粗末な戸を開けて、元気よく家の中に上がる。居間では妹の浦田和子が宿題をしていた。

「あれ、和子、学校は?」

「学校は午前で終わり。ほら、午前午後の二部制だから」

 小学生の彼女から「二部制」という固い言葉が聞こえてきて少々面くらう。

「そういえば、そうだったな。完全な学校再開はまだかかりそうだな」

 ご時世的なものはどうしようもない。

「体調は大丈夫?」

「大丈夫。お兄ちゃんこそ大丈夫なの」

「見たらわかる通り、大丈夫。ご心配に及ばず」

 浦田はそう返しながら、鞄から宝島を取り出し、ぺージを捲る。だが、その手は和子に突っぱねられた。

「ちょ、なんでよ」

「お兄ちゃんも宿題しなさい」

 和子にむっと睨まれて、仕方なく鞄から宿題を取り出す。

「お母さんは?」

「買い物。夜には帰るって」

「了解」

 浦田は敬礼してにやりと笑った。和子は自分よりも子供っぽい兄に呆れながら、微笑み返す。

「早く、宿題やったら? 勉強ができないからはげるんでしょ」

「禿げてるんじゃなくて、坊主。あと勉強とはげるはげないは関係ない」

 浦田はそう言って和子の頭を小突いた。

「お父さんは今日は元気そう?」

「うん。仕事行ったよ、顔色も良かった」

 浦田の父は病弱で、数日に一回は仕事を休む。これまたご時世的なところはあるとはいえ、病弱で休みがちな人にはまだまだ「根性が足りない。しっかりしろ」と言われる世の中なので、父はたまにそのことに不満を漏らしている。まだまだ世間が、そういった時代の変遷に馴染んでいないのがよくわかる。


 その夜、浦田は嫌な夢を見た。ここ数日になって見るようになった悪夢だ。


 空き地で遊ぶ六人。その中には浦田も村木もいる。全員きゃっきゃきゃっきゃと笑いながら、じゃれあい、笑顔で遊んでいる。降り注ぐ日差しがまたその情景の明るさを演出している。

 突然場面が暗転し、真っ暗になり、そして、真っ赤になり、その赤がどんどん濃くなって、そして不気味な声が聞こえてきた文字に表せない異形の音の並び。悲鳴とも、悪霊の呪いの言葉とも取れる音。そこに重なって村木の声が聞こえてくる。

「逃げるんだ。逃げないと。殺される」

 浦田は振り返りもせず無心で走る。風を切る音と悲鳴が入り混じり、不協和音として耳元で騒いでいる。殺される。死にたくない。殺される。死にたくない。

 一緒に遊んでいた友達たちの悲鳴がどんどん小さくなって行く。彼ら(彼女ら)は死んでしまったのだろうか。

「逃げろ」

 村木の声が聞こえる。

「助けて」 

 両親の顔、そして妹の顔が浮かんでくる。助けて、殺される。助けて。脳裏に浮かんだ両親と妹は助けてくれるわけがない。浦田は必死で走ったが、必死が故に足がもつれてつまづいてしまった。あっと声を上げた時には浦田の体は地面に投げ出されていた。

 それに真っ先に気づいた村木は引き返してきて、右手を伸ばして、手を取って、浦田を引きずるようにして走りゆく。浦田は引っ張られながら、必死で自分の足で走ろうとし、その時、浦田の視界に確かにその姿は捉えられたのだ。浦田の仲間たち全員を葬り去った殺人者の姿を、確かに、その眼で。

 

 前回もそうだった。毎回ここで目を覚ます。ここより先はまるで映像がなくなってしまっているかのように夢には出てこない。しかし、浦田はこの時のことを確かに覚えているのだ。覚えていて、意図的にこの記憶に封印をしているのだと思う。この夢は何を意味しているのだろうか?


2 


 翌朝、悪夢にうなされたせいで、目元に隅ができ、げっそりした顔で登校した浦田を待っていたのは驚くべき続報だった。古文的に言えばまさに「あさましい」そのものである。

「五件目の盗難事件が起こりました。昨日の終礼後、井伊さんが報告してくれました。また財布が盗まれました。このクラスの誰かが行なっています。正直に名乗り出てください」

 教室がざわめく。

 福田先生の淡々とした声が、生徒全体を疑っているかのように聞こえ、浦田はいささか不愉快だった。そしてそれと同時に、この盗難事件の犯人への怒り、そして次は自分が被害者になるのではないかという不安も湧いて出てくる。ふと隣の村木の顔を見た。いつも通り、きりっとした男気ある顔だ。彼ならこの盗難事件の犯人を捕まえてしまうのではないかと思うぐらいの。

