第5話

 俎上の腕の持ち主が判明すると、死体に纏わりついた不気味な印象が失せ、雅之は心のうちで被害者の男に何度も謝罪しながら、どうにか作業を開始した。しかしどうしても被害者の生前の姿が頭に浮かんで、変わり果てた姿のあまりのおぞましさに、吐き気を覚えた。ゴミ袋には、他にも左右の腕の上腕部、二つに分かれた右脚、解体が大変そうな頭や胴体は、腐りやすいという理由から、彩子がすでに処理を済ませていた。これは雅之にとって不幸中の幸いである。内臓を含む箇所の解体は、彼にはとてもできそうにない。死体が次第に解凍され、血と脂が床に広がると、臭いが鼻に突き、わけても鋸の感触や音のせいで、ただでさえ気分が悪いから、作業の最中涙目になっていた。顔を背けながらも、こんな作業を行う自分が信じられなかった。彩子はレジャーシートに座り込み、今はもう果物ナイフを向けていないが、死体を解体する彼にスマホを向けていた。

「何をやってるの」

 彩子は質問に答えなかった。無言でスマホのカメラを雅之に向けていた。答えを聞かずとも意図を察し、彼は囚人の気持ちで作業を続けた。やがて撮影が終了し、彼には目もくれず、スマホを眺める彼女に、彼は膝頭を床に突き、腰を屈めたせいで、膝と足に痛みを覚えたから「あの、ちょっといいかな」と声をかけた。

「足首のロープを切ってほしいんだけど。膝が痛くて…」

「後で車を運転するときに切ってあげる」

「今はだめなの」

「わたしの共犯者になりたいんでしょ。ならそれが嘘でないことを証明しないと」

「でも、これだと力が入らないんだよね。なかなか切れなくて…」

「瀬川くん、泣き言を言うのは止めて。わたしは切ったものを鍋で煮込んで、お肉と骨をいちいち切り分けたの。内臓もわたしが処理した。それに比べれば、瀬川くんのやっていることなんて大したことない。楽な方よ」

 死体の解体の光景が頭に浮かんで、雅之の手が震えた。彼はしばらく黙って、膝の痛みを堪えていたが、次第に彩子の沈黙が怖くなった。沈黙が長引くほど、彼女が恐ろしい殺人鬼にしか思えなくなる。その膨らんでいく彼女のイメージを放置すると、二度と話しかけることをできなくなりそうだった。そうなると死ぬ可能性が高まる気がした。言葉を発しない人間は、物として扱われるからである。だから彼は非常な焦りを覚えて「そういえば」とかすれた声を出した。

「あの病院…、どうしてあの病院に捨てようと思ったの」

「あれは失敗だね。ちょっと問題があったから」

「問題?」

 スマホでの撮影を終えて安心したせいか、彩子の表情がさっきより柔らかくなっていた。しばらく考えた後、彼女は話しはじめた。

「わたしは後始末のやり方をネットで調べたの。実際の事件を参考に、鋸やフードプロセッサーを使って、できるだけ細かくした後、トイレに流した。残った骨はトンカチで砕いた後、燃えるゴミの日に出すつもりだった。出すつもりだったんだけどね、あの女が…」

 彩子は口ごもり、表情が険しくなった。


 実は死体処理をする前から、彩子はそのことについて懸念を抱いていた。以前「缶、ビン、ペットボトル」の指定日に、ドレッシングのペットボトルをゴミ袋に入れ、ゴミの集積所に出したことがあった。しかしゴミ袋は部屋の前に置かれ、貼り紙が貼られており、赤いマジックでこう記されていた。


