第20話 救済の光に包まれて
闇の中で、雫が1つ落ちて波紋を生んだ。不思議と音はない。ただ空間が歪んだだけかもしれない。
すると虚空に、懐かしい人物が浮かび上がった。
――リンタロー、適性試験の結果はどうだった?
孤児だった僕を引き取ってくれた叔母さんの、問いかける声はいつも優しい。声色も穏やかだ。僕もある時期までは、彼女を心から慕っていた。
――はぁ? 兵士の適正ナシだって? どういう事よそれは! テメェを食わせんのに、いくら掛かったと思ってんだい!
慈愛の笑みが鬼の形相に変わる。身寄りのない僕を育ててくれたのは、情や血縁が理由ではなかった。僕を外征部隊(アームズ)に入隊させて、支度金や給料を横取りしようと企んでいたらしい。
僕は書類落ちしてしまったので、意図せず自動的に企みを防いだ。しかし同時に、身一つで追い出されることにもなった。
――見てみろよ、あのガキ。貧乏人が物欲しそうな顔してやがる。
――うわぁキモッ。人間、あぁなったらお終いじゃん。
何の後ろ盾もない僕は、隙間仕事に従事するしかなかった。ボロを着て路地裏で野宿して、辛うじて合成食にありつける。食事と言えるかも怪しい味気ない物を噛みしめる、そんな毎日だった。
心無い人達には嗤われた。そんな奴に限って身なりが良く、大抵は派手な女を連れていた。僕に勝(まさ)っている点など1つもなく、その事実が、自尊心を果てしなく傷つけた。
――ありがとう根須くん。助かるなぁ。
お前まで出てくるのか浦城。しかし胸にくるものは何もなかった。今にして思えば、この容姿のどこに見惚れたんだろうか。
張り付いた笑顔は不気味で、前かがみになる仕草もあざとくて不快だ。大きく黒目がちな瞳は猛禽類を思わせるし、肉質な体つきも生命力が強すぎて違和感が凄まじい。そもそも、何層にもわたって厚塗りした化粧の臭いが強すぎる。それは富の象徴と言えなくもないが、不自然の方が勝っていた。水鳥は化粧などなくとも美しい。
さよなら。僕が無機質に言うと、浦城は霞のように消えた。すると、あとには何も残らない。無明の闇が広がるばかりだった。
「そうだよ、世の中こんなもんさ。僕は生まれるべきじゃなかった。生きてたってロクなもんじゃない」
そう呟くと、急に目眩が強くなり、意識が薄れゆく感覚を覚えた。世界が歪むのが分かる。暗闇であるのに、グニャリと、条理か物理法則かは分からないが歪みを生じていた。
終わる。消える。すべてが失くなる。それは救いなんじゃないかと思う。貧者の救済。僕のような弱い存在にとって、死は救いだと言えた。
ちっぽけな努力が何になる。何を手にする事ができるのか。運命の荒波を前にしては無力。暴力的な流れに押し流されるだけだ。ならば期待など持たずに、命を投げ捨ててしまった方が楽だろう。
「苦しまずに死ねるなら、それでいい。そっちの方が幸せだよ。暗闇の中で死ぬとか、もうお似合いじゃないか」
妄想だが、僕の身体も闇に飲まれているのでは、と思った。身体の炭化した部分が、その領域を広げているのではと。実際、右腕の感覚を失くしたはずが、肌に小さな刺激を感じる。しかし、無明の闇が見せるものは何もなかった。真相なんてどうでもいい。死ねば土に還るだけだ。
そう、大地に戻るべき時が来たんだ。僕が、深いところの何かを手放そうとした。しかしその時。雫がいくつも滴り落ち、無数の波紋を生みだした。
現れたのは誰か。すぐに理解した。
「康太、縁里、村長さん……」
それだけじゃない。早見鳥夫妻にタネばあさん、他にも見知ったゾンビが大勢現れた。
それらの群衆がおもむろに割れた。そこから1人の少女が姿を見せた。
「望海……ちゃん?」
「行こうよ、リンタローくん!」
眩い笑み、差し出された手。僕は拒絶しようとする。そっちには行けない。消えゆく僕には関係ないんだ。
しかし、想いとは裏腹に、僕の右手が反応する。震える指先が望海の手のひらに触れた。そして繋ぎ合う手と手。強く握られたので、すかさず僕も握り返す。
出会った時と何ら変わらない。僕の手は、干し柿の感触に包まれた。
「さぁ、走るよ!」
望海が曇りなき声で言う。そして、僕の手を引っ張った。
すると辺りの闇が一斉にはけていった。そうして目にした光景が、僕の白濁した瞳を果てしなく魅了した。
「空が、こんなにも……!」
見上げれば青空、白い雲は雄大。山を彩る木々は豊かで、秋の陽気に応えて美しく色づく。それだけじゃない。草花の濃厚な香り、せせらぎは耳に心地よく、鳥のさえずりも重なって甘美な二重奏を奏でた。