「では朝礼を終わりましょう」

 ざわめきやや砕けた空気になっていた場が一気にしんと静まりかえる。

「持ち物管理は徹底するように」

 先生はそう付け足し、朝礼を終えた。朝礼を終えるとすぐに教室がまたざわめく。持ち物管理なんてしても、盗られる時は盗られる、盗られない時は盗られない、そういうものだと浦田は思ったが。

 いつも通り、一時間目が始まったが、浦田はこの盗難事件のことが気になって仕方なかった。だれが盗んだのか、なんのために盗んだのか。

 ここで一緒に授業を受けているうちの誰かが盗んだのは確定だ。では、それは誰なんだ。

 被害者に共通点はあるだろうか...そう考えて浦田ははっとする。待てよ、被害者は全員金持ちだ。もしかしたら、そこに何か意図があるのかもしれない。

 そして、なんのためにそんなことをしたのか。人の物を盗む、少し前の時代ならあり得ることかもしれないが、今のような現代においてそのような野蛮な行動をする人間はそういるのだろうか。しかも中学生にもなって。

 もしかしたら。そう、もしかしたら精神を病んでいる人間がこの中に混じっていてそいつが無情に犯行に及んでいるのかもしれない。浦田は周囲を見渡す。そんな恐ろしい人間がこの中に混じっているのか。

   恐ろしい人間...(逃げるんだ。逃げないと)

    狂った人間、人を苦しめることを厭わず行う人間...(殺される)

 封をしたい記憶が蠢く。

 もう一度、浦田は周囲を見渡した。皆、平然とした顔で、真剣な顔つきで授業を受けている。怪しい人間はいない。寧ろ、授業中に平気できょろきょろしている浦田が一番怪しいぐらいだ。浦田はなんだかむしゃくしゃしてきて、足元に転がっていた小さなでこぼこした石ころを蹴った。


 二時間目になって、不意に、横に座る村木が何か紙を手渡してきた。浦田は先生の目を盗みながらそれを読む。

『ほうかご、にしだにはなしきこう とうなんのけん』

 ひらがなで書かれた、おぼつかない、ミミズのような汚い字はまるで、百年以上昔に、武士がこっそり文をやりとりしている時のようで、冒険心が刺激される。

 この手紙にある西田というのは、三件目の盗難事件の被害者の名前だ。おかっぱ頭で気の強い女子であることぐらいしか浦田にはわからないが、あまり関わりたくないタイプの女子だ。しかし、西田に直接話を聞く、これもまたシャーロックホームズの冒険のようで、浦田の冒険心が刺激された。

 結局、その日は一日中、そのことばかり考えてしまい、授業には集中できなかった。

 そして、終礼が終わるなり

「西田に聞きにいくぞ」

 と村木が半ば浦田を引きずるかのように強引に西田のところに連れて行った。

「ちょっと失礼、西田さん。財布が盗まれた時のこと詳しく話してくれないかな」

 荷物を片付けてそそくさと帰ろうとする西田を引き止めて村木がぐいぐい詰め寄った。

「突然何」

 西田は顔を顰める。

「盗みの被害に遭う可能性は俺らにもあるんだ。対策を取るためには、実例を知らないといけない。だから教えてくれ」

「じゃあ財布を持ってこないようにすればいいでしょ」

 真っ当な返答だった。でも、村木は諦めない。浦田はどこか違和感を抱き、ほおに手を当てた。

「でもそうはいかないだろ。しかも、犯人は財布以外も盗んでるんだ。頼む、聞かせてくれ」

 村木が何度も頭を下げ、平身低頭言うので、西田は面倒臭そうにしつつも、ようやく詳細を話してくれた。もしこれが村木じゃなくて浦田の頼みだったら、多分西田はそっぽを向いて帰ってしまっていたと思う。

「私は何も考えずになんとなくそこら辺を歩いてたの。そしたら、前から人が来てね。私は生憎ぼぉっとしてたからその人の顔を見てないんだけど、とりあえず、前からやってきた人が私にすれ違いざまにぶつかってきたの。肩と肩がぶつかり合う感じで。その時に...」

