第二章『交錯する光』-2

 会議室を出る時、詩音は蓮の後ろ姿を見つめていた。彼の存在が、この祭りに新しい意味を与えようとしている。そう確信していた。

 翌日から、準備が本格的に始まった。記憶の結晶を作るため、街の人々から想いの収集が行われる。詩音は商店街を担当することになった。

「記憶の結晶、ですか」

古い本屋の主人が、懐かしむように言う。

「この街に住み始めてから、もう五十年になりますがね。毎日、光が揺らぐのを見てきました。でも、その度に新しい発見があるんです」

主人の言葉が、店内の空気をゆっくりと揺らめかせる。

「特に心に残っている景色はありますか?」

詩音が尋ねると、主人は窓の外を見やった。

「ああ、一つだけ。三十年前の真珠祭の夜のことです。あの時、街全体が真珠の中に包まれたような光景を見ました。まるで、この世のものとは思えない美しさでした」

その言葉を、詩音は丁寧にノートに書き留める。街の人々の記憶が、一つずつ形になっていく。

 商店街を回りながら、様々な記憶が集まっていった。魚屋の主人が見た、海面に映る逆さまの街。花屋の女主人が語る、光の中で踊るように見えた花びらの群れ。八百屋の少年が目撃した、空から降ってくるような真珠色の雨。それぞれの記憶が、この街の不思議さを違う角度から照らし出していた。

 教室に戻ると、蓮が窓際で集めた記憶を整理していた。彼の周りの空気が、より濃密に見える。

「どんな記憶が集まった?」

詩音が尋ねると、蓮はゆっくりと顔を上げた。

「不思議なんです。話を聞いていると、その人の記憶が見えるような気がするんです。まるで、自分もその場にいたかのように」

その言葉に、詩音は強く心を揺さぶられた。彼には他人の記憶が見えるのか。それとも、この街の記憶そのものが彼に共鳴しているのか。

「私もそんな気がする」詩音は正直に答えた。

記憶を集めていると、時折、自分の中に見知らぬ景色が広がることがある。それは他人の記憶なのか、それとも街の記憶なのか。

「この街は、みんなの記憶で出来ているのかもしれない」

蓮の言葉が、教室の空気を震わせた。詩音は窓の外を見る。確かに、建物も道も、全てが記憶で作られているように見えた。それは忘れ去られていく淡い記憶たちのようで、霞む景色と重ね合わせて見える。

 準備は着々と進んでいった。集められた記憶は、ガラス工房で特別な結晶に変えられていく。職人たちは、話を聞いてその印象を結晶の形や色に反映させた。完成した結晶は、どれも不思議な輝きを放っていた。覗き込むと、かすかに映像が揺らめくように見える。まるで本当に、記憶が封じ込められているかのように。

 設置場所も決まっていった。商店街の軒先、公園のベンチ、学校の廊下。街のあちこちに、記憶の結晶が配置されていく。光が当たると、結晶は美しく輝き、その周りの空気を揺らめかせた。

「綺麗」千夏が感嘆の声を上げる。

夕暮れ時、結晶が特に強く輝いていた。

「うん」詩音も頷く。

でも、どこか物足りなさも感じていた。まだ何かが、足りない。その時、蓮が静かに近づいてきた。

「僕たちの記憶も、形にしませんか?」

その提案に、詩音は息を呑んだ。確かに、今の私たちの記憶こそ、最も鮮やかなものかもしれない。

「私たちの見ている景色を、結晶に」

千夏も賛同する。三人の記憶が、新しい結晶となって街に加わることになった。

 制作の日、工房に集まった三人は、それぞれの記憶を語り始めた。蓮は転入初日に見た、海と空が溶け合う風景。千夏は友達と過ごした、光の揺らめく放課後。そして詩音は、日々感じている街の変化の記憶。職人は三つの記憶を聞き、特別な結晶を作り上げた。それは今までのどの結晶よりも深い輝きを持っていた。

「これを、最後の儀式で使いましょう」

蓮の提案に、全員が頷いた。結晶は祭りの最後、全員で海を見上げる時に特別な役割を果たすことになる。

 準備が進むにつれ、街全体が少しずつ変化していくのが感じられた。光の揺らぎが強くなり、海と空の境界がより曖昧になっていく。まるで、祭りの日を待ちわびているかのように。

「もうすぐだね」

下校時、千夏がつぶやいた。夕暮れの街を歩きながら、設置された結晶が次々と輝きを増していくのが見えた。「うん」詩音は空を見上げる。どこまでが海で、どこからが空なのか。もう誰にも分からない。その境界の曖昧さの中に、何か大きな予感が潜んでいた。

 教室に戻ると、最後の打ち合わせが始まった。祭りの進行について、細かな確認が行われる。特に最後の儀式は、慎重に計画された。

「あの時、きっと何かが起きる」

蓮の言葉が、全員の心に深く響いた。彼の確信は、どこか予言めいていた。まるで、既にその瞬間を見ているかのように。

 会議が終わり、夕暮れの街に出る。明日は祭りの前日。もう準備は整っていた。

「ねえ」蓮が突然、立ち止まった。

「明日、何か大きなことが起きる気がする」

その言葉に、詩音は強く心を揺さぶられた。彼の周りの空気が、より強く歪んで見える。

「私もそう思う」

答えながら、詩音は空を見上げた。明日、この街で何が起きるのか。それは誰にも分からない。でも、確かに何かが変わろうとしている。

 その夜、詩音は窓辺に立ち、街を見下ろしていた。設置された結晶が、星のように瞬いている。その光が、街の記憶を少しずつ塗り替えているようだった。明日、全てが変わる。その予感が、夜の空気を震わせていた。

 夜が明け、真珠祭前日の朝が始まった。いつもより強い光の揺らぎが、街を包んでいる。

「おはよう」

登校途中、千夏の声が潮風に乗って届く。振り返ると、彼女の周りの空気が普段以上に歪んでいた。

「今日は違う景色に見える」

詩音も同じことを感じていた。建物も、道も、空も、全てが溶け合おうとしているような。より深い真珠色を帯びて。

 校舎に着くと、既に多くの生徒が結晶の最終確認を行っていた。廊下に設置された記憶の結晶が、朝の光を受けて強く輝いている。

「あと一つ」蓮が静かに言った。

三人の記憶を封じ込めた結晶を、最後の場所に設置する時が来たのだ。選ばれた場所は、校舎の屋上。そこからは街全体が見渡せ、海と空の境界線が最も美しく溶け合って見える場所。

「ここに置くんですね」

担任が立ち会う中、結晶は慎重に設置された。光が当たると、中の記憶が揺らめくように見える。

「これで全て整いました」

美月の声が、屋上の空気を震わせた。準備は完了。後は明日を待つだけだ。

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