世界はこんなにも美しかった。僕が知らないだけで、途方もなく広かった。防壁に囲まれたエデンでは何一つ知る事のなかった物が、ここでは当たり前のように転がっている。
「望海ちゃん、僕は――!」
前を走る背中に声をかけた。望海は振り返らない。どこへ誘(いざな)おうとしているのか分からないまま、ひたすら走らされる。渓谷の脇を通り抜け、森の道に入った。
そこで駆け続けていると、やがて付近の景色が白んでいった。いや、僕の瞳が眩しさに負けているのだ。前方できらめく光はみるみるうちに輝度をあげていく。
あまりの光量にまぶたを閉じた。
「う……。ここは?」
ピントの合わない視界に、誰かの陰がある。人の顔だ。渇いて歯の上に張り付いたような唇が、わなないているのが見えた。
「リンタローくん……?」
望海か。声を出そうとして、それよりも早く、望海が僕に覆いかぶさってきた。頬に柔らかな感触と、鼻腔にはリンゴの腐った匂いが充満した。
「良かった、良かった! もうお別れだと思ったよ〜〜!」
「えっ、なに、なにごと!? ともかく離れて……」
「みんなに教えてあげなきゃ!」
望海は忙しなく立ち上がると、遠くに叫んだ。「もう大丈夫だよ、目が覚めたから!」
すると、入口の方からどやどやと大勢がやって来る。見知った顔ばかりだが、頭に巻いたはちまきと、そこに添えた稲穂が異様だった。
「根須様! あぁ良かった、お目覚めで!」
村長が僕の枕元で膝をついた。神妙そうな顔つきで、いつもよりシワが深く見えた。
その隣でタネばあさんも腰を降ろした。そして、真っ黒な歯を見せびらかせて笑う。
「だから言ったべよ、招魂の儀式はよう効くってよ」
「タネおばあさん。儀式ってなに?」僕は揺れる稲穂を見つめて言った。
「皆で輪になって踊るんだよ。そして念を込めるんだべ、念を。オメェさんがこの世を諦めて消えちまわねぇように、帰らんで〜〜帰らんで〜〜って引き止めたんだわ」
「そうまでして、僕の事を……?」
大人たちでひしめく間を、小さな陰が抜け出してきた。康太だ。遅れて縁里も顔を見せてくれた。
2人ともニッコリ笑いながら、僕が横たわる藁の傍に立った。早く元気になれよと、小憎らしい声で言う。そんな彼らの頬は濡れて光っていた。
「ありがとう、みんな。僕を助けてくれたんだね」
「オメェはもう村の仲間だっぺ。仲間は死なせねぇし、見捨てもしねぇ。一蓮托生だわ」タネさんは事も無げに言った。僕は、自分の口元が持ち上がったのを感じた。
「うん、そっか……」
「ともかくよぉ、オメは絶対安静だ。望海、面倒見てやんだぞ」
「もちろん、任せて!」
望海が快諾すると、やって来た村人たちが立ち去っていった。村長も去り際に「どうぞお大事に」と言い残した。
しかし子どもたちは、ここから離れようとしなかった。
「望海姉ちゃん! ボクも世話する!」
「アタシもやりたい、手伝わせて!」
「あのね。アンタたちは外。2人で遊んできなさい」
「ええ〜〜!? 姉ちゃんだけで根須兄ちゃんを独り占めかよ! ずるいぞ!」
「ねぇ康太、こういうのは約得って言うのよ。アタシ知ってんの」
縁里の言葉で、青白い望海の頬に赤みがさした。
「縁里! そんなんじゃないから、これは真面目な看病なの!」
「嘘だぁ、絶対喜んでるよ〜〜嘘つき嘘つき」
煽る康太に、望海がとうとう立ち上がった。
「うるさい! とにかく外に行きなさい!」
「うわぁい鬼ババが怒ったぞ、や〜〜いや〜〜い」
「ねぇ康太。鬼ババってね、ヨモツシコメとか言ったりするんだよ。アタシ知ってんの」
「誰が鬼ババだって!?」
「わぁい逃げろ逃げろ〜〜ぃ」
「戦略的撤退よ〜〜」
「待てやコラァーーッ!!」
煽り散らかして逃げる子どもたち、それを追いかける望海。その姿を、僕は小屋の中で寝転びながら眺めていた。
「帰ってきたんだなぁ、この村に」
何気なく呟いた言葉だが、ふと気づく。僕は『帰ってきた』と言ったのか。
「もしかして、無意識的に故郷だと認めたのかな。この村の事を……」
村人たちは生業に忙しいようだ。稲を刈るとか、野菜を収穫だとか、野良仕事に精を出していた。
そんな中を、さっきの3人が追いかけっこをしていた。その「子守り」は、タネばあさんがカミナリを落とすまで続けられるのだった。
のどかな光景だ。そう呟いては、ゆるやかに過ぎ去る時間を、藁の寝床で噛み締めた。
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