「ぶつかったのは右肩? 左肩?」

 浦田は口を挟んだ。西田は明らかに不愉快そうに顔を歪める。

「いいから続きを聞こう」

 村木は制したが、「ホームズかぶれ」した浦田はその質問に答えるように促す。

「左肩。こっちの左肩と相手の右肩がぶつかったの。で、その時に、相手が左手を伸ばしてきて、私の左ポケットから財布をくすねた」

「相手は左手を伸ばしてきたんだね、右手じゃなくて」

 浦田はまた口を挟む。

「そう言ったじゃん」

「でも、右手じゃなくて左手を伸ばしてくるって、不自然じゃないか。右肩で当たったんだからそのまま右手で盗めばいいのに」

「なんで盗っ人に助言してるわけ?」

 彼女はまた顔を顰めた。

「ちなみに顔とか背丈は覚えてないの」

「だから覚えてないって言ってるじゃん。背丈は普通。普通の中学生ぐらい」

「ちゃんと覚えとけよ」

 浦田はついそうこぼす。西田は明らかにいらいらしていた。

「これぐらいでいい? 私さっさと帰りたいんだけど」

「ああ、ごめん、じゃ」

 村木が謝り、西田は浦田のことをひと睨みしてから足早に立ち去っていった。西田がいなくなり次第村木が

「なぁ、お前馬鹿なのか」

 と呆れ気味に言ってくる。

「何が」

「根掘り葉掘り聞きすぎだ。失礼だろ。被害者の気持ちにもなれよ」

「別にいいだろ」

「俺らは本物の探偵でも警察でもないんだ。これはあくまで探偵ごっこだ。それを忘れないでくれよ」

 友人から説教のようなことをされるのは不愉快だったが、彼の言う通りだったので、浦田はすごすごと謝った。しかし、脳内ではこの盗難事件に関する様々な疑念疑惑が彷徨い、何重にも包装された真実がふわふわと漂っていた。

 その後寄った近所の安いラーメン屋で箸を持つ村木の左手が震えているのに、浦田は気がついた。


 家に帰ると、妹は昨日と同じく午前で学校を終えて、宿題をしていた。昨日と違っていたのは母と父も家にいたことだ。

「ちょっと今日は体調が」

 と説明したのは母で、父は和室に布団を敷いて寝ていた。

「うつるとよくないから、部屋には入らないように。今日はここに布団敷いて寝よっか」

 狭い居間で三人で寝るのは嫌だったが、これもご時世的に仕方ないか、と浦田は自分を納得させる。

「お前も大変だな、勉強」

 机に置いてあった教科書を適当に手に取って、パラパラと読みながらポツリと呟く。元の教科書の字が見えなくなるぐらいまでぐちゃぐちゃに書き込まれた教科書を捲るのは、まるで時の軌跡を辿っているかのような心地がした。

「お兄ちゃんもちゃんと勉強しなさい」

 妹からそう真っ当な注意を受け、浦田はしぶしぶ教科書を手に取る。

「今日って何日だっけ」

 浦田は小さくなった鉛筆を動かしながら尋ねる。母は

「十二月一日。学校で黒板の隅に書いてるでしょう」

 と説教のような口調で言ってきたので

「ご時世もあって、今は黒板は使ってないの」

 浦田はあきれたように言った。


 その晩もまた同じ夢を見た。


 空き地で遊ぶ六人。その中には浦田も村木もいる。全員きゃっきゃきゃっきゃと笑いながら、じゃれあい、笑顔で遊んでいる。降り注ぐ日差しがまたその情景の明るさを演出している。

 突然場面が暗転し、真っ暗になり、そして、真っ赤になり、その赤がどんどん濃くなって、そして不気味な声が聞こえてきた文字に表せない異形の音の並び。悲鳴とも、悪霊の呪いの言葉とも取れる音。そこに重なって村木の声が聞こえてくる。

「逃げるんだ。逃げないと。殺される」

 浦田は振り返りもせず無心で走る。風を切る音と悲鳴が入り混じり、不協和音として耳元で騒いでいる。殺される。死にたくない。殺される。死にたくない。

 一緒に遊んでいた友達たちの悲鳴がどんどん小さくなって行く。彼ら(彼女ら)は死んでしまったのだろうか。

「逃げろ」

 村木の声が聞こえる。

「助けて」 

 両親の顔、そして妹の顔が浮かんでくる。助けて、殺される。助けて。脳裏に浮かんだ両親と妹は助けてくれるわけがない。浦田は必死で走ったが、必死が故に足がもつれてつまづいてしまった。あっと声を上げた時には浦田の体は地面に投げ出されていた。

