後宮武侠!~槍の公主は夜明けを夢見る~
山田あとり
愛多憎生 ・あいたぞうせい・
第1話 槍の使い手は夢を見ない
初春。
二本の梅が咲きそめ優雅なそこで今、荒々しい槍音が響いた。
「――ハッ!」
軽い掛け声とともに踏み込んだのは少年だった。
高貴な子弟の戦衣は、深緑の
「甘いです!」
繰り出された槍を軽く受けとめたのは、緋色の
女はカカンッと少年の槍をはじく。その手を返しざま、突きを脇へ。
身をひるがえし避けた少年、穂先を横薙ぎに反撃し――。
「――
横から叱責の声が飛んだ。
少年はギクリと止まる。鈍った槍がはじかれた。
カラーン!
屋根まで吹っ飛んだ槍は黄色い瓦に当たり、間抜けな音をたてて落ちた。
「またそのような格好をなさって、璃月さま――」
叱りつけたのは中年の女官。怒りながらウウッとうめき片手で自分の腹をつかんだ。
胃の痛みに顔をしかめるこの女官は
「彩天、具合が悪いの? だいじょうぶ?」
気づかった璃月の声は愛らしい。少年かと見えた璃月の正体は、十五歳の少女なのだった。
「だいじょうぶではございません!」
ここは
はつらつと戦っていた璃月は、皇帝と淑妃の間に産まれた娘――つまり
「ああもう、
しかつめらしく苦言を呈する彩天だったが璃月は悪びれない。
「あら、私がこんななのは外に漏れてないでしょ?」
「人知れずとも、こんなでいらっしゃるのは困ります! 春芳殿も甘やかさないで下さいませ!」
璃月と槍を交わしていた女は春芳という。親ほど年長の彩天だったが、二十歳の春芳には「殿」の敬称をつける。それは相手が武官だから。春芳は後宮を守る娘子軍にて十人隊長の任を拝していた。
「申し訳ありません、彩天さま。ですが」
文句を言われた春芳はケロリと言った。
「璃月さまにも息抜きがお入り用でしょうし」
「息抜きは、もう少しおしとやかな事でいたしましょうか?」
「……だそうです。璃月さま、ご一考下さい」
春芳が拾って差し出した璃月の槍。稽古用に先端を布でくるんである。受け取って、璃月はクルクルと回した。やはりしっくり手に馴染む。
「これぐらいは身を守るためのたしなみだもの。人前ではちゃんとするから」
「そうでした!」
彩天の声が裏返った。人前に出る用事ができて璃月を探しに来たのだ。
「皇帝陛下がこちらへお渡りだそうです。身支度をなさらなければ」
「お父さまが?」
佳国の皇帝――といえばそれは、璃月の父。だが同時にもっとも体裁をととのえなければならない相手でもある。
「はぁーい。ならガツンと気合を入れて美々しくするわ!」
「……その雄々しい物言いはおやめ下さいませ」
彩天は情けなさそうに小言を絞り出した。だけど璃月は唇をとがらせる。父皇帝のことは嫌いじゃないが、ぞろぞろ着飾るなんて気合を入れなきゃできない。
そんな璃月の言い分を母の
璃月は冷たい槍のきらめきに魅せられている。
一振りすれば後宮の空をしなやかに斬る穂先。そんなものを愛する璃月はたぶん――女の園に咲く花ではいられないのだ。
美しく身なりをととのえた璃月は、麗珂妃の居間の入り口で皇帝を迎えた。
髪もきちんと髷に結い上げた。
「お父さま、ご機嫌うるわしく」
璃月は父の前なのでことさらあどけなく笑んでみせた。皇帝は娘に甘えられるのが好きなのだと璃月はなんとなく知っている。でも麗珂妃はそっとたしなめた。
「璃月、陛下からお声が掛かるまでは控えなさい。いつまでも子どものような振る舞いはいけませんよ」
「よかろう淑妃よ。璃月は我が末の娘、幼い者として手元に置いておくのも一興だな」
至高の座にある父は鷹揚に笑った。
もう姉公主たちは嫁ぎ、誰も残っていない。かくいう璃月だってそろそろ年頃だ。今日にも政略結婚の命が下るかもしれないと怖れていたが、どうやら違うのか。