 油を含むドレッシングのペットボトルは「プラスチック製容器包装」の日に出してください。


 貼り紙の作成者は彩子の名前と住所を知っていた。きっと中身を覗いたのだろう。それだけでも不快だが、部屋の前にゴミ袋を置くなんて、許し難いことだった。彼女は躍起になって、犯人を突き止めようと、怪しい者がいないか、遠くから集積所を見張った。すると回収車の到着前に、ゴミ袋を調べる中年女を発見し、監視を繰り返したところ、いつも彩子のものを調べているわけではなさそうだった。この女の調査はランダムで、予め対象を決めていなかった。面と向かい非難したいが、それがこの女を挑発し、自分が狙われることを危惧した。ある日彩子はゴミ出しの折、集積所の周囲を見回すと、斜向かいの家の二階から、この女の見下ろす姿を見た。執念みたいなものを感じ、彼女は怖気づいてしまった。ゴミの調査がランダムということは、常に中身を見られる可能性があるということだった。だから今度は隣の地区の集積所にゴミを出した。ところが、またもや彼女の部屋の前に、ゴミ袋が置かれていた。


 指定されたゴミステーションを利用してください。他の住民の方に迷惑です。


 彩子のゴミ袋がないことを不審に思ったのだろうか。わざわざ彼女が利用する集積所を調べたようだ。もしや跡をつけたのだろうか。想像を超えた偏執狂的な性格に、彼女は慄然とした。もはやゴミ女のゴミ調査はランダムではなく、彼女を付け狙っているとしか思えなくなった。


 もっと遠くのゴミ集積所へ死体を運ぶことを考えたが、どこまでもゴミ女に追跡される気がした。だから彩子は別の方法を考えた。歩いて行ける距離に海があるから、そこに投棄するか、公園のゴミ箱へ捨てるか、迷っていたところ、結局後者を選んだ。深夜の海にゴミを投棄する姿を、誰かに見られたらまずいと思ったからである。

 問題は死体の未解体の部分が残されているということだった。解体作業に心身ともに疲れ果て、まだしばらくそれが続くことを思うと、げんなりした。それに水道を使い過ぎたので、水道メーターが不自然な数値になっていないか、気になっていた。


 まずは砕いた骨だけでも処分しようと、その日彩子はビニール袋に骨を詰め、リュックサックで背負った。事前に下見をしたところ、横浜市の方針で、市内の公園のゴミ箱は撤去されていた。隣の横須賀市でも、ゴミ箱を備える公園は少ないが、いくつかの公園を巡った後、ようやく目当ての公園を見つけた。その公園はあの廃病院の近くにあった。

 電車を使う気にはなれなかったので、歩いて目的地に向かった。監視カメラを警戒したというよりは、死体を背負いながら電車に乗るという恐怖に、耐えられる自信がなかったからである。

 公園内では、母親が小さな子供たちをブランコで遊ばせていた。彩子は一旦時間を置いてから戻った。人がいないことを確かめて、入り口の脇に設置されたゴミ箱へ向かった。その前に佇むと、背後にはマンションが聳え立ち、ここへ来ても尚、窓から目を光らせる偏執狂を想像させた。というのも、ゴミ箱には看板が貼られており「家庭ごみを捨てないでください」と明記され、もしここに死体を捨てると「家庭ごみを捨てた人間」と見做されるかもしれなかった。あのゴミ女に植えられた恐怖心は、執拗に彼女を強く支配した。茫然とゴミ箱の前で途方に暮れるばかりで、もはや死体をゴミ箱に捨てるのを諦めるしかなさそうだった。


 自らの不甲斐なさを呪い、駅へ引き返す途中で、彩子はあの廃病院のそばを通った。引っ越したばかりのとき、その隣のホームセンターを利用したので、初めて見るわけではない。以前は近寄ることさえ忌まわしく、視界の外へ追いやられたこの廃墟は、人目を憚らず、死体の処理から解放される誘惑によって、今では彼女を引き寄せていた。もしここに捨てると、いずれ人に見つかることは避けられない。考えれば誰でも分かることだが、解体作業と、常に恐怖を身近に感じる環境に、疲れ切った彩子にとって、大切なことは

