いつもの朝(2)
「先週まで働いていた」とは読んで字の如く、今はもう働いていないのだ。
というのも、花子は中学を卒業したあと高校に進学するだけの金銭的な余裕がなく、近所のスーパーマーケットで働くことになった。
面接を担当してくれた当時の店長──袴田(はかまだ)さんは子供を雇うことに対し若干の抵抗があったものの、事情を汲んでくれ働かせてくれることになり、引っ込み思案だった花子の為に数人のパートさんを連れ、時々食事も奢ってくれた。
「花子ちゃん、いつかお金が貯まったら、遠慮せず辞めていいからね。世界は広いんだから。君にはもっと輝ける場所があるよ!こんなにいい子なんだから!」
退勤前にタバコ休憩をしている袴田さんと雑談していれば、話の終わりはいつもこの台詞だった。
「まぁもちろん、行くとこがないとか、ここが良い!って言うならいつまでも居てくれていいんだけどさ」なんて冗談めかしく笑うのも、定番の流れで。
花子の人生において、これ以上のいい人に出会うことは今後ないだろうと思うほど、とても世話になった人だった。
しかしそんな袴田さんが、定年間際に突如店長としての職務を退くことになった。
本人から詳しい理由を聞くと「体力の限界を感じた」と照れたように頭を掻いて教えてくれた。
寂しい気持ちを抱えつつも、労いの言葉をかけた花子に対し、袴田さんはこうも言った。
「次に来る店長ね、ちょ〜っと癖が強くてさ。俺の方からも色々あいつにはお灸を据えたもんだけど、もしちょっとでもアレ?と思ったら、すぐに違うところを探すんだよ」
この時からもう転職先を探しておけば良かったと、花子は後からひどく後悔した。
新しく入った店長──原口さんは、袴田さんよりも十歳ほど若く快活で、背が高く清潔感もあり、最初のうちは女性パートさんたちの憧れの的だった。
花子はそういったことに興味がなかった為、当たり障りのない会話をする程度の仲だったのだが、ある日原口さんからバックヤードの奥まで呼び出され、食事の誘いと共に連絡先の書かれた紙を渡された。
「君とはもう少し、面と向かって話をしたいと思っていたんだよ。なんだか僕たち、まだ距離があるような気がして」
不自然なほど白い歯を見せて笑った原口さんの表情が、何か含みのあるものに見えて花子は丁重にお断りをした。
袴田さんが「よーしみんな!今日は仕事終わったらいっちょ飯行くか!お腹空かせといてよ〜?」と腕まくりをして歩きながら聞かせてくれた言葉とは、違う意味を感じたからだ。
それから花子は、原口さんから異常な量の雑用と、一銭の給与も出ない残業を幾度となく任されるようになった。
事情を知った他のパートさんたちが手伝ってくれてどうにかこなせていた時もあったが、それすらも糾弾されるようになり段々手伝う人が減っていった。
ろくな休憩もなしに朝から晩まで働いているうち、次第に(というか必然的に)体調を崩し、退職せざるを得ないところまできていた。
本部に報告することも考えたが、粛清を受けた原口さんが逆恨みして何か危害を加えられてからというもの、たまったものではない。
人は簡単には変わらない。まだ二十歳にして花子はそれを重々理解していた。
意を決して退職届を原口さんに渡した時、シュレッダーに入れたように即座にビリビリに細かく破られてしまった時は、流石に面食らってしまったが。
彼の考えていることは大体予想ができた。
花子が自ら退職したとあれば、本部の人間が職場の人間関係のトラブルを懸念し、パートさんや社員さんたちに退職理由を聞き出しにやってくると思ったのだろう。
過去にも職場の女性に手を出そうとして一度こっぴどく本部からお叱りを受けたことがある人なのだと、残業の傍ら社員さんが「反省したと思ったのに、これだもんなぁ」とため息混じりに話してくれた。
その時きっと、次はないぞと釘を刺されていたのかもしれない。
あくまでも「店長から花子に対し解雇通知を出した」ということにしたかったのだ。
「君、ちょうど辞めてもらおうと思ってたのよ。使えないし愛想がなくて、お客さんからクレームも入ってるから」
一度もクレームなど聞いたことがなかったが、『そういうこと』にしないと辞めさせてもらえないと悟った花子はあっさり折れて、解雇される運びとなったのだ。
───それから退職しはや一週間、花子は再就職先を探す為にハローワークへと向かうのが日課になっている。
智司を送り出したあと、衣装箪笥から適当な服を引っ張り出し襟がよれているのも気にせず着替え、つぎはぎだらけのトートバックを肩にかける。
車は一台しか無く智司が使っている為、花子はハローワークまで毎日徒歩で向かっている。
靴擦れの傷が痛んできたのでサンダルを履いて、三和土をニ、三歩引摺るように歩くと、誰もいない廊下に向かい「いってきます」と一言呟いた。
扉を開けっぱなしにしてある居間に向かって、玄関を出ると同時に廊下を伝って強い風が舞い込む。
ふわりと舞ったカーテンから覗く浅黒い爪先に、花子が気づくことはなかった。
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