長椅子に着いた皇帝に隣を示され、麗珂妃がそっと並ぶ。はにかんだ笑みで親しさに喜びを示す母は、そんなところも愛されているのだろうと思った。璃月なら愛した男とも槍を交えかねないけれど。
一礼して向かいに腰をおろした璃月はうるんだ瞳でおねだりしてみせた。
「私のこと、どこへもやらないで下さいませ。嫁いだらお父さまにもお母さまにも、お兄さまにもなかなか会えなくなってしまいます。そんなの寂しいわ」
「ふっはっは、そなたはいつまでも甘ったれだな」
まんざらでもなさそうに皇帝は目を細める。ひたすらに庇護を求めるだけの娘は愛おしいものだ。
二十数年も帝位を背負ってきて疲れたのかもしれない。酒色に溺れるというほどの行状はしていないが四十七歳の体を重く感じることも増えてきた。なじんだ妃と娘のもとでくつろぐのは貴重な時間だ。
聡明で控えめな淑妃。美しく育った娘。息子ならば長じるにつれ頭の出来や野心が気になるが、ここではそんなこともない。
「璃月に〈夢見〉の力があるとなれば嫁がせる家も慎重に選ばねばならんが。どうだ、いまだ力はあらわれぬままか」
「陛下……」
麗珂妃のまなざしが憂いをおびる。璃月もしょんぼりと肩を落とした。
夢見。それは母方の
璃月の母、麗珂は朱の一族から後宮に上がった。朱家は大身ではないが一目置かれる一族だった。
これから起こるであろうことを夢に見る。それが〈夢見〉。もちろん出来事そのままが夢に現れるわけではなく夢を解いて占を立てるのだが、朱家は代々その技に長けてきた。
朱麗珂という女性が淑妃の地位にあるのも〈夢見〉のおかげ。三十八歳の麗珂妃は現在、皇帝の相談役のような立場におさまっている。妃が話した夢解きを心に留め、皇帝は政務にあたるそうだ。
皇帝が揺玉宮を訪れると璃月にも同様に〈夢見〉について下問があるのが通例だった。しかし――今のところ、璃月は意味のある夢を見ることが出来ていない。
「……申し訳ありません、お父さま。私も
「よいよい。そのような異才などなくともそなたは公主だ」
皇帝は璃月に多くを求めない。もし璃月にその力があれば、公主という身分も相まって処遇に悩むことになっただろう。滅多な家に異能を渡すわけにはいかないから。
その点ごく普通の公主でいてくれて皇帝としては都合がいいほど。だが璃月自身はみずからの無才を歯がゆく思ってしまう。
「〈夢見〉はそうそう現れる力ではないのだろう?
父は璃月をねぎらうと退出させた。これから母に夢の話を聞くのだろう。
皇帝が口にした「景琛」とは第四公子のことだ。同じく麗珂妃から生まれた二十歳の兄。
その人を引き合いに出されても璃月としては複雑な気分だった。景琛はおそらく自身の器量を隠し、偽っているのだから。
兄のことが大好きな璃月はその真似をして武術に興味を持った。璃月も娘子軍に勤めたいと真剣に相談したことすらある。その時は額に手をあて熱をはかられたが。
今なら璃月にもわかる。兵部上将など大きな兵権もない飼い殺しの名誉職だ。それに甘んじる景琛は、ひたすらに宮廷で生き延びる道を探っているのだった。
現在は武芸にうつつを抜かす第四公子として。
今後、太子である長兄が即位したあかつきには、皇位を脅かさないのんきな皇弟として。
誰からも警戒されず、恐れられない身の上でいる。それが景琛の目標。
殺されないという、ただそれだけのことがいかに難しいか璃月も景琛も知っていた。
――だって後宮では、無事に生まれただけでも幸運なのだから。
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