第6話
死体の解体作業が終わった。彩子は果物ナイフを口に咥え、再び彼の手首を後ろ手で縛った。その代わり、首のロープを解いた。こんなとき、一瞬の隙を突き、彼女を組み伏せ、ナイフを奪えればいいのだが、生憎彼にはそんな度胸も技量もなかった。バスルームの掃除の間、浴槽の中に立たされて、おとなしく待機させられていた。
「手伝おうか」
そう提案しても返事はない。一顧だにせず、彼女は黙々と、フロアに散らばる細かい皮膚や肉片を拾い上げ、トイレに流した。それからシャワーでフロアを洗い流し、排水口にパイプクリーナーを注いだ。片付けが一段落すると、雅之は足を洗ってもらった。裾に血と脂の付いたチノパンと、ぐっしょり濡れた靴下は、洗濯後に処分されることになった。足首を縛るロープは切断され、下はボクサーパンツ一枚の姿にさせられた。
「ズボンを部屋に取りに行きたいんだけど」
「これからのことを決めてからね」
「でも俺、パンツ丸出しだよ」
彼女は雅之の下半身に向けた視線をすぐに逸らした。そしてバスタオルを投げ渡し、再びこう言った。
「これからのことを決めてからね」
さっき彩子はスマホで調べものを行っていた。これからのことを考えていたようだ。
洋間へ戻るとカーテンの隙間から陽の光が差し込んでいた。クローゼットの上のデジタル置き時計は、十二時半を過ぎている。できることならカーテンを開き、陽の光を浴びたいが、どう考えても許してもらえそうにない。
「今はこれで我慢して」
ローソファに体育座りで座らされ、カロリーメイトを食べさせてもらった。彼女も同じものを口にした。それから彼の一眼レフを手に取って「このカメラの中の画像を見たいんだけど、どうすればいいの」と訊ねた。
「俺は大野さんを撮ってないよ」
「それを確かめたいから教えてほしいのよ」
言われた通りに教えると、彼女はモニターで写真を確認し「なんでこんな汚い写真を撮ってるの」と顔を顰めている。
「滅んでいくものの美しさっていうか、忘れられていくものを…」
「SDカードはどうやって取り出すの」
「SDカード?」
「一眼レフもSDカードでしょ。枚数が多いからフォーマットするわ」
SDカードのスロットの蓋を探し、爪を立て、一眼レフをガリガリと引っ掻いた。
「いや、ちょっと…」
PCに移さなくても、カメラにはフォーマットの機能が付いている。雅之はそれを教えてあげた。ようやく安心した彼女は、カメラを床に置き、今後の計画を話した。
深い穴を掘るための道具は、スコップくらいしか雅之は思いつかないが、それ以外に彩子は、複式シャベルを使う案を考えていた。そう言われても、どういうものか分からないから、彼はスマホでアマゾンの商品画像を見せてもらった。それは庭木の剪定に使う枝切鋏を思わせる、先の鋭い二本のシャベルを相対し接合させた道具である。二股の柄を開閉させ、シャベルで土を挟み取り、掘り出す道具であるようだ。一般に杭やポールを立てるため、縦穴を掘る用途で使用される。この道具を用いれば、深い穴を掘るために、わざわざ穴の中に入る必要がない。彼女は予めこの道具を知っていたわけではないが、グーグルで調べる過程で発見した。それは様々なメーカーから販売されており、このアマゾンの商品の長さは1.4mで、容易に深さ1mの穴を掘れると、複数のアマゾンのレビュアーが書いていた。
彩子の案によると、穴は二段階に分けて掘る。はじめにスコップで深さ1mの穴を掘り、穴の底へ下りた上で、複式シャベルでさらに深さ1mを掘り進め、切断された死体をそこに放り込む。スマホで調べたところ、動物に死体が掘り返されるのを防ぐには、深さが二メートル程度必要だった。決行は夜間である。スコップしか用いない場合、夜明けまでに二メートルの穴を掘ることが可能か、彼女は懸念を抱いた。時間と体力に配慮し、複式シャベルを併用するやり方を考えたようだ。
