わたしのかち

折笠 恵

はじまり

濃紺の視界の中、パステルカラーのモビールが揺れる天井。

今の自分に見えるのは、それだけだった。


この空間に居るのは、おそらく私一人。時刻は真夜中。

一切の光が遮断され、糸から垂らされた様々な動物を模した人形たちは、昼に見てもなんとも思わないというのに、こんな時だけは自分を食べようと襲ってくるのではないかというほど不気味に見えてくる。


あの丸々と太った桃色の豚はもうすぐで大きな牙が生え、私を突き刺してくるかもしれない。

その斜め下にいる水色の象はゆっくり鼻を伸ばし、私の目をひり出そうとしてくるかもしれない。


そんなはずはない、と頭で理解しているものの、一度でもよぎった考えは中々抜けないもので、締め付けられるような心細さと恐怖が頭を支配する。


誰か助けて、と泣き出しそうになる衝動が喉奥から飛び出そうとした時、大きく開いた口からは吐く息すらも姿を見せなかった。


声が出なかったのだ。


そこで私は、これが夢の中なのだと気づく。

まだ自分の身一つでは歩き出すこともできなかった頃の、遠い記憶から成される懐かしい光景の中に、今の私の意識のみがトリップしているのだろうと分かった。


ここはベビーベッドの上。昔住んでいた小さなマンションの、四畳にも満たない狭い寝室の中。

今もとある事情によりそこまで裕福ではないが、私───花子が生まれたばかりの頃は、もっと大変だったんだぞ、と父がよく話して笑っていた。


からん、からん、とモビールが小気味良い音を立てるのに紛れて、部屋の外から何やら争う声が聞こえる。

聞き慣れた声。父のものだった。

「花子、花子…は、俺の子供だ!お前、に…なんか、渡さないッ!」


私の知る温厚な父の面影はなく、言葉につかえながらもずっと、目の前にいる『誰か』に怒号を飛ばし続けている。

それを一身に受け取っている『誰か』は、全く反論することはない。父一人がその場で喋っているのだろうかと疑ってしまうほど静かだった。


「お、お前、どうして、それを」


紙の捲れる音のあと、父の声が震え出す。

だん!と一度強く何かを打ち付けるような音のあと、激しい息遣いが聞こえた。

次第に絶叫に変わっていく。ガラスを爪で引っ掻いているように高く、女のものであることが分かる。


それはどんどん私の方へ近づいて、摘みを一気に捻ったようにしてボリュームが大きくなる。


乱暴にドアを開けた音と同時に、部屋の中に蛍光灯の青白く冷えた光が僅かに漏れる。

直後、わずかな振動と共に視界の左端に映ったのは、白くほっそりとした手だった。


爪は短く、所々皮が剥けて痛々しい。

その手は私が眠るベビーベッドの柵を、何があっても離さないと言わんばかりに、折れそうなほど掴んでいた。


やがて顔が見える。

これでもかというくらい絡まった黒髪の下から覗くのは、血走った大きな瞳に、真っ直ぐ通った鼻筋。半開きで膨らみのない唇は、薄茶色で正気を感じられない。

私はそれを見てすぐ「お化けみたい」と思った。


「ハ…ナコ……ハナ……コ……」

お化けみたいなそれは、生死を彷徨っているように弱々しくも、噛み締めるようにして私の名前を呼んだ。


「やめ、やめろ…やめろ!やめろ!花子に触るな!」

狼狽した様子の父が、それを剥がそうと躍起になって掴みかかる。

衝撃に耐えベビーベッドを激しく左右に傾けていた両手は、やがて指が解け、空気が抜けるようにして滑り落ちていく。

もう、お化けの姿は見えなかった。


部屋の中に、一時の静寂が訪れる。

起き上がった父がベビーベッドの中に角張った大きな手をゆっくりと入れ、私の頬を優しく撫でたが、その表情はどこか申し訳なさそうに見えた。


重い扉が開く音が聞こえ、父の肩は大きく震えた。

どすどすと近所迷惑を全く考慮しない豪快な足音のあと、聞こえたのはまたも女の悲鳴だ。


「な、なん、なんなのこれ」

「バレたんだ、『奴』に。もうここはダメだ。お前はとりあえず、花子を連れて逃げろ。あとは俺がどうにかする」

「なによ、どうにかって…無理よもう、こんなの」

「いいから!花子がさっき起きちゃったんだよ。頼むから、今は俺のいうことを聞いてくれ」


父は女を半ば強引に説得して、私のことを指差す。

それからすぐに、マニキュアで彩られた血色のいいふっくらとした両手が、私を乱暴に抱えた。


玄関を出る前に見えたのは、父の寂しい背中と───






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