第X話 —— 父が見た、一度きりの思い出 ——
夜の雑居ビルに、背中を丸めて歩く一人の男性がいた。名前は西村修一(にしむら しゅういち)。折れ曲がった背筋と深い皺、その表情には拭えない後悔の色がにじんでいる。
手がかりのないまま、ビルの四階を探し当てた修一は、「リラクゼーションスパ『眠り姫』」と小さく書かれたプレートに気づく。噂に聞いた“裏メニュー”とやらが、この店で体験できるらしい。記憶の中で逢いたい人に再会できる——それが本当なら、彼にはたった一人、どうしても会いたい相手がいる。
修一には一人娘がいた。名前は由香(ゆか)。妻を早くに亡くし、男手一つで育ててきた。
生活は苦しかったが、修一は朝から晩まで働き、休みの日には由香と公園で遊び、一緒に弁当を作った。周囲が「よくやっているね」と言ってくれるのが密かな誇りで、何よりも由香の笑顔が疲れを吹き飛ばしてくれた。
そんな由香が高校を卒業するとき、修一は当然のように大学進学をすすめた。
「自分の将来のためだ。学歴があれば、もっと安定した道が開けるからな。」
けれど由香は首を横に振った。
「お父さんにはずっと苦労かけたから、今度は私が働いて支えるよ。」
思いがけない言葉に、修一は思わず声を荒らげた。
「そんなことはいいから! 俺はお前にもっと良い環境を与えてやりたいんだ。何のために必死で働いてきたと思ってる!」
由香も譲らなかった。
「私はもう子どもじゃないし、自分で生活していきたいの!」
意見のすれ違いはいつしか激しい口論へと変わり、由香は家を飛び出した。
その日以来、由香は戻らなかった。修一は意地になって連絡を取らず、娘のほうからも音沙汰はなかった。
いつか頭を冷やして帰ってくるだろう——心のどこかでそう思いながら、父娘のプライドがすれ違ったまま、数年が過ぎた。
ある日、病院から連絡が入った。
「西村由香さんのご家族の方ですか……?」
その声を聞いた瞬間、嫌な予感が走った。
病院へ駆けつけた修一が知ったのは、娘の死。そのあまりに突然の知らせに、どうやって病院を出たかも覚えていない。
もっと話しておけばよかった。もっと寄り添えばよかった。どこで働いて、どんな暮らしをしていたのか、娘のことを何も知らないまま別れたなんて——。
雪のように降り積もった後悔が、修一の胸を押しつぶした。
その後、修一は生きる気力を失いかけていた。だが、巷で妙な噂を耳にする。
「『眠り姫』って店で裏メニューを頼むと、過去の記憶を体験できるらしい」
馬鹿げていると思いつつ、それでも娘に一目会いたいと願う修一は、縋るようにビルの扉を開けたのだ。
静かな照明が落ちる店内で、オーナーらしき人物が修一の来訪を迎える。男女の区別も曖昧な、どこか不思議な雰囲気の人だ。カウンター越しに「ご要望は?」と問われ、修一は震える声で答える。
「娘に……会いたいんです。あの子に、何も言えないままだったから……。」
——奥の部屋に通され、リクライニングソファに横たわる修一。
「一度きり。60分だけ。でも過去を変えることはできません。それでもよろしいですか?」
淡々と告げる店主に、修一は黙ってうなずいた。
ハーブの香りの漂う空気を吸い込むと、瞼が重くなる。あたたかな微睡(まどろみ)の中で、意識が白い霧の奥へと沈んでいく……。
気づけば修一は、小さなアパートの玄関先に立っていた。古びた下駄箱や壁のシミ、すべてが懐かしい。そこは由香がまだ幼い頃、二人で暮らしていた部屋だ。
「お父さーん、おかえり!」
奥から弾む声が聞こえ、幼稚園児の由香がぱたぱたと走ってくる。小さな手を伸ばし、屈託のない笑顔で修一の腕に抱きついた。
(ああ……こんなときもあったな……)
まるで本当に抱きしめられているような、愛おしくて懐かしい感触に、修一は目が潤む。
場面が切り替わる。由香が高校の制服を着てキッチンに立ち、手際の悪いまま弁当を作ろうとしている記憶だった。
「お父さん、今日は私がご飯作るから休んでて!」
ミニトマトを切り損ねて悲鳴を上げる由香に、修一が「ほら、貸してみろ」と笑って手本を見せる。いつもの何気ない朝の光景が、こんなに幸せだったとは——。
そのときの娘の笑顔が、どれほど修一の疲れを癒してくれていたのか、今になって痛いほど分かる。
さらに場面が飛ぶ。進学か就職かで口論になったあの日。
荒れた声と互いのプライドがぶつかりあい、由香は荷物をまとめて家を出て行ってしまう。
「こんな押しつけがましい父親なんて、もう嫌!」
バタンと閉まる扉の音に、修一は胸が張り裂けそうになる。
(引き止めればよかった……一言でも謝れば、こんなことには……)
幾度となく悔やんだ光景が、まざまざと目の前に再現される。記憶だからこそ、止めることは叶わないと分かっていても、手が伸びそうになる。
残された時間が少なくなった頃、修一の視界は一転、ぼんやりとした光に包まれる。
ふと気づくと、やや古い商店街の歩道。そこに、二十歳を超えたであろう由香が立っていた。黒いパンツスーツに袖を通し、ピシッと髪を束ねている。少し大人びた横顔だ。
(就職して、もう少し落ち着いた頃だろうか……?)