 それに真っ先に気づいた村木は引き返してきて、右手を伸ばして、手を取って、浦田を引きずるようにして走りゆく。浦田は引っ張られながら、必死で自分の足で走ろうとし、その時、浦田の視界に確かにその姿は捉えられたのだ。浦田の仲間たち全員を葬り去った殺人者の姿を、確かに、その眼で。


 浦田は布団から跳ね上がるようにして目を覚ました。またこの夢だ。両隣で母と妹が眠っている。二人はすやすやと気持ちがよさそうに寝息を立てている。

 この夢はなぜこんなにも付き纏ってくるのだろうか。まさか、学校で起こっているあの盗難事件と何か関係があって、夢が暗示してくれている? そんな考えも浮かんだが馬鹿げた考えだとすぐに否定した。夢はあくまで夢だ。

 しかし、この夢に対して何か気にかかるところはある、ような気がするのだ。

 不意に恐ろしい疑問が浦田の頭を掠める。あの日、たくさんの人間を殺したあの殺人鬼は次なる殺人を行おうとしているのだろうか。浦田が小学生だったあの日の、あの忌まわしい記憶が今になって蘇るのは、そういった虫の知らせのようなものなのだろうか。

 いや、そんなわけがない。浦田は首を何度も横に振る。「そんなことあってはならない」。

 浦田は結局その日一晩中寝付くことができなかった。


3

 

 翌日も盗難事件の被害は出た。流石に学校側も対策に焦っているようで、学校に金目のものを持ってくるなと福田先生からお達しがあった。しかし、金目のものを持ってこないようにしても、文房具などで金目のものを持ってきてしまうことはあるだろうし、そもそもこの盗難事件の焦点はそこじゃない気が、浦田にはした。寧ろ、この事件を起こしたこの事件の犯人を早く見つけ、その生徒の心の闇を取り払ってあげることが先決ではないかと。だが、そんな偉そうなことを教師に訴えるわけもなく、浦田は今日も授業中ひたすら盗難犯のことを考えた。

 浦田がこの事件のことを気にする理由の一つ。単純なシャーロックホームズかぶれ。シャーロックホームズの冒険、主人公のシャーロックホームズの鮮やかな推理と格好良さに憧れてしまったのだ。幼いかもしれないが、中学生になってやっとまともに本を読むようになったこともあって、仕方がない。

 そして、脳内ではまだあの記憶が疼いていた。

 

 授業が終わり、いつも通り村木と帰路に着くと、不意に村木が妙なことを言ってきた。何だか声色も妙に昂っていた。

「浦田は今の生活に満足してるか」

「はあ?」

 浦田は訳もわからず、間の抜けた返事をする。

「昔より今の方が幸せだ。昔は今よりもっと苦しかった、なんて大人は言うだろ」

 浦田の言いたいことがいまいち見えてこない。

「そいつらに言ってやりたいよな。お前らは好景気を経験してんだ。その好景気は長くは続かず、すぐにどん底に落ちたが、それでも好景気を知ってるんだ。幸せな時期を経験できてるんだ。俺らは、好景気も経験できてない、最高に不幸せだ、とな」

 そう言って彼はからからと笑った。浦田は足を進めながら、彼の方を見つめる。彼はいつもにも増して大人びて、立派に見えた。それが少しばかり悔しくて、浦田は反論する。

「でも、俺らは今から好景気を作ってく世代だろ。わくわくするし、未来のためになる。長続きする最高の景気を作って、日本を世界の中心的な強力な国にする、それが俺らの役目だろ」

 半分は本音、半分は詭弁だ。しかし、この雑然と放った言葉が彼をムキにさせてしまった。

「何が世界の中心だ。愛国主義の強い日本人が多い限り、日本が変わるはずがない。日本は変わらないといけないんだ。今のままじゃこの国際社会で取り残されてしまう。俺は愛国的な考え方は嫌いだ。別に日本は嫌いじゃない。だけど、貧富の差もあり、苦しんでいる人が多くいる、この状況を打開せずにどうやって日本が世界の中心になるんだ」

「ヒトラーの演説かよ」

 浦田は咄嗟にそうツッコミ、村木はまた乾いた笑い声を上げた。彼がふざけているわけでないのはわかっていたが、このままこの会話を続けるのは、浦田には躊躇われた。自分に参入していい会話ではないように思えたからだ。