雅之は知らない道具を使うことが不安だった。脅迫されたとはいえ、すでに手を汚した以上、もし彩子が逮捕されると、自分にも累が及んでしまう。失敗するわけにはいかなかった。
「この複式シャベルって、幅が狭くて深い穴を掘るための道具だよね。杭やポールの下穴を掘るために使うって書いてあるし。十分な広さの穴を掘れるのかな」
この道具を用いた場合、穴の深さよりも広さの方が問題である。
「そのために瀬川くんには、なるべく小さく切断してもらったのよ。実際に使用した人のブログを読んだけど、直径30cmで、深さが1mの穴を掘っていたから、このサイズなら大丈夫だと思う」
解体作業の途中で、切り分ける死体の大きさに、彩子は注文を付けたが、このためであるようだ。
「スコップだけで掘るのはだめなの」
「それは瀬川くんの体力次第かな。身長を超える穴を掘ったことあるの」
「ないよ、そんなの」
「なら楽な方法を考えないと。複式シャベルを使えば、深さ1mの穴に入るだけで済むのよ。だけど、もしスコップのみの場合、瀬川くんは深さ2mの穴に入ることになる。ちょっと想像してみて」
そこまで深いと、自力の脱出はできそうにない。月明かりさえ届かないかもしれない。そう思うと、閉所への恐怖を感じた。
「もしわたしに魔が差したらどうするの」
「どういうこと」
「わたしを信じてくれるのは嬉しいけど、もう少し警戒した方がいいわ」
「だから、どういう意味」
「瀬川くんが考えているように、もしわたしが頭のおかしい殺人鬼だったらどうするのかっていうことよ。瀬川くんの口を封じたいと考えるかもしれないでしょ。死体と一緒に瀬川くんを埋めてしまったらどうするの」
雅之は目を見張り、その目を彼女から離せなくなった。
「もちろんそんなことしないよ。わたしは殺人鬼じゃないから」
こうして彩子の案に反対する理由はなくなった。
複式シャベルはメーカーによって、長さが異なっている。目当ての商品を求め、県内の大型ホームセンターをネットで検索し、在庫を問い合わせたところ、戸塚のホームセンターで販売されていた。
彩子は雅之の部屋から洋服を持って来た。彼の手首のロープを切ると「瀬川くん、信用しているから。裏切ったら刺すからね」と、彼が洋服を着ている間、果物ナイフを向けていた。それから外出し、彼を先行させ、彩子は後ろから付いて行った。犯罪に加担する我が身を思うと、意気阻喪しながらも、月極駐車場へ向かう途中、すでに手足が自由である自分が、彼女よりも体が大きく、肉体的に優位であることを自覚した。彼女のデニムのポケットから鞘に納めた果物ナイフが覗いている。鞘から刃を抜く前に、彼女を強引に押さえつけ、警察に突き出すことを考えた。ようやくここに至って、反抗の意思が頭をもたげたのだった。
「ねえ、瀬川くんはティックトックをやってる」
突然ティックトックの話題が持ち出され「やってないね」と、彩子の隙を窺っていた。
「動画を投稿できることは知ってるよね。予約投稿もできるのよ」
「へえ、そうなんだ」
そう言いながら歩いていると、ややあって、雅之は立ち止まった。
「え…もしかして、投稿しちゃったの」
「予約投稿よ。瀬川くんが裏切らなければいいの。無事にすべてが片付いたら、ちゃんと動画を削除するから安心して」
こうして彼の反抗の意思は容易にへし折られてしまった。後はただ彼女を刺激しないように口を閉ざすばかりだった。
なんで俺はこんなやばい女と関わっているんだろ。
十分に危険な兆候はあったのに、なぜのんきに一緒に過ごしてしまったのか。雅之は間抜けな自分を呪いたくなった。
彩子は車内でもスマホをずっと眺めていた。ホームセンターに近づくと、カーナビの音声ガイドが流れ「すべてが終わったら、カーナビの走行軌跡と目的地の履歴を、ちゃんとわたしの前で削除してね」と、免許を持たない彼女が気を揉んでいた。スマホでカーナビについて調べたようだ。
