第3話
彩子によく似た女は、屈んでビニール袋を覗いていた。長い間じっとして、ふいに周りを見回した。雅之はカメラを引っ込めた。リュックサックのジッパーを開き、ビニール袋の擦れる音が聞こえた。と、そのとき、彼のスマホがメールの着信音を発した。彼女が彩子であれば、逃走の姿を見られるのはまずいから、進退窮まって、意を決し、彼女の前に出て行った。そしてようやく分かった。彼女は紛れもなく彩子だった。
「あれ、大野さんじゃない」
たった今気づいたばかりという風を装い、満面の笑みを湛え、歩み寄り、廃病院に不法侵入した雅之は、コンビニの前で偶然会うときように、明るく声を弾ませていた。彩子はリュックサックの左右のショルダーストラップに親指を引っ掛け、目を見張り、食い入るような眼差しを彼に向け、その視線は首に下げられたカメラへと素早く移った。顔色の優れない憔悴した様子で、目元は隈に縁どられ、落ち窪んでいるが、眼光は鋭く、どこか鬼気迫るものを感じさせた。様変わりしたその様子に、やはり人違いではないかと彼は一瞬疑った。
「どうしたの、こんなところで」
彩子は開いた口から声を発せず、口を閉じてから「んん…」と、うめき声のような生返事を漏らした。
「もしかして大野さんも、こういう場所に来るのが趣味とか。前に話したけど、俺は写真部なんだ。たまにこういう廃墟を撮りたくなるんだよね。でも近所にこんなところがあるなんて、最近まで知らなかったよ。今までわざわざ遠出をしていたからさ。ホームセンターに寄ったとき、偶然見つけたんだ。でも意外だな。大野さんがこんなところに来るなんて。びっくりしたよ。やっぱり大野さんも、あのホームセンターに寄ったついでにここを見つけたの」
なんとなく身の危険を感じた雅之は、返答に窮した彼女を、言い逃れしやすい方向に導いていた。
「あ…、そう、そうなの。近くにホームセンターがあるでしょ。あそこへ買い物に行ったとき、この建物を見つけて、つい入ってみたくなっちゃって…」
入ってみたくなった理由については、聞かない方が良さそうだった。彼女は買い物帰りにこの廃病院へ「つい入ってみたくなった」のである。雅之はあのビニール袋の中身を不問に付し、彼女の言葉を信じたくなった。
「ああ、なるほど、ホームセンター。やっぱりホームセンターだよね。このペンライト、あのホームセンターで買ったんだ。そのときにこの廃墟を見つけてさ、写真を撮りたいって思った」
張り詰めた表情が解けることはなく、彼女は黙ってしまった。彼はその沈黙に危険を感じた。回避するべく全力を尽くした。
「あ、いや、写真だけじゃなくて。ほら、今年の夏って、すごく暑いでしょ。大学の友達に肝試しをやりたいって言われてさ。ちょうどこの場所がよさそうだと思ったんだ。下調べを兼ねて来てみた。大野さんもやっぱりそんな感じかな。その、肝試しの場所を探していたとか」
ペンライトの購入場所はアマゾンである。もし友達に肝試しをやりたいと言われたら、もっと安全な場所を選ぶだろう。それに大学の夏休みとはいえ、すでに九月に入り涼しくなっている。彼は思いついたことをただ口にしていた。
「うん、いいかもね。ここで肝試しをやったら楽しいかも」
張り詰めた笑顔は仮面のようで、彼女の視線は雅之とカメラの間を往復していた。その視線にも危険を感じた彼は、何をして夏休みを過ごしたかという話題を持ち出した。なるべくアパートの近所で偶然会うときのように、平穏無事に会話を終わらせたかった。日常的な話題のおかげで、心拍数が安定していった。彩子は夏休み中に二度帰省したことを話した。秦野にある彼女の実家から大学へ、通えないこともないが、二時間以上かかってしまう。今年の大学の前期の途中まで、実家にいた彼女は、通学に疲れたところ、手ごろな物件を見つけたのをきっかけに、一人暮らしを始めたのだと、以前彼に話していた。
「それじゃ、わたしはもう行くけど、瀬川くんはどうするの」
「俺はもう少しここにいるよ。もっと写真を撮りたいから」
そう言いながらカメラを掲げると、彼女の視線はそれに吸い寄せられた。やがて背を向け、廊下の先に姿を消した。脱力した彼は唖然と佇んでいた。あんなものをなぜ彼女はここへ運び、そして持ち帰ったのか…。その先の想像は非現実的にしか思えなかった。
アパートへ帰ると、廃病院での出来事を思い出した。美しい彩子の清楚な印象が、ビニール袋の腐敗臭に毀損され、薄気味悪いものに変わってしまった。とはいえ彼女にはすでに男がいるから、シャワーを浴び、髪に付いた埃と一緒に、不快感も洗い流され、さっぱりした気持ちになって、ユーチューブを眺めながら、昨日作ったカレーを食べていた。
すると、玄関のチャイムが鳴った。