 工事現場から聞こえる耳をつんざくような大きく、そして悲鳴のような異音。異音...悲鳴...ああ、また、浦田の脳裏に...(助けて)蘇る。

「つーか、福田先生もちゃんと対策してんのかな」

「あー盗難ね」

「対策が行き届いてない証拠だよな、こんな併発するの」

 と村木は口を尖らせる。

「俺らで犯人捕まえるか?」

 浦田は冗談混じりにそう言った。しかし、村木は真剣な表情で

「あり」

 と言うから、浦田は慌てて

「俺らには無理だよ。お前は賢いからもしかしたら犯人を突き止められるかもしれないけど」

 と取り消した。工事現場から漂ってくる鉄分やガスの匂い。そして、工事現場で働く男たちの汗の匂い。どれも強烈に鼻に刺さったが、どこか愛着の湧く匂いだ。

 外国人の男が横を通りかかった。アメリカ人だろう。それを見た時、また頭のどこかで記憶が蠢き始める。浦田は思わず頭を抑えてうずくまった。外国人の男が不思議そうにこちらを見ている...(助けて)、村木が大丈夫かと駆け寄る...(逃げろ)、あの日見た殺人鬼の顔が脳内で復元され、再現されていく。あの日、浦田の友人らを葬った、トラウマの殺人鬼は...。

 いや、もしかして。浦田ははっとして足を止めた。

 この一連の財布泥棒は...犯人はお前だったのか。なぜ今までずっと繋がらなかったのだろう。単純なピースが脳内で一つずつ形成され、ハマり、パズルが完成されていく。

「なるほど」 

 浦田は思わず声を上げた。一歩前を進んでいた村木が振り返る。

「アーユーオーケイ?」

 通りかかった親切な外国人も心配して浦田に駆け寄ってくる。浦田はそれを無視して、村木に向かって指を差した。

「犯人はお前だろ、村木」

 村木は一瞬も戸惑うような表情を浮かべず、曖昧な笑みを浮かべ、寂しそうに空を仰いだ。何も言葉を発さなかったが、少なくとも彼は否定しなかった。


3


「そうだろ、村木」

 浦田は再度はっきりとそう言い、確認する。事実かどうかの不安というより、彼の返答を待つ居心地の悪い間を埋めるために発した言葉だった。外国人の男は、空気を察してか、黙って二人の方を見つめていた。彼は別に立ち去ってもよかったのだが、二人の間にただならぬ重たい空気が流れていて、一触即発であることは言葉がわからないなりに察したのだろう。殴り合いが始まった時に止められるようにその場に留まっているかのようだった。

 しばしの沈黙の後、村木は徐にこう言った。

「全部俺がやった」

 軽い言葉だが、その言葉が意味するところは重たかった。

「全部俺がやった。いつ気づいたんだ」

「前から幾つか違和感を覚えてて、それを解決させて行った先に残っていたのが」

「俺だったのか。あー、証拠残しちゃったかなぁ」

 村木は吹っ切れたように笑う。

「証拠というか違和感が幾つか。原因はお前のそれ」

 そう言って彼の手元を指差した。彼はなるほどと頷き、また笑う。

「お前が終始外さずにずっとつけてるその手袋。実は前からちょっと違和感があったんだけど。まだ十月頭なのに、いやお前は八月末からずっと手袋をつけてる。真夏に手袋? 流石に違和感。でも、特に何も思わず流してた。でも、不意に考えてみて分かったんだ。お前の右手袋の下、そこにはお前の右手はないんだろ」

 村木は右手を押さえた。そして、意を決したかのように右手につけた手袋を取り始めた。浦田は慌ててそれを止める。

「別に俺は証拠を求めてるわけじゃないさ。わざわざ見せなくていい」

「ありがとう」

 村木は友の配慮に最大の感謝を述べるように頭を下げた。

「お前の右手は欠けてるんだ。何があったかは問い詰めないけど、なにかがあって、欠落した。それを隠すためにお前は手袋をつけていたんだ」

 先程まで二人の様子を見守っていた外国人は気付けば立ち去っていた。二人の中学生が路上で立ち止まり、異様な空気の中で会話していることに、街ゆく人も違和感は抱いただろうが、皆、それを放って自分の目的地へと往来する。

「そして、財布泥棒の犯人は片手が欠落している人である、そう気がついたきっかけは、二件目か三件目の、西田が路上でスリのような形で盗みに遭った事件。西田は街路を歩いているところを前方から来た男にぶつかられ、ぶつかった際に財布を盗られたと言っていた。気づいて振り返った時には、相手は走り去る途中で、背中から中学生ぐらいだということはわかったけれども、相手の顔を見ていなかったから誰が犯人だったかは分かっていない」

