第2話

 雅之が大野彩子を知ったのは今年の6月だった。富山ハイツに越して間もない頃、隣の部屋には背の高い大柄な女が住んでいた。見たところ彼女も若いが、一度挨拶を交わした後、いつの間にか入居者が変わっていた。アパートから出かけた折、階段の上り口で、その新たな入居者に出くわした。すれ違い様、あまりの美しさに、思わず見惚れてしまった。


 前期の試験勉強のときだった。隣の部屋のドアを叩く音が外から聞こえた。微かに振動が伝わるほど、音は次第に強まって、男の喚く声まで聞こえてきた。美しい隣人を心配した雅之は、玄関のドアを開き、外廊下に顔を出した。するとスーツを着た三十代半ばくらいの男が泥酔し、真っ赤な顔で「ミズキー、開けろー。ミーズキー」と喚きながら、隣の部屋のドアを蹴っていた。

「ちょっと、なにやってるの。うるさいよ」

 男は雅之を睨んで「うるせえのはおめえだろうが。関係ねーやつは、こんでろ」と、呂律の回らない口調で「おーい、開けろって言ってるだろ、ミズキ」と喚き出し、再びドアを蹴った。雅之は一旦ドアを閉めてから、警察への通報を検討した。この男が彼女の知り合いであれば、通報はまずい結果を生むかもしれない。そう考えると、もう一度ドアを開き「おい、警察に通報したぞ」と告げて、すぐにドアを閉めた。すると廊下は静かになった。ドアに耳を当て、階段を下っていく足音を確認し、再びドアを開いた。誰もいない外廊下を見渡すと、手すりから身を乗り出した。階下を眺めたところ、あの男の姿はない。ふいに後ろからドアの開く音が聞こえた。振り返った雅之は、怪訝な表情で、ドアの隙間から外を窺う女と目が合った。ひどく怯え、疑惑の眼差しを向ける彼女に「いや、俺じゃないよ」と、慌てて否定した。


「酔っぱらいがドアをガンガン蹴っていたんですよ。あれって、知り合いですか」

「違います。わたしの名前、ミズキじゃないし」

「あー、なんだ。そういうことか。あいつ、アパートを間違えたんですね」

 彼女はまだ半開きのドアから雅之を窺っていた。

「もう大丈夫ですよ。俺が追い払いましたから」

「帰ったんですか」

「ええ、きつく言っておきました。もう二度と来るなって。だから安心してください」

 そう言われても彼女は怯えていたが、互いに自己紹介をすると、態度が緩んで、感謝の言葉を述べた。彼女は大野彩子という、明立大学の二年生で、彼が神奈川学院大学の学生であることを伝えると、同じ横浜市内の大学生だから、多少は親近感を持ったようだ。

 

 雅之は翌日も彩子に会った。

 彼女は駅前のとうきゅうストアで夕飯の材料を揃えていた。

「大野さんは料理をするんだ」

 ほとんど料理を作らない彼はそう言った。彼女はただ「はい、作ります」と、語尾が消えるような儚い声で言うと、忙しなく視線を動かしていた。

「どんな料理を作るの」

「今日は鶏肉の味噌炒めを作ろうかと」

「ビールに合いそうだね」

 彼の買い物カゴの中にはビールが入っていた。

「大野さんは毎日自分で作ってるの」

「毎日じゃないですけど、大体自分で作ります」

「偉いね。俺なんてカレーくらいしか作れないよ」

「そうなんですか」

「上京前に母親から教えてもらった唯一の料理だからさ。週に三日はカレーなんだよね」

 彩子はぎこちない愛想笑いで困惑を隠しきれなかった。雅之は彼女の言葉を待っていた。しかしきょろきょろと視線を移ろわせるばかりで、彼女は何も言わなかった。

「得意な料理はあるの」

 表情を曇らせ、しばらく考えた後「まだないです」と言った。

「あー、まだないんだ…」

「すみません」

「いや、謝らなくていいよ。偉いと思うよ。ちゃんと自分で作ってるんだから。俺も栄養失調で死なない程度に、少しは料理を覚えないとまずいかも」

 このままでは会話が続かなくなることを予感した。

「そうだ、カレー粉を買わないと」

 そう言うと、彼は逃げるようにその場を切り上げた。ところが、スーパーから出たところで再び遭遇し、気まずそうに顔を背ける彼女に、話しかけるのは気が重かった。互いに気づいているのは明白なので、素通りするわけにもいかなかった。

「大野さんも今帰るところ」

 彼女は目を合わせず「はい」と小声で答えると、上目遣いで彼の顔を窺った。馴れ馴れしい男が嫌いなのだろうと、もやもやとした思いが渦巻いた。


 連れ立って、一緒にアパートへ向かうことになった。二人並んで歩いていると、彼女は唐突に「あの、もしよければ、ご飯をうちで食べませんか」と、聞き取りの難しい、とても小さな声を発した。

「ごめん、聞こえなかった。なんて言ったの」

「ご飯をうちで食べませんか!」

 今度は大きな声でそう言った。怒っているような口調だった。

「いいの」

「はい、昨日のお礼がしたいので」

 そう言うと、一仕事を終えたように、彩子は大きく息を吐いた。

「昨日本当に怖かったんです。助かりました」

 世慣れない彼女の言動から察するに、男はまだいないのではないかと、期待が高まって、歩きながら雅之は、横顔をまじまじと見つめた。その端正な顔立ちを間近で見ると、上側が丸味を帯びたアーモンド形の目は、凛々しさと柔和さを兼ね備え、鼻も輪郭も柔らかで、角張ったところはなく、肩まで垂れた黒髪をかき上げると、首筋の肌理の細かい白い肌から、微かに薔薇の香りが漂い、彼を虜にしてしまった。話すうちに次第に彼女の態度も打ち解けて、今ではあの酔っぱらいに感謝したい気持ちだった。ところが、それから数日後、すっかり浮かれていた彼の期待に反し、やがて男を伴いアパートに入って行く彼女の姿を見る羽目になった。

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