血涙

六散人

【01】

「私死んじゃうの?死にたくない」

消え入りそうな声でそう言って、アヤミは訴えるような目で俺を見た。

頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、以前の明るい笑顔はそこにはない。


俺はアヤミの瘦せ細った手を握りしめた。消え入りそうな温もりが伝わってくる。

後ろで彼女の母親がすすり泣く声がしたが、ただ俺の頭を通り過ぎて行くだけだった。


その日アヤミは逝った。

俺は血の涙を流した。


――本当に血の涙なんて出るんだ。

声も立てられずに泣きながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。


その日から、俺は空っぽになった。

そしてその空虚に酒を流し込むようになった。

大学にも行かず、日がな一日部屋に籠って、ぼんやりと過ごす。

そして時折思い出しては、酒を呷った。


友達が心配して携帯にメッセージを送って来てくれたようだが、俺が見もしないので、やがてそれも来なくなった。

遠くに暮らす親には何も言っていないので、おそらく俺の今の状況は知らないだろう。


元々、あまり頻繁に連絡する方でもなかったし、共働きの両親は毎日多忙で、学生とは言え、成人した息子のことを心配する余裕もなかっただろう。


このままでは大学もやがて馘になるだろう。

その前に生活が立ち行かなるのは目に見えていた。

これまでは親からの仕送りと、バイトの稼ぎとで、かつかつの生活をしていたが、今はバイトにも行っていない。]


だが、そんなことはどうでもよかった。

このまま野垂れ死にするのも悪くないと、酒で濁った頭で考えていた。

親不孝だな――と考えなくもなかったが、それも俺の空虚の中に、瞬く間に飲み込まれて行った。


ある日、そんな生活は、突然終焉を迎えた。

酒が切れたので、コンビニに買い出しに出た俺は、道を歩いていて二人組に絡まれたのだ。


何故絡まれたのか、思い出すことも出来ないが、多分肩がぶつかったとかの、どうでもいい理由だったのだろう。

相手の顔さえ思い出せない。


覚えているのは、殴り倒されて道に倒れた瞬間に、俺の中で真っ黒な何かが急激に膨らみ、暴発したことだけだった。

我に返った時には、相手は二人とも道に倒れ伏していた。

遠くでパトカーのサイレンの音がする。


俺がガキの頃から、空手を習っていたのが、相手にとっての不幸だった。

一人は怪我で済んだのだが、もう一人は現場に救急車が到着した時には、既に息を引き取っていたそうだ。

倒れた時の打ちどころが悪かったらしい。


俺は逮捕され、裁判にかけられることになった。

当然だろう。


拘置所に面会に来た時、母親は終始泣き続けていた。

父親は沈鬱な表情で、俺がぽつぽつと話す言葉を黙って聞いていた。

時々何か訊かれたが、何を訊かれたのかも、何と答えたのかも覚えていない。


拘置所に入って体から酒が抜けると、頭にかかっていた靄が解けて行った。

冷えた壁に背を持たせかけながら、自分の手の平を見る。

すると、アヤミの消え入りそうだった手の温もりが思い出された。

そして俺の空虚は益々膨らんでいった。


判決は懲役3年の実刑だった。

初犯であったことや、相手が先に手を出したこと、二人だったこと、そして俺が半分酔っていて正常な判断力が働いていなかったことが、情状酌量されたそうだ。


――情状酌量って何?そんなもん、いらないのに。

裁判官が朗読する判決を聞きながら、俺はそんなことを、ぼんやりと考えていた。

当然のことながら、俺は控訴せず、刑に服することになった。


決められたことを、ただ命じられるまま、黙々とこなす日々だった。

辛いとも苦しいとも思わなかった。

そんな感情が湧いても、すぐに俺の中の空虚に飲み込まれるのだろう。


3年はあっという間だった。

俺の中で時間感覚が欠落してしまっているのかも知れない。


出所した俺は、家族と絶縁することにした。

両親にも妹にもこれ以上迷惑はかけられない。

その程度の感情はまだ残っていたようだ。

それを聞いた両親は考え直すように言ってくれたが、頑なに拒絶する俺を見て、遂に諦めた。


出所後の俺は、保護観察官の紹介で、町工場に勤めることになった。

機械の部品を作ってメーカーに納める、従業員50人程度の小さな工場だった。

そこでの毎日は、刑務所の日々と大差なかった。

毎日決められたことを、指示されるままに黙々と行う。]


これからどれくらいの時間、同じことを繰り返していくのだろう。

不思議と死にたいという気持ちは湧いてこなかった。

生きるのと同様に、どうでもよかったのだ。


工場には色々な人間が働いていたが、俺は誰とも親しくせず、話し掛けられると返す程度の人間関係に終始していた。

多分周囲からは、変人と思われているだろうと、容易に想像できたが、それもどうでもよかった。

やがて周囲も俺の反応に慣れたらしく、仕事上で必要な時以外は、話し掛けて来なくなった。

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