「説明しなくてもわかってる。俺が犯人なんだから」

 村木は皮肉の籠った苦笑いを浮かべる。

「西田は、自分の左肩と相手の右肩が当たり、その時に相手の左手が伸びてきて自分のポケットに接触した気がして、慌ててポケットを確認したら財布が盗まれていたと言ってた。この状況はとても変だ。だって、犯人は右肩で相手にぶつかったのにわざわざ左手を伸ばしていって、財布を盗んだんだ。右肩がぶつかったんだからそのまま右手を相手のポケットに突っ込んで盗みを働く方が絶対楽だ。これをずっと考えてて、俺はこの可能性しかないと思った、犯人は『自分の右手が使えない状態にあることを忘れていた』という。そして、俺は前々からお前の動きにも違和感を覚えていたんだ。俺はあいにくお前が以前、左利きだったか右利きだったかは覚えていなかったから、お前の利き手が右から左に変わっていることには気づかなかった。でもお前は必死で左利きに慣れようとしたのだろうけど、そうは簡単にはいかなかった。まず違和感があったのはお前の字だ。へなへなとしたミミズのような汚い文字。以前、お前の字を人生で見たことあるわけではないけれど、お前のような几帳面なやつが汚い字を書いてるのは明らかな違和感だ。他にも、例えば、食事中のお前の食べ方にも結構違和感があった。箸使いがぎこちなかったこととかな。それも無理ない。外国人が箸を使いこなすのに苦労するように、右利きの人が左利きで箸を使おうとするとやっぱりある程度の訓練が必要なんだろう、結構な苦労を強いられる。他にも、そうだなぁ、例えば石ころを投げるのも一苦労だろうな」

 浦田は道端に落ちていた手頃な石ころを、利き手と反対の左手で拾い、振りかぶって投げた。しかし、その石ころは不恰好にも一メートルも飛ばずに地面に着地した。村木は顔こそ笑っていたが、感傷的なものを感じさせる目つきでその石ころを見つめている。彼が今何を考えているのかは浦田には見当もつかなかった。

「左利きに慣れていないこの学校の生徒が犯人。そして、お前に対する疑惑。この二つが明確になってきた時、お前が犯人であるような気がぼんやりとし始めた。けど、確信はできなかった。だって、お前が犯人である動機が全く見当たらないんだ。お前の家が裕福であることからも、貧しさが動機とは考えずらかったし、優等生の塊のようなお前が、短絡的に盗みを働くなんて考えられない。けれども」

 浦田は一度そこで言葉を切った。そして、村木の目をじっと見つめる。片手を失っていたという事実よりももっと深く、もっと重い事実を、浦田は語ろうとしていた。安易にそれを語るのは憚られ、村木の反応を伺う。村木の頬がふっと緩んだ。まるで、続きを言わなくてもお前の予想通りだ、と告げるように。

 浦田は「その部分」を省いて、続きを語る。

「で、お前の右手が欠けた理由なんだが」

 さっきまで二人の間を漂っていた重たい空気はもう薄れていて、二人は談笑するようにして続きをしゃべる。この後、多大な償いが村木を待っているのは二人にとっても明確だったが、この空間は一時的にそのことを忘れさせてくれた。

 さっきの外国人の男が戻ってきた。二人の様子が心配で戻ってきたのだろう。二人の表情が穏やかであるのを見て、男は微笑んだ。

「お前の右手が欠けたのは、あの日なんだろう。俺らの友達が...殺された、あの」

 比較的徐に浦田はそう言った。

 その瞬間か、あるいはそう発する少し前からか。突然、村木は興奮した様子で、ぜえぜえと過呼吸になり、鼻息荒く、肩を上下し始めた。突然の様子の変化に浦田が唖然とする中、村木は何を思ったのか、先程の外国人の男に馬乗りになった。村木より数倍体の大きい男だったが、不意を突かれ、村木に地面に押し倒された。村木は狂ったように叫ぶと、男の顔を力一杯殴った。呪いの言葉を吐きながら、村木は男を殴る。周囲を通りかかった人はそれを止めようとはしたものの、迫力のある村木の覇気に押されて、誰も止めることはできなかった。その時になって浦田は「あの日」のことを言い出したことを後悔した。しかし、配慮のない行動だと悔いたのは遅かったのかもしれない。