「こんばんは、大野です」
そのやけに明るい声にしばらく躊躇って、ドアを開いた。
彩子もシャワーを浴びたせいか、ほんのりと頬を上気させ、先ほどの無表情な、蝋人形みたいな顔は和らいで、生気が蘇り「こんばんは」と、か細い声で繰り返し挨拶した。
「瀬川くん、夕飯はもう食べた」
口元に浮かぶ笑みは、以前とは対照的な、どこか世慣れた雰囲気を含んでいた。
「うん、今食べたところ」
「お酒は飲めるんだよね」
「飲めるけど…」
「この前実家に帰ったとき、ワインを持ってきたの。一緒にどうかと思って」
酒の誘いは明るく開放された感情を、雅之の中に生み出した。シャワーを浴びたばかりの彩子は色っぽく、目の前で何事もないように振る舞う彼女に呑まれ、急速に疑念が薄らいでいった。
以前食事に招かれたとき、一緒にビールを飲んだことがあった。あの日東急ストアで購入し、わざわざ用意してくれたらしい。そのとき彩子はワインが好きだと言って、今度一緒に飲もうとも言っていた。当てにならない約束だと思ったが、こうして実現することになった。
「今から」
「だめかな」
上気した薄紅色の頬に、薄手の黒いセーターの襟から覗いた鎖骨が、やけに色っぽく、口元が緩んで、これまで見たことがないくらいに、彩子は打ち解けていた。ついさっきの不気味な印象を忘れさせるほど、目の前にいる彼女は魅力的だった。
「いや、だめじゃないよ。今行く。ちょっと待って」
一旦部屋の明かりを消してから戻ると、雅之は今日の一件について都合よく考えた。きっと彼女はそれについて話したいことがあるのだろう。彼を納得させ、不安を解消するような、いざ知ればなんていうことのない、そんな事情があるに違いないと。
消臭スプレーの香りだろうか、彩子の部屋のダイニングには、人工的な薔薇の香りが漂っていた。シロッコファンが回っているから、臭いの強い料理の後かもしれないと思った。同じ香りは隣の八帖間にも漂っていた。
彩子はキッチンへワインを取りに行った。ローテーブルの前で雅之は、ベージュのローソファに座っていた。爪のような形状の半円形の背もたれに、円形の座面クッションを備えたソファが、テーブルの向こうにも置かれており、戻ってきた彼女がそこに座った。黒いセーターは深い夜のようだった。
今日のことについて、彩子が話すのを待っていた。この不安が去れば、至福の夜が待っている。雅之はワイングラスを受け取ると、グラスを合わせた。それに口をつける彼の様子を眺め、彼女は微笑んでいた。一瞬その目つきが、獲物を狙う猛禽類の鋭さを帯びたかに見えた。グラスから口を離すと、動揺する彼を不思議そうに見つめ、果して彼女は優しく微笑んでいた。
「飲みやすいワインだね」
「たしか瀬川くんは普段ビールしか飲まないんだっけ」
「そうだけど、他の酒を飲めないわけじゃないよ。ワインのことは全然詳しくないけど」
「わたしも詳しくないよ。うちのお父さんが好きなの」
「そういえば、大野さんのお父さんはどんな仕事をやっているの」
「土木関係の仕事。瀬川くんのお父さんは」
「松本の市役所の職員だよ」
「市役所なんだ。うちのお父さんの仕事はほとんど公共事業だから、市役所から受注するんだよ」
「へえ、そうなんだ。俺たちって、意外と共通点があるのかもね。まあ、俺の親父は市民税課だけど」
早くも彼はグラスを空け、二杯目を注いでもらった。
「あ、ごめん。もう飲んじゃった」
「いいよ、全然気にしないで」
「ほんとに飲みやすいね、このワイン」
「そうでしょ。このワインはすごく飲みやすいの」と、自分も一口グラスに口を付けてから「遠慮しなくていいよ。瀬川くんと一緒に飲もうと思って、家から持ってきたから」と言いながら、彼女は嫣然と笑った。うっとりと酔っているかのような、艶めかしい笑みを前にして、初めて見る彼女の嬌態に、雅之は有頂天になった。欲望と酩酊に理性は歪められ、彼女の背後に控える危険が、現実味を失いながらも、欲望を一層昂ぶらせ、さながら彼は、嬉々として蟻地獄へ飛び込んでいく蟻のようだった。
「そういえば、瀬川くんのご両親の歳はいくつなの」
「ずっと松本に住んでるよ」
「住んでいる場所じゃないよ。歳はいくつか聞いてるの」
雅之の意識が急速に不分明になった。
「すごく眠そうだね。大丈夫」
「う、うん…、ちょっとヤバいかも」
頭を強く振って、睡魔を払おうとするが、一瞬たりとも遠ざけられそうにない。
「横になっていいよ。無理しないで」
「いや、でも」
「いいから、気にしないで。しばらくしたらちゃんと起こしてあげるから」
「…」
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