第一章 『揺らぐ朝』-1

 朝靄が街を包み込むころ、光は真珠の粒となって空を満たしていく。詩音は窓辺に立ち、世界の輪郭が溶けゆくさまを黙して見つめていた。これが鏡ヶ浦の日常だ。輪郭は溶け合い、その境界が曖昧になっていく。当たり前すぎて、もはやそれが美しいとすら感じない。詩音はそんないつもの風景を眺めていた。

 海と空の境界が曖昧となり始める六時半。鏡ヶ浦の街は、存在と非在の狭間で揺蕩(たゆた)うように姿を変える。古い商家の軒並みは、まだ誰の足音も宿さず、建物の輪郭が朝もやに滲んでは、水底から浮き上がる幻影のように揺らめいている。

 「また、始まる」詩音の囁きは、硝子に白く霞んで消えた。

 毎朝目にする光景なのに、胸の奥で何かが軋むような感覚がある。街全体が真珠の光を纏い始める様は、まるで記憶の中の風景のように儚く、それでいて確かな存在感を持って迫ってきた。

 代々続く呉服商の二階、詩音の部屋の窓からは大通りが一望できた。石畳の道は今、現実と非現実の境界に浮かんでいる。空気は水のように粘性を帯び、光は途方もない屈折を見せ始めていた。

「詩音、起きてる?」

母の声が階下から漂う。

「はい」

応えながら、詩音は制服の襟に手を伸ばした。鏡の中の自分が揺らぐ。それは街の空気が生む錯覚か、それとも自らの存在が揺らいでいるのか。最近では、そんな区別すら曖昧になっていた。窓の外では、通りを行き交う人々の姿が見え始めている。その輪郭も揺らいで、まるで深い水底から覗き見る世界のように歪んでいた。

 けれど、この街に住まう人々にとって、それは日常という名の非日常でしかない。

「行ってきます」

家を出る詩音を、母が見送る。詩音はいつもより早く家を出た。この時間の街には、まだ見ぬ光の変化が隠れているような気がしていた。

 商店街のアーケードをくぐると、空気がより濃密になる。ショーウィンドウに並ぶ品々が、朝靄の中でそれぞれの記憶を放っている。本屋の古い単行本からは読者の想いが文字となって零れ、八百屋の野菜は畑の記憶を真珠色の粒子として立ち昇らせる。先週から、その光はより鮮明になってきた。まるで、街全体が何かを語ろうとしているかのように。

 海岸沿いの道を選んで歩く。波が砂浜に打ち寄せるたび、砂粒が真珠色に輝き、そこから様々な時代の記憶が零れ出す。子供たちの笑い声、恋人たちの囁き、漁師たちの威勢のいい掛け声。詩音は時々、足を止めてそれらに耳を傾ける。街の記憶は、決して過去の反響だけではない。時には未来の予感めいたものさえ、光の中に見え隠れする。

「変わっていく」詩音は小さくつぶやく。

 光は日に日に強くなり、その質も変化している。かつては個々の建物や場所にしか宿らなかった光が、今では街全体を覆うように広がり始めていた。それは不安を感じさせる変化ではなかった。どちらかといえば、長い眠りから目覚めようとする生き物のような、穏やかで確かな律動を持っていた。

 そんな景色を、詩音は黙してただ眺めて歩いていた。

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