 村木は何度も男を殴った。やがて、間の抜けたような、場に似合わない滑稽な音がして、男は抵抗するのをやめた。村木は抵抗しなくなってからも、男のことを殴り続けた。終始、村木は「お前のせいで」と繰り返していた。浦田は止めようともせず、村木のことを見つめることしかできなかった。村木の気持ちを汲み取ると、村木を止めることは憚られたからなのかもしれない...。


 1945年(昭和20年)10月1日、一人の善良な日本人少年がアメリカ人の男を殺した。戦争で父親を失ったことによる怨みが原因だった。


4


 浦田は自分のことをつくづく幸せだと思ってしまう。それは自分の親友の不幸せとの比較で思い起こされる感情なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 浦田家は第二次世界大戦の被害をあまり受けなかった。幼少期を過ごした家は壊れ、叔父は戦争で亡くなったが、父も母も妹も、元気に暮らしている。

 父は戦争に行っていない。病気がちで貧弱だった体のおかげで戦争に行かずに済んだのだ。そのおかげで、家は失っても、一家の大黒柱を失わなかったことで疎開地から帰ってきてから、一家は立ち直ることができた。とはいえ、金には恵まれていないので、何とか手にした家は小さく惨めだが、しっかりとした家があるだけ断然マシだと思う。

 一方の村木家は戦争によって甚大な被害を受けたようだった。裕福な家庭で、三人兄弟と共に暮らしていた村木であったが、戦争により、父が徴兵され、帰ってこなかったことをきっかけに状況は一変した。父の生死がわからず、精神をおかしくしてしまった彼の母は、まともに一家を養っていけるだけの稼ぎを得る仕事に就けず、しかし、三人兄弟は全員戦争を生き抜き、育ち盛りになっていた。まともな家はなく、雨漏りの激しい、家とは言えないような小さな住処。戦争孤児とならなかっただけマシだと村木は自分を励ましたが、そんな励ましが何の為になるのだろうか。

 村木は長男として、何か仕事をして少しでも稼がなければと思っていたが、村木にそれは難しかった。というのも、村木は戦争で右手を失っていたからだ。疎開先で、空襲に遭い、火事に巻き込まれ、右手を火傷したのだ。損傷は激しく、彼の右手は切り落とされた。もし、優秀な医者が疎開先にいれば治療が施されていたのかもしれないが、名医は皆、戦医として駆り出されていた。

 右手を失い、力仕事で稼ぐのは難しく、弟たちも学校に行かず、簡単な仕事で必死で金を稼いでいたが、それでは生活していくのには厳しすぎる。追い詰められ、そして、盗みに手を染めた。

 戦争が終わった後の日々は、浦田にとって戦争が始まる以前、いやそれ以上の楽しい日々だった。その一つの要因が海外の文学作品に触れたことだろう。戦争のせいで、海外の文学作品を読む機会がほとんどなかった浦田は、「宝島」や「シャーロックホームズの冒険」といった文学作品に触れるのが新鮮でとてもいい刺激になった。

 いつしか村木は学校の帰り道、自分の親世代についてこんなことを言っていた。

「お前らは好景気を経験してんだ。その好景気は長くは続かず、すぐにどん底に落ちたが、それでも好景気を知ってるんだ。幸せな時期を経験できてるんだ。俺らは、好景気も経験できてない、最高に不幸せだ」

 浦田はそうは思わない。確かに自分らの親は第一次世界大戦がもたらした景気で甘い汁を吸っていた。だが、二次大戦で真っ平になった日本をもう一度作り直す、その工程こそが一番楽しくワクワクするではないか、と思ってしまうのも「宝島」などの冒険小説に影響されたせいだろう。今、空襲で焼け野原になった日本に新しく建物を建てるべく方々で工事が進んでいる。その工事のやかましく耳をつんざくような音も、どこか浦田をワクワクさせてくれるのだ。

 ただ、学校教育は逼迫しているようだった。何より、空襲で校舎がないのだ。浦田の妹和子は墨塗りにされた教科書を片手に学校に通っているが、彼女の通う小学校は校舎が半壊し、教師数も足りないということで、午前午後の二部制で何とか学校を回している。大変な現状ではあるが、ご時世的に仕方がない。このご時世という万能な言葉を学んだのも、戦争が終わり文学作品に多く触れ始めてからであることはささやかな皮肉だと浦田は時々思う。


 空き地で遊ぶ六人。その中には浦田も村木もいる。全員きゃっきゃきゃっきゃと笑いながら、じゃれあい、笑顔で遊んでいる。降り注ぐ日差しがまたその情景の明るさを演出している。