記憶にないはずの姿。けれど、これがあの娘の“生きていた時間”の一端なのかもしれない。夢のようでも、修一にははっきりと分かる。
由香は書類の入った封筒を抱えながら、何かを決心するように大きく息をつき、商店街の先へ歩き出す。
(どこに向かっているんだ……? 頑張ってたのか、あいつは……)
その姿に声をかけたいのに、声は出せない。視線だけが追いかけて、涙がこぼれる。
何があってもちゃんと立ち向かっている——そんな風に見えた。自分が何も知らないままでも、娘は娘なりに人生を歩いていたのだ。
そのシーンもやがて白く溶け、修一は急激に意識が遠のいていくのを感じる。
「……あと5分ほどです。お戻りのご準備を。」
店主の声がどこかで響く。けれど修一は、最後にどうしても娘に伝えたい言葉があった。
(由香……どこでもいいから、もう一度だけ……)
すると今度は、小さな公園が浮かんだ。ブランコに一人座る制服姿の由香がいる。家出する前か、あるいは思い悩んでいた頃かもしれない。うつむいた横顔はどこか寂しげだ。
「由香……ごめん、俺はお前の気持ちを分かってやれなかった。」
本来なら届かないはずの言葉を、修一は噛みしめるように絞り出す。すると、娘がふと顔を上げ、こちらを見たような気がした。
その瞳には、涙がにじんでいるようにも見える。けれど、唇はどこか微笑んでいる。
——ありがとう、と。
まるでそう言わんばかりの温かな表情に見えた。
懐かしいシャンプーの香り、柔らかな頬。あの子を抱きしめたい。だけど、その体は光とともに融けていく。
「娘(おまえ)にとって自慢の父親にはなれなかったけど……愛してる。ずっと、愛してるから……」
修一は声を震わせ、ぎゅっと目を閉じた。
目を覚ますと、そこは「眠り姫」の施術室。修一はソファの上で涙を流していた。
静かにハンドタオルを差し出す店主に、「ありがとうございました……」と、何度も頭を下げる。
娘がいなくなった現実は変えようがない。なのに、記憶の中でほんの少しでも娘の気持ちに触れられた気がして、修一の胸には不思議な安堵が広がっていた。
由香は自分なりに頑張りながら、夢や目標を抱えて生きていたのだろう。会えなかった時間も、確かにあの子の人生として存在していた。そのことを実感できただけで、これからを生きる力が湧いてくる。
リラクゼーションスパ「眠り姫」。
噂めいた存在だが、そこは間違いなく、一度きりの儚い夢を見せてくれる店だった。
重い足取りで扉を開けたはずなのに、店を出るとき、修一の背中はわずかに伸びている。
ひとつだけ確かなこと。娘がいた時間は、どれだけ離れていても、確かな愛情で結ばれていた。もう直接言葉を交わすことはできないけれど、その思い出を胸に、修一はこれからを生きていこうと思う。
それがたとえ遅すぎる悔いを伴うものであっても、娘の人生を尊重し、父として胸を張って見送ってやらなければならない。そう、きっと娘もそれを望んでいるに違いないから。
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