「分かったよ。やったことはないけど、後でマニュアルを読んでみる」
複式シャベルの他に、折り畳み式の30リットルのクーラーボックスを2個、ヘッドライトを2個、それに脚立、スコップ、小型シャベル、ダンボール、バケツをホームセンターで購入した。
帰宅は午後三時頃、出発の時刻まで二時間ほどあった。ドライバーの雅之はベッドで仮眠を取った。すでに脅迫したせいか、彼女はもう彼の手足をロープで縛ろうとはしなかった。
「後で起こすから、眠っていいよ。あと、これを食べて。カロリーメイトだけじゃ足りないよね」
サンドイッチと蒸しパンを渡した。彼はこの思いやりに接し、今更ながら、彼女が人を殺したことを不思議に思った。
「大野さんは俺を殺すつもりだったの」
「まさか、そんなわけないでしょ」
「それじゃあ、はじめから俺に死体を解体させて、それを撮影するつもりだったの」
「そうだよ」
「本当に」
鬱陶しそうに顔を背け「べつに信じなくていいよ」と彼から離れ、彩子はキッチンでクーラーボックスの準備をはじめた。彼は信じたいと思っている自分に気がついて、ゴミ袋から死体の腕を取り出す彼女を思い出した。気が緩んでいることを自覚し、このままではいけないと、気を引き締めた。
やがて出発の時刻を迎えた。彩子はゴミ袋に詰めた死体をクーラーボックスに入れた。荷物の準備が終わり、雅之もベッドから起き、それを軽バンへ運んだ。すべてが荷室に納まる頃には、すでに陽は傾いていた。車に乗り込んだ雅之は、これから向かう場所についてグーグルマップで彩子に説明した。彼女は一通り聞いた後「もしダメなら引き返すことになるから、それだけは憶えておいて」と、だしぬけに、労を無に帰すようなことを言った。
「ダメなの」
「まだ分からないけど、実際にやってみないと。例えば、土が予想以上に硬いとか、木が密集して掘る場所が見つからないとか、色々あるかもしれないから」
「でもその後はどうするの。死体を埋めなかったら、どうやって処分するの」
彩子は彼を睨んで、顔を近づけ「大きな声で言わないで」と、声を潜めて注意した。
「車でゴミ袋を運んで、なるべく遠くのゴミ捨て場に捨てる」
「はじめからそうすればいいと思うんだけど」
「それは最終手段よ。山奥に捨てる方が安全だと思うから」
ゴミ女への恐怖が残っている彩子は、できる限りそれを回避したかった。
雅之は車を運転しているとき、死体を載せていることから意識を離せなかった。せめて音楽を聴いてこの緊張から解放されようと、信号待ちのとき、スマホとカーナビをブルートゥースで接続した。
「大野さんて、どんな音楽を聴くの」
カーナビを一瞥し、彩子は質問の意図を察した。
「ごめん、今は音楽を聴く気分じゃないの」
ところがスマホに戻した視線を雅之に向け「あ、でも、瀬川くんが聴きたいのなら聴いて。この車は瀬川くんのだから、わたしに遠慮しないで」と、慌てて付け加えた。
こんな気遣いのおかげで、雅之の「音楽を聴きたい気分」は消し飛んでしまった。音楽というこの状況を一瞬でも忘れる手段を失い、仕方なく、今回の出来事について運転しながら考えた。そのうちあることが気になって、町田から高速道路に入ると、彼は躊躇いがちに尋ねた。
「大野さんが付き合っていた人って、どんな人なの」
「なんでそんなことを知りたいの」
「これから自分の手で埋めるからさ。どんな人なのか知っておきたいんだよ」
以前は敵意を持っていたおかげで、変わり果てた姿の彼に、雅之は尚更同情し、これほど酷い目に遭う男について知りたくなった。それは贖罪による義務のようなものだった。彩子はこの要望に応えたが、積極的に話そうとしないから、雅之が根掘り葉掘り質問していった。
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