 突然場面が暗転し、真っ暗になり、そして、真っ赤になり、その赤がどんどん濃くなって、そして不気味な声が聞こえてくる。文字に表せない異形の音の並び。悲鳴とも、悪霊の呪いの言葉とも取れる音。そこに村木の声が聞こえてくる。

「逃げるんだ。逃げないと。殺される」

 浦田は振り返りもせず無心で走る。風を切る音と悲鳴が入り混じり、不協和音として耳元で騒いでいる。殺される。死にたくない。殺される。死にたくない。

 一緒に遊んでいた友達たちの悲鳴がどんどん小さくなって行く。彼ら(彼女ら)は死んでしまったのだろうか。

「逃げろ」

 村木の声が聞こえる。

「助けて」 

 両親の顔、そして妹の顔が浮かんでくる。助けて、殺される。助けて。脳裏に浮かんだ両親と妹は助けてくれるわけがない。浦田は走るが、足がもつれてつまづいてしまった。村木は右手を伸ばして、そんな浦田の手を取って、浦田を引きずるようにして走りゆく。浦田は引っ張られながら、必死で自分の足で走ろうとし、その時、浦田の視界に確かにその姿は捉えられたのだ。浦田の仲間たち全員を葬り去った殺人者の姿を、確かに。空を飛ぶアメリカの戦闘機に乗る見慣れない外国人の顔が点のような小ささで。非情に爆撃をし終え、去っていくその姿を。その眼で。

 家族の顔がまた思い出される。言いつけに逆らって隣村に遊びに行った自分たちがどれだけ愚かだったか、今になって後悔する。

「勇がいない! 勇」

 そう声を上げたのは村木だった。勇というのは村木の一つ下の弟だ。さっきまで一緒に逃げていたような気もするのだが。

「ちょっと探してくる」

 村木はそう言ってすぐに引き返していく。村木が突然手を離したので、浦田はバランスを崩しつつすぐに体幹を取り戻し、振り返る余裕もなく走る。背後からは村木の悲痛な叫びが聞こえてくる、そしてそれを煽るように無情な防空警報の音と、家が燃える嫌な音が。

 段々聞こえてくる村木の声が小さくなってくる。心配な思いはあったが、浦田は何より自分のことを心配して走る。とにかく、前へ。次の空襲が来るのかもわからないが、恐怖と不安と共に走る。


「夢、だよな、そりゃあ」

 浦田はまだ目が覚めきれないままに小さく呟いた。

 この夢を最初から最後まで見るのは初めてで、授業中に夢を見るほどぐっすりとうたた寝してしまうのも初めてだったので、浦田は不思議な気分だったが、どこかそこには不安感よりも安心感があった。 

 目を覚ました浦田は椅子に座り机に向かう。教卓ではいつも通り福田先生がチョーク片手に、眠気を誘う授業を続けている。いつもと変わらない光景。戦争が終わって取り戻すことができた日常。

 ただ、一つだけ変わってしまったのは。

 隣の席には村木はいない。今、村木がどこにいるのかはわからない。村木一家の居場所もわからない。

 盗難事件は当然終結した。被害者の金は返っては来なかったが、被害者は皆金持ちで、痛くも痒くもない様子だった。そもそも、戦後で金に苦しむ人が多い中、財布に自分のお金を入れて生活できている時点でたいそうな金持ちである。浦田にはそんな生活はできない。

 だが、皮肉にも戦争のおかげで何かが欠けても日常生活に違和感を覚えなくなってしまった。村木がいなくなったことにここまですぐに慣れてしまった自分は不気味で仕方がない。

 まだまだ復興の予兆は見えず、仮設住宅が焼け野原の上に並び、幸運にも自宅のある浦田だが、母は闇市への買い出しに忙しくし、父は必死で一家を守り抜くべく、弱々しい体に鞭打って働いている。なんだかそこには日本人の意地のような島国根性のような汗に輝く淡い光のような、眩しいものが感じられた。

 学校の校舎が再建されるのに後何年かかるだろうか。二、三年、いや十年近くかかるかもしれない。だが、この校舎が再建された日、浦田はまた息を吹き返した美しい都会の街並みを見ることができる気がした。

 不意に上を向いて、真夏のように降り注ぐ季節外れの太陽を仰ぐ。

 戦前、授業中に天を仰いでもそこに広がるのは上の階の床だけだった。しかし、今は空が見える、晴れ渡った涼しげな空が。

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どんなに辛い時もふと見上げれば美しい空が広がっている みにぱぷる @mistery-ramune

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