第三章 崖上の邂逅と秘めた衝動

 崖の上で、俺と鬼族の青年が向かい合う。白銀の髪が風に揺れ、満月の光がその姿を静かに照らしていた。剣を握る手は震え、どうしても攻撃に踏み切れない。鬼は人間の敵であり、母を奪った種族でもあるはずだ。それなのに、目の前の彼を斬ることが正しいとは思えなかった。


 俺がほんの一歩足を進めると、彼の赤い瞳が鋭く細まる。低くかすれた声が夜の静寂を破った。


「……なぜ、剣を振るわない?」


 問いをぶつけられても、答えなど見当たらない。ただ、心の奥が否定しているだけなのだ。これまで“鬼は敵”と教えられてきたにもかかわらず、ここで剣を振り下ろすことを身体が拒む。


「わからない。だけど、今はお前を斬りたくない。それだけなんだ……」


 小さく告げると、鬼の青年はわずかに表情を緩めかけた。しかし、苦悶の色が再び浮かび、膝をついてしまう。彼の身体から黒い靄のようなものが漏れ出し、まるで空気が凍りつくように重く沈んだ。


 まばゆい月光が、その黒い靄の禍々しさをはっきり映し出す。思わず駆け寄ろうとした俺を、彼は手で制する。肩で息をする姿に、尋常でない苦しみを感じた。


「近づくな……俺は人間を……愛してはいけないんだ」


 その台詞が胸を刺す。愛してはいけないとはどういうことか。問い返す間もなく、背後から父ウラノスと数名の騎士が現れ、一気に殺気を放つ。


「アキト、ここから離れろ!」


 父が剣を握りしめて叫ぶが、俺はすぐに動けない。鬼が敵であることは理解しているが、今この瞬間の彼を斬り伏せるのが正解だとは到底思えなかった。


 騎士たちは矢を番え、鬼へ一斉に狙いを定める。俺は咄嗟に声を上げた。


「待ってください、話を――」


 しかし父が腕を引き、「黙れ」と叱責する。


「貴様の母を殺したのは、この鬼どもの一族なんだ! 情をかければ、こちらがやられるだけだぞ!」


 確かに、母は鬼族の襲撃で命を落とした。忘れようにも忘れられない悲惨な光景は、俺の人生を大きく変えた。それでも、目の前の彼がそれに関わったかどうかはわからない。


 すると苦しげにうずくまっていた鬼の青年――ガクが鋭い目をこちらに向ける。


「はっ! やはり、人間は俺たちをひとまとめにして憎むんだな……」


 怒りと悲しみが混ざったその声が、まるで棘のように胸に突き刺さる。否定したいのに言葉が見つからない。その隙を突き、父は剣を構え前方へ踏み込む。


「もう黙れ。今ここで終わりにしてやる!」


「やめてください!」


 必死になって腕を掴み、「こいつは本気で俺を斬るつもりがなかったんだ!」と訴える。父が目を剥いて怒鳴る。


「アキト、貴様……鬼の肩を持つというのか!」


 その一言が、戦場の緊張を一気に高める。周囲の騎士たちも動揺を隠せないようだ。


 するとガクは痛みに耐えるように立ち上がり、毅然と宣言する。


「人間……俺の名はガク。もし殺すなら構わないが、俺たち鬼族が望んでいるのは、それだけじゃない……」


 切実な響きがわずかに空気を揺るがすが、遠くで雷鳴のような轟音が響き、別の地点でも戦いが激化しているようだ。父もそちらに気を取られ、一瞬動きが止まる。その隙を見逃さず、ガクは体を引きずるようにして森の奥へ逃れた。


 父が「追え!」と怒鳴っても騎士たちは混乱し、俺もその場を動けず、ガクの背中を見送るしかなかった。満月を浴びた彼の瞳は一瞬だけ振り返り、深い哀しみを宿しているように見えた。


 その夜、王国軍は激しい抵抗を受けながらも、黄昏の山脈の一部を制圧した。しかし勝利の代償は大きく、負傷者が続出し、多くの兵が命を落とした。野営地で治療を手伝う俺の心は、深い虚無感に苛まれている。もし俺があそこでためらわなければ、あるいはガクを捕えるか、逆に救うかの道を開けたのだろうか――そんな思いが頭を巡って離れない。


 やがて父がテントに姿を見せる。険しい顔は怒りを含んだままだ。


「アキト、軍議が開かれる。お前も来い」


 その一言に従い、黄昏の山脈の麓に設けられた本陣へ向かう。そこではルーファス陛下、セディス、そして各部隊の将官たちが鬼族への方針を協議していた。


「今こそ砦を攻略し、朱煌石の利権を確保すべきだ」


「しかし被害が増える。兵を休ませる必要があるのでは?」


 意見が割れる中、父は大声で主戦論を唱え、セディスは「鬼族にも和平を望む者がいるはずだ」と反論する。だが国王ルーファスは「朱煌石を諦めるわけにはいかん」と厳しい顔を崩さない。


 黙って聞いているうちに、俺はどうしても耐えられなくなった。


「陛下、“王家の呪い”を解く方法があるなら、鬼族と和解はできないでしょうか? 俺は――争い以外の道を探したいのです」


 一瞬、場がどよめく。父が「アキト、何を言う!」と声を荒らげ、将官たちも目を丸くする。しかしセディスだけは落ち着いた表情で続けた。


「実は、古文書に“満月の夜、真実の愛が結ばれるとき呪いが解かれる”という一節がありましてね。運命の赤い糸が大きな鍵を握るようですが……」


 夢のような話だが、あの苦しげなガクを目にした俺には、この言葉が事実味を帯びて響いた。もし本当に呪いが解ければ、鬼族との衝突を止められるかもしれない。


 だが軍議は平行線のまま、父は砦への即時突入を主張し、陛下も鬼族に屈する意思はない。結論は出ずに夜が更ける。俺はテントに戻り、燃え尽きたような疲労感を覚えながらも眠れなかった。満月が薄雲に隠れたり現れたりする夜空を見上げると、ガクの言葉が頭から離れない。


「鬼族が望んでいるのは、戦いだけじゃない……」


 もしそれが真実なら、助ける方法はあるのだろうか。愛してはいけないと嘆いた彼を、どうすれば救えるのか。


 深夜、ランプの淡い光がテントの布を揺らし、外では兵たちの寝息が混じる。胸の奥で高鳴る鼓動は、敵味方の垣根を超える行為への恐れと、それを求める切実な思いが交錯している証拠だった。


「ガク……」


 小さく名を呼んでも応えはない。けれど、もし呪いを解く術があるのなら、俺はどんな手段を使ってでも探し出したい。父の意志でも国王の命令でもない、“自分の信念”を貫くために。


 夜風に冷たい森の匂いが混じり、遠くの山稜がわずかに銀色を帯びる。次に満月が雲間から顔を出すとき、俺はもう二度とためらわない。――その思いを胸に、深い闇を見つめ続けた。

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