第21話 付き纏うトラウマ
到着してすぐのイレーナは、怪我をしていた男に駆け寄り、急いてはいても冷静に、この状況を判断してすぐさま治癒を始めていった——。
指の先まで力を込めた左手を男の頭にかざし、右手は自身の膝上に手のひらを天に向けて置いた。
男の頭上からは薄らと黒い霧が滲み出し、イレーナの左手へと吸い込まれていく……。
右手には黒い水風船のような物がどんどん膨れ上がってきて、薄い膜に溜め込まれたものが今にも噴き出し破裂してしまいそうになっている。
……私の知っている治癒術とは全くの別ものだ。
イレーナは瞬きもせず、一点に集中している。
だけどそれは、意識して何かを直視してはいない。
……言うなれば男の向こう側でも射抜くような、そんな目つきだ。
黒い霧を吸い取りきった後、いつもの穏やかさを右手に宿し、イレーナは治癒を施しだした……。
身軽な仕様ではあるけれど、品の良さが散りばめられたイレーナのドレスの裾に、しゃがんだことで付着した泥が滴っている。
そんな事もお構いなしに、男の怪我を何事もなかったかのように、完治させていった——。
……お見事。その一言に尽きる。
男は手首や肩をぐるんと回し、取り戻された体を確かめていた。
隣にいる騒がしい女子は男の血が付いていただけで、怪我の一つもないようだった。
初めは歳の離れた夫婦かと思ったけれど、二人は同じ匂いだし、何より『お父さん』と呼んでいたのを知っていた。
親が子を守る……その力は絶大なものなのかもしれない。
父である男は体格に恵まれたわけでも、戦闘に秀でているわけでもない。
……だけど、娘には傷一つ付けられていなかった。
自分の護衛とはまるで違う……。
ただ運任せにここまで来た気がしている私にとって
目の前にある模範は、自分の無能さを痛感するものだった……。
腕力などでは測れない強さに、猛省させられる。
重度ではなかったにしろ、怪我まみれだった男を刹那的に完治できるのは、イレーナの才覚を存分に見せつけられたようだった。
引き摺っていた男の脚は、昔仕事で負った古傷だったらしく、その後遺症まで治したものだから、イレーナは二人からありったけの賞賛を、ふんだんに浴びることになった。
「……あ、あの、もう気になさらないでください。治癒術を扱う者として当然のことですので……っ」
イレーナは後退りしながら、これ以上は来てくれるなと言わんばかりに親子に向かって両手を小刻みに振り、この場から程よく離脱しようとしていた。
珍しくイレーナの目元が引き攣って、声も時折ひっくり返っている。
親子二人はイレーナの言葉に全く耳を貸す様子もなく、凄んでイレーナに近づいていき自身の思いの丈を提案をしてきた。
「旅の方……差し支えがなければ、ここから近くのルターニヤに寄ってくださいませんか。是非ともお礼をさせていただきたいのです」
……この親子は糸を編んで布を形造り、他所へ卸す事を生業としているらしく、今もロゴンからの帰りだったと言う……。
行き先が被ってしまっては、要らぬ御礼も断りづらい。
私は、機転を利かせたつもりで、布の事なら何でも任せてほしいと言う男に、イレーナのドレスに付いた泥汚れは何とかならないかと相談した——。
快諾した男は、出発に向けて空になった荷車を押し出した。
泥濘んだ地面が邪魔をするのか、男は一歩ずつ丁寧に歩みを進めている。
……この調子で行けば、到着する頃に日が暮れていることは明らかだ。
先の事を懸念した私は、男から荷車を奪い取るようにして、荷台に親子を乗せた。
イレーナに魔獣の手綱を預け、私達は風を断ち切るように走り出した——。
荷車の車輪は、この速さに物ともせず潤滑に回転し続けている。
湿地に衝撃が上手く吸収されているのだろう。
ここが乾いた地形であれば、今頃車輪は崩壊しているはずだ。
ティラ達の足もそれと同じ原理なのか、思った以上の速さで駆けていた。
イレーナ達の速度にぴったりと張り付くようにこちらも走り続ける——。
……私はこの時点で、一抹の不安が頭を過ぎり、『湯浴み』の三文字が鎮座した。
泥まみれではなく、泥そのものになった私にはこの三文字が必須になっていたからだ。
私は普段、順番に一箇所ずつ身体を洗うようにしている。
一度に水に濡れる部分を極力減らす為に……。
そうすることで、私の水への拒絶がほとんど緩和されるからだ。
……だけど今回は、そんな自分都合な時間を設けている暇はない。
かといって、ここまでくると湯浴みをしないわけにもいかない……。
私は……、並々ならぬ覚悟を胸に携えて、ルターニヤへと脚を動かし続けた——。
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