釣りをしていたら溺れて転移したので異世界のヌシを狙ってみる
MKT
プロローグ
土曜日の早朝。まだ日も昇りきらない渓流のほとりに、ひとりの男がいた。
名前は岸井 守(きしい まもる)、自他ともに認める“釣りバカ”だ。普段はごく平凡なサラリーマンだが、休日ともなれば初夏の空気を胸いっぱいに吸い込み、釣り竿とタックルボックスを片手に自然の中へと繰り出すのが何よりの楽しみ。
「よ〜し……今日こそは一発大物狙うぞぉ〜! 川魚の引きってサイコーだからな。ここじゃまだ誰も釣ったことないサイズが眠ってるはずなんだよな〜」
守は笑みを浮かべながら、流れのある場所を見定め、釣り竿を構える。これまで何度も通いつめている渓流だが、まだ見ぬ大物との対峙を夢見て、彼のテンションは最高潮だった。
その瞬間――。
「おっ、アタリだ! かかったか?」
ぐいっと強い引きが来た。すかさず合わせを入れると、竿先が大きくしなって唸り声を上げる。
――あまりの引きに、守は興奮のあまり足元の岩で滑ってしまった。バランスを崩した身体は、次の瞬間には容赦なく冷たい水流へと叩き込まれる。
「うわっ、やっべ、流れ強っ……ごぼっ!」
もがく間もなく強い流れにのまれ、視界が水泡で覆われていく。水温は低く、呼吸はできない。全身から力が抜け、意識も闇に沈みかけた。そのとき、頭の奥で何かが途切れるようにプツンと音がした。
次に意識が戻ったとき、守はゆっくりと瞼を開ける。周囲はやけに明るい。さっきまで渓流にいたはずなのに、深い緑に囲まれた場所……いや、森……? なんだか景色が日本の山林と違う。
「なんだここ……? さっきまで川の中で溺れて……まさか俺、生きてるのか?」
身体を起こそうとすると、すぐ隣に倒れていたのは見覚えのあるタックルボックスと、愛用の釣り竿。そのまま大事に抱え込むようにして運ばれたのか、奇跡的に両方とも無事だった。
ただ、何か違和感がある。見下ろすと――釣り竿の形がさっきよりちょっと長くなっている気がする。
「……気のせい? それに、ここどこだ?」
自然と声に焦りが混じる。すぐ目の前の茂みががさり、と動いて、弓矢を手にした一人の女性が姿を見せた。
「やっと目を覚ましたのね。大丈夫? 私、リーリア・ドローシアっていうの。あなた、川の下流で流されてきたみたいだけど……怪我してない?」
声をかけてきたのは、美しい銀髪に若草色の瞳を持つ女性。森での狩りに慣れたような軽装に見えるが、弓と矢筒が本物の冒険者然としている。
「いや……平気、だと思う。えっと、俺は岸井守。日本人――あ、いきなり言ってもわからないか……。と、とにかく助けてくれてありがとう」
戸惑いつつ礼を言うと、彼女は「いいのよ」と優しく微笑む。
「それにしても、やっぱり見たことのない服装ね。あなた、変わった釣り道具を持ってるわね。まるで魔法の道具みたい……」
「まほう? いや、これ単なる釣り竿だよ。まあ、普段から俺はこれで魚を……って、なんだ、この竿……」
思わず手に取った釣り竿をしげしげと見つめる。確か渓流用の短めのロッドだったはずが、さっきより若干長い……ような気がする。しかも手元のタックルボックスを開けると、使ったはずの仕掛けがなぜか元通りに揃っているのだ。
「う〜ん……状況がよくわかんねぇけど、俺は釣りをしてて溺れただけなんだけどなぁ。気がついたらこんな場所に流れ着いてるし、竿まで変だ……」
「ふむ。どうやら訳ありさんって感じだな」
不意に低く響く男の声がして、振り向けば大柄な剣士が仁王立ちしていた。彼の名はガーラン・オールブレイド。リーリアの連れらしく、荒っぽい外見とは裏腹に少し心配そうにこちらを見下ろす。
「おい、大丈夫か? 浮かない顔してんぞ。それにしても、その竿……なんだか妙に存在感があるじゃねえか。なんか隠してんじゃねえの?」
「いやいや、ただのロッドなんだよ。俺は釣り人で――」
「釣り? この辺りじゃ、釣りなんて暇人か物好きがやる程度だぞ。オレも魚は好きだが、魔物だらけの川で釣りなんかしてられっかって話だ」
ガーランはまるで信じられないとでも言うように、鼻で笑う。だが守はまったくひるまなかった。むしろ“釣り”の話題が出た瞬間、落ち込んでいた表情に活気が戻る。
「なんだと……? 釣りが……暇人……? いやいや、釣りってのは奥が深いんだぞ! 狙う獲物やポイント、天候や水温によって仕掛けを変える、アクションを工夫して――」
「ま、待って待って。落ち着いて……」とリーリアが慌てて止めに入るが、ガーランは呆れ顔で「こいつ、相当イカれてんな……」と小声でぼやく。
――そう、岸井 守は釣りに関しては一歩も譲らない“釣りバカ”だった。たとえここが見知らぬ世界だろうと、彼の釣りへの熱意は止まらない。
だが、彼はまだ知らない。この奇妙な世界で、彼の“釣りバカ魂”と愛用の釣り道具が、とてつもない“チート能力”を秘めていることを。そして、それがやがて世界の運命さえ左右することを――。
ここから始まるのは、「渓流で溺れたはずが異世界に流れ着いた男」と、「釣りなんて大したことない」と思っていた冒険者たちが巻き起こす、とびきり奇妙で、どこかエキサイティングな物語。
釣り竿はなぜか形状を自在に変え、タックルボックスの道具は使っても使っても補充されていく。
釣りバカ・岸井守は果たして、この未知なる世界でどんな大物を釣り上げてしまうのか。
すべてはここ――異世界の川辺から始まる。
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