「これで解放される」

 ということだった。人目に触れない廃墟という環境が、この世界での唯一の避難所であるような、そんな安らぎをもたらしたのである。


 やがて彩子は廃墟で雅之に遭遇し、死体遺棄は失敗に終わった。するとゴミ女への憎悪を昂ぶらせ、敢えていつものゴミ集積所を利用し、対峙する決意を固めてしまった。もしあの女を見かけたら、その行動を阻止してやろうと思ったのだ。遠くのゴミ集積所へ捨てれば、良さそうなものだが、彼女の頭の中では、ゴミ女は今や神の如く世界に遍在し、どこにでも出現するようだった。つまり第二第三のゴミ女が出現する可能性に頭を占拠されてしまった。もはやまともな精神状態ではない。そしてこの恐ろしい幻想への挑戦は敗北に終わった。実際にゴミ女の姿を見ると、脚が竦んで動けなくなった。そしてゴミ集積所から撤退し、この日彩子はアパートへ逃げ帰ってきた。


「あのババア、ほんと最悪。なんでいつもいるのよ」

 苦渋に満ちた涙目を浮かべ、ゴミ女を罵る彩子は、昂ぶる感情を抑え、肩を落とし、ため息をついた。

「けっこう口が悪いんだね」

「わたしの本性を知ってガッカリした」

「ガッカリはしてないよ」

 もはやそんな言葉では表現できなかった。

「俺もあのおばさんを知っているけど、大野さんの言う通り、ゴミチェックはたいてい抜き打ちみたいだね。まあ、俺みたいな常習犯になると、しっかりマークされるから、何度もゴミを送り返されるけど。ゴミ袋を持ってくるおばさんと、アパートの前で鉢合わせになったこともある」

 こんなことを淡々と話す雅之の精神は、すでに麻痺していた。はじめのときほど作業に抵抗を感じなくなっていた。彩子の話を聞いたせいか、彼女への恐怖が膨張することもなくなった。彼は死体の腿の部分を切断する手を一旦休め、ゴミおばさんのことを思い出した。レインコートには血の飛沫が点々と付着し、嗅覚も麻痺したので、室内に充満する臭気を気にしなくなった。まな板の上の肉片や、血で汚れた鋸、靴下に滲み込む血と脂がもたらす、ぬるぬるとした不快な感触、こうしたものが、彼を現実世界から乖離させ、奇妙な浮遊感に浸した。

「よくそんなの我慢できるね。何度も送り返されるなんて、考えるだけでうんざりする」

 彩子は再びスマホに目を落としたが、右手のロープを放さなかった。

 雅之は浮遊感のせいで、こうして彩子と会話をすることが、ごくありふれた日常の営みであるというような、逃避的な錯覚を抱いた。未だに彼女が恐ろしい殺人を犯したという事実を、受け止め切れていなかった。

「何度もゴミ出しのルールを無視すれば、そのうち諦めると思ったけど、諦めなかった」

「それで、あの女に何か言われたの。アパートの前で会ったとき」

「いや、何も。ムスっとして、なんか睨みつけてきた」

「うわ、キモ。何も言わないんだ」

「言いたいことは貼り紙に書かれていたよ。すごく怒ってるみたいだった」

 雅之は浴槽の縁を掴むと、よろめきつつ立ち上がり、腰に手を当て、背筋を伸ばした。

「腰と膝が痛いんだけど」

「もうほとんど終わってるでしょ。がんばって」

「車で運ぶから、ここまで細かく切断する必要はないんじゃないの」

「わたしがちょうど好いと思うサイズまでやって。あとちょっとでしょ。がんばって」

 次第に「がんばって」という言葉が、脅迫の響きを帯びたから、今が日常でないことを痛感し、雅之は拳で腰をぐりぐり解しながら、彩子が目を離そうとしないスマホを見た。

「あのさ、さっき俺をスマホで撮っていたけど…」

「ああ、あれは、気にしないで。あくまでも保険だから」

「何に使うの」

「もし瀬川くんが裏切ったら、ネットでばら撒くのよ」

「でもそんなことをしたら、大野さんも終わりだよね」

「そうだね。二人とも破滅だね。だからわたしたちは助け合わないと」

 冷ややかにそう言い放ち、雅之を一瞥すると、スマホに目を戻した。

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