ショートショートvol.7『フローズンハート』

広瀬 斐鳥

『フローズンハート』

 反り立つ氷壁にアックスを打ち付け、強烈なブリザードに耐えながら、僕はたしかにその山頂を見た。切り立った岩の小塊。言ってしまえばそれだけだが、あれは人類がまだ、辿りついたことのない高みでもある。そこにいま、手が掛かろうとしているのだ。

 だが、その五十メートルが遠かった。

 ヒマラヤの暴風雪は、人間の力が及ばないレベルまでその力を強めていた。

 マイナス四十度、風速三十メートル、気圧は地上の半分以下。荒れ狂う雪のブラインドが日光を遮っており、見えるもの全てが灰色に変貌している。いわゆるデスゾーンという領域で、僕は限界を迎えつつある。

 指先の感覚は、少し前からなくなっていた。

 分厚い手袋をしているので見えないが、きっと血行不良で蝋人形のように真っ白になっているのだろう。

 僕は、そうあってくれ、と強く念じる。

 凍傷は初期段階ではぴりぴりと痛む程度だが、重症化すると取り返しのつかないことになる。

 脳裏によぎるのは、壊死して真っ黒になった、先輩アルピニストの手の指だった。ああなればもう、元には戻らない。先輩は結局、両手の手首から先を失った。あの時の絶望にまみれた顔は、僕にも少なからずショックを与えた。

 それでも先輩は義手を着けて高峰に登り あと、五十メートルだった。

続け、不屈のアルピニストとして、僕の遥か及ばないところにいる。ハンディキャップを背負いながらも全身全霊で闘う先輩の姿は、多くの人の希望となり、登山家たちの憧れとなった。

 だが、憧れてばかりはいられないのだ。僕だって、この山に登るために人生のすべてを懸けてきたのだから。


 体の動きは鈍くなっていた。それでも、気力を振り絞って数メートル登ると、少し開けたところに出た。畳一枚にも満たない広さだが、平坦な部分があり、なんとか腰を下ろすことはできる。

 山頂まであと三十メートル。最後のアタックに向け、体力を取り戻すべく、僕は小休止をすることにした。

 だが、これが致命的だった。一度休んでしまった身体を、あらためて動かすほどのエネルギーは残っていなかったのだ。全身が一気に冷え、腕が、脚が、鉄のように重くなる。

 カロリー補給のため、ザックから携行食を取り出そうと試みたが、ファスナーに手が掛からない。手のひら全体の感覚が消失しているのだ。

 高機能のダウンスーツに身を包んでいるにも関わらず、猛烈な寒気に襲われていた。ブリザードから身を守ろうと背中を丸めるが、気休めにもならなかった。

 タイムアップか。

 登るのに時間をかけすぎたのだ。凍傷対策にと、こまめに手足を温めていたのがアダとなったのかもしれない。きっと、指を、いや、手足を捨てるくらいの覚悟がなければいけなかった。

 鼓動が遅くなる胸に去来したのは、みっともない生への渇望だった。単に「死にたくない」というわけではない。何も成し遂げずに死ぬことが怖かった。

 強風にあおられ、身体が傾く。力が入らず、されるがままになる。

 ついに僕は、崖から転落した。

 身体のあちこちを氷壁や岩にぶつけながら、山肌を滑るようにして落ちていく。末梢神経が凍っているのか、不思議と痛みはなかった。

 滑落はしばらく続き、最後は雪溜まりに足から突っ込んだ。腰まで雪に埋まり、まったく身動きが取れない。

 僕は乾いた笑い声を上げる。その声は雪に吸いこまれ、響くことなく消えた。惨めな最期だ。体温が急速に奪われ、全ての感覚が鈍麻していく。

 覚悟がまるで足りなかった。必然の敗退だ。

 もし、もう一度、挑戦することが叶うなら——うつろな頭で願ったそれは、半ば来世への祈りだった。

 だが、死を目前にして、ある変化が起こった。ぼやけた視界が、にわかに明るくなったのだ。

 天から迎えが来た。僕は低下した意識の中で、自然とそう思った。

 それが救助隊のヘッドライトだったことを知ったのは、担ぎ込まれた病院のベッドの上でだった。

 

