夢一夜

りお しおり

第一夜 しあわせバス

 こんな夢を見た。


 私はバスに乗ろうとしている。家に帰ろうとしているのか、出かけようとしているのかは知れない。本来バスに乗る習慣もない。けれども不思議と思わない。


 到着したバスに乗り込むと、中央のドアのほぼ向かい側の一人用の座席に座った。


 座った瞬間に、これはしあわせバスだと思った。理解したと言ったほうが正しいかもしれない。

 幸せな人ほど前方に、不幸せな人ほど後ろに座るバス。知らないはずのことを私は知っていて、すとんと腑に落ちていた。


 一番前に座る男の子は横顔に笑みが浮かんでいて、見るからに前途ある幸せそうな少年だった。その後ろの座席には高齢の女性が穏やかそうな顔をしていて、やはり幸せそうに見えた。


 私の二つ後ろの座席に座る女性は、バス停で私の前に並んでいた人だ。ひどく疲れた顔をしていたのを覚えている。

 一番後ろの女性は、私が乗ったときにはすでにもういた。長い黒髪で、白い服を着ていた。俯いて長い髪が顔を隠していて、表情はほとんどわからなかった。


改めて全体を見渡すと、私がいるのは中央よりもやや後ろの座席だった。私は少しだけ不幸せなのかと他人事ひとごとのように思う。


 窓の外は真っ暗だった。私は外を見ようと窓の外に目を向けたが、ガラスに映った自分の姿が見えるだけだった。

 いつの間に夜になったのだろうとぼんやりと思う。


 バスの室内灯はちかちかと時折点滅した。それが私を心もとない気持ちにさせた。

 暗い夜道を走るしあわせバス。少し不幸せな私。幸せではなく、かといっ、とても不幸でもない。少しだけの不幸せだとほっとしながらも、その中途半端さがいかにも不安定で、とりとめない不安を覚えた。


 バスの外は暗闇。窓ガラスに浮かぶ私の顔は疲れていて、なるほどこれが少し不幸せな人なのだと納得する。

 バスの中は室内灯のせいで外に比べて不自然に明るい。心なしか前のほうは明るく、後ろのほうは薄暗く感じられた。


 バスは途中で止まることなく、車体を時折揺らしながら走り続ける。


 ふいに後ろから声がした気がして見ると、二つ後ろの席に座っていた女性が胸をおさえて苦しそうにしていた。

 私はぼんやりと、不幸せなのだなと思った。救護しなければとか、救急車を呼ばなければなどという現実的な思考は思い至らなかった。ただ、不幸だから体調も悪いのだと思うだけだ。


 私がそうであるように、ほかの誰も女性の様子に気にも留めなかった。女性は苦しみながら崩れ落ち、通路へと倒れ込んだ。

 女性は何か見えない力が働いているかのように、ずずずと後方へと引きずられていった。

 体調の悪くなった女性は、より不幸せなほうへと引き寄せられて動いていったのかもしれない。


 女性は不幸になったから後ろに動いたのか、それとも後ろに動いていって不幸になったのか。私の今の立ち位置が変わることはあるのだろうか。私は初めて怖くなった。

 一番後ろへ引きずられていった女性に誰も気に留めない。誰も、気づいていないかのように。そのことにまた、恐怖を覚えた。


 バスは何事もないかのように進んでいく。誰も乗らず、誰も降りない。

 このバスから降りようにも、すべがわからなかった。あるべきはずの降車ボタンは見当たらず、降りなければという思考にも至らない。


 身体が重かった。動こうとも思わなかった。得体の知れない恐ろしさをぼんやりと抱きながら、ただ座っていた。


 どれほどそうしていたのだろう。長い時間に思えたけれど、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。

 寒気がした。背後に引っ張られるような感覚がした。寒気がするのに、背中はじっとりと湿っているような気がして気持ちが悪い。


 振り返ってみると、一番後ろに座っていた女性が一つ前の座席に移動していた。俯いていて、相変わらず顔はわからない。

 私は何か不気味な気がして顔を前に向けた。呼吸が自然と浅くなる。


 後ろに引き寄せられるような感覚は強くなるばかりで、後ろに向かって風が吹いているような心地さえした。

 ふいに少しだけ後ろに向けて視線を動かすと、席を移動していた女性はさらに前に移動していた。いつの間にか二つ後ろの席にいたのだ。倒れたじょが最初に座っていたところだ。

 顔を覆うように伸びた黒髪の隙間から、青白い顔がかすかに見えた。そして、目が合った。気がした。髪の隙間から覗く目が、たしかにこちらを向いていた。淀んだ目をしていた。


 私は慌てて顔を前に戻した。鼓動が激しくなる。振り返ったことを後悔した。何かおそろしいものを、見てはいけないものを見てしまったような気がした。

 背後に感じるじっとりとした不快さは増すばかりだけれど、振り返ることなどおそろしくて到底できなかった。


 助けを呼ぼうにもうまく声は出せず、前のほうに座る人も運転手もまるで異変に気づかない。不幸なものなど、目に入らないかのように。


 背後に気配を感じ、悪寒が走る。

 衣擦れ。息遣い。

 すぐ後ろに、もうあの女性がいるとしか思えない。けれど怖くて振り返れない。


 ますます強くなる後ろに呼び寄せられる感覚の中、ふいに視界の端で何かが動いた気がした。思わず視線をわずかに窓のほうにずらした。

 白い影が見えた。それは窓に反射してかすかに動いていた。


 女性は白い服を着ていた。

 あの女は、間違いなくすぐ後ろにいる。


 私は恐怖に怯えながら、両手を握りしめる。動悸を抑えようと体を縮こませる。


 ひやり。


 首筋を冷たいものが触れた。悲鳴は声にならず、息だけが漏れた。

 つつ、と首元から前へと冷たいものが這う。視線だけを動かせば、それは青白い手だった。あの女の手に違いなかった。


 おもむろに後ろから伸びてきた手は突如私の肩を掴んだ。悲鳴をあげたはずなのに声は出なかった。開けた口からは息が抜けるだけで、少しも声にならない。引きつけを起こしたみたいに、呼吸もままならなかった。


 私の肩口を掴んだ手は存外に力が強かった。私を後ろへと引っ張りこもうとする強さがあった。

 私は抗おうとするが、力は入らなかった。


 そのうちに女に後ろから抱きこまれるように女の両手が私の体に回される。女の長い髪が、私の肩口に滑り落ちてくる。


 後ろへ後ろへと引きずりこむ女の力になすすべなく、引きつった悲鳴にならない声は誰にも届くことはなかった。






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