 △ △ △


「本当にいいんだね」

 私は、手術室に向かうストレッチャーに寄り添って歩きながら、台上の患者に訊く。

「いいんです。やってください」

 ネパール帰りだという青年は、これから過酷な運命が待ち受けているにも関わらず、気丈に笑う。

「今ならまだ、やめられるよ」

 これはきっと、術前の医者としてはまったく正しい発言ではない。患者に余計な不安を抱かせるだけだ。

 だが、硬質な手術室のドアが近づいてくるのを見て、私は言わずにはいられなかったのだ。

 それでも、彼は頑なだった。

「あの山に登るためには、これしかないんです」

「しかし……」

 彼の言う「あの山」が一体どの山を指すのかは分からない。なんとかというヒマラヤの未踏峰だと聞いた気がするが、それは自らの手足を犠牲にしてまで挑む価値のあるものなのだろうか。

 私は小さくかぶりを振る。

 たしかに過去、ひどい凍傷を負った患者に同様の手術を施したときは、なんとか成功した。

 かといって、今回も同じようにうまくいく保証はどこにもない。あの患者は手だけだったが、この青年は、四肢の全てを失おうとしているのだ。

 手術が終われば、彼は辛いリハビリに臨む。義肢を使いこなせるようになるまでの長い時間、ひどい痛みにも襲われるだろう。これはそういう手術であった。

 だが、数十ページにわたる手術同意書にサインしたのは彼自身なのだ。鉄の意志を感じる、強い筆致だった。

「先生なら、僕の気持ちを分かってくれますよね」

 ストレッチャーの上から、彼はじっと私の目を見て言う。ついに、私は何も言えなくなった。

 彼が手術室に消えたのを見届け、私も術前消毒の準備に向かう。院内は、これから始まる大手術を前に騒がしかった。

 待合フロアには、下を向いて泣き続ける女性がいた。患者の母親だ。その肩を抱く父親の顔には、悔しさとも諦めとも言えない感情が滲んでいる。

「なんでこんなことになってしまったの……」

 悲鳴のような、母親の言葉。

「あいつの選んだ道だ。俺らには、もう、どうすることもできない」

 父親はまるで自分に言い聞かせるように諭す。

 私は二人の姿を脳裏から振り払い、手術室に入った。

 手術室では、すでに患者が静かに横たわっていた。

 四肢すべての切断手術は、言うまでもなく、非常に危険だ。しかも、それが……。

「先生、お願いします」

 しばし固まっていると、看護師に促される。

 事ここに至っては、仕方ない。患者が望んでいるのであれば、俺はプロとして、プロの仕事をしなければならない。

「これより、ユーイング式四肢完全置換手術を行う」

 私は宣言して「患部」を見る。

 五体満足のきれいな手足だ。

 しなやかな筋肉は、ひたすらに山を登ることでしか付かないものなのだろう。半年前、山から落ちたときにできたという打撲傷も問題なく治っている。

 この健康な四肢を切断し、カーボン製の義肢に入れ替える。

 それが、我々がやろうとしている手術だった。

 マスクの中で小さくため息をつく。

 ぼやぼやしてはいられない。隣の手術室には、生体移植を待つ患者たちがいる。

 いずれも何らかの理由で生身の手足が欲しかった患者だ。彼らはもちろん、この手術が行われることを心から喜んでいる。それと、貴重なサンプルユーザーを手に入れた義肢メーカーも、神妙な顔をして喜んでいる。そしてなにより、四肢を失う者自身もそれを望んでいるのだ。


 思うに、山が凍らせてしまったのは、彼の手足ではなく、心なのだろうと思う。

 だが、それを憐れむことはできない。

 私の心もまた、凍りついているのだ。いくら綺麗事を並べ立てようとも、思い通りに筋繊維を断ち切れたときの音は、私に充足感を与えてくれるのだから。

 廊下を移動するストレッチャーの上で、彼は私の目を真っすぐに見すえていた。

 しばし目を閉じて、そしてまた見開く。

 私は自分のこめかみに手をやり、皮膚からわずかに突き出た調節ネジを回す。術野が拡大され、私の目に鮮明に映し出される。

 医師としての名声を得るため、両眼を高性能義眼に取り替えた私は、すでに彼を咎められる領域にはいない。

 医療用ノコギリが血飛沫を降らせる。

 涙にくれる両親の姿を思い出す。

 義眼は、涙を流さない。

 ただ、温かい血が流れていくだけだった。


(終)

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ショートショートvol.7『フローズンハート』 広瀬 斐鳥 @hirose_hitori

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