第2話
五時間目が始まると、教室は再びしんと静かになった。
四時間目をサボって眠っていたために眠気はなく、蒼人は真面目にノートを取ることができた。昨夜は兄とゲームに熱中してしまったために一睡もしていなかったのだ。
ノートから顔を上げると、前の席に座る唯華の華奢な背中が目に入った。
冷たい。
暗い。
けっこう美人だけど性格悪そう。
多分、それが小野寺唯華に対するクラスメイト全般の評価だ。彼女は自分がどんな風に見られているか多分よく分かっている。その評価を受け入れて変えようとしない彼女の態度はクラスメイトに対していっそ気持ちいいくらいに愛想がないのだ。みんなはそれを「態度がでかい」「お高くとまっている」というが、蒼人には彼女があえて自分を冷たい人間と思わせて人を寄せつけないようにしているようにしか見えなかった。
唯華は冷たい人間ではないし、性格も悪くない。多分。でも暗いというのはちょっと当たっている。
蒼人は唯華の親友以外のクラスメイトの中では自分が一番彼女を理解していると勝手に自負していた。唯華は忘れているかもしれないが、蒼人は彼女と初めて出会ったときのことをよく覚えている。
今から二年と少し前、入学式の三日後のことだった。
蒼人はその日、毎食後に飲む薬を家に忘れてきたことに昼食が終わってから気づき、体調を急変させてしまった。急にやって来た頭痛とめまいのために立ち上がることができず、昼食を食べた自習室で机に伏せったまま身動きがとれなくなる。徐々に身体がだるくなって、どうしようもなくなった。
病気のことを仲良くなったクラスメイトには知られたくなくて、食事はなるべく親友としかしたくない。母方の従弟でもある親友の桑名聡一郎は蒼人の病気を理解しているので一緒にいると楽なのだが、今回はそれがよくなかった。この日に限って聡一郎は私用で休みだった。
自習室には生徒が何人か顔を覗かせたが、入学して間もない一年生には先輩も同学年のみんなも関わりあいになりづらいのか、それとも蒼人がぐったりしているのを面倒事だと思うのか、誰もが無言のまま去ってしまう。
そのころの蒼人は父との関係に少し気まずいものがあって(それは高校三年の現在もだ)高校入学と同時に十歳年の離れた兄とその奥さんと暮らすこととなった。父に顔も合わせたくないと思われるほど嫌われたのかと、どん底まで落ち込んでいた。そんなところにたくさんの人から無視されつづけるというのはかなり堪える。
気分も体の調子もどん底。蒼人は悲しくて、苦しくて、辛かった。
そこに唯華は親友と二人でやってきた。勢いよくドアを開けて口も開いたのは唯華の親友、小林佳奈子だった。
「はじっこ使ってもいいかな」
親しみやすい口調は蒼人の足元を見て同じ一年生だとわかったためだろう。指定のシューズは学年によってラインの色が違っていて、学年を見分けることができるのだ。
蒼人は返事ができず、少しだけ顔を動かした。
佳奈子は驚いた顔で入り口に突っ立っていたが、その横をすり抜けて唯華は戸惑うことなく蒼人に近づいてきてしゃがんで目線を合わせてくれた。
「どうかしたの?」
怒ったような、不機嫌そうな表情とは裏腹に、優しい言葉だった。
「具合が悪いなら保健室で休んだほうがいいと思うよ」
唯華の表情に心配の色がにじむ。蒼人の顔色が相当悪いのだろう。
「…場所が、わからない」
喉から出た声も、想像以上に弱々しい。
入学したばかりのこの高校は、郊外のさらに奥まった場所にあり普通の高校の校舎ならば二校分建てられるほどの敷地を有している。校舎は広く、しかも北校舎と南校舎に分かれていて構造も複雑だった。校舎案内されていない新入生には教室の位置はさっぱりわからない。蒼人のクラスは明日の午前中に校舎案内の予定が入っていた。
「私、知ってるから行く?」
唯華は当たり前のように言った。
あなたは天使ですか。
蒼人は泣き出しそうな気持ちで頷いた。
知らない人でも優しくしてくれる。そういう人もいる。こんな自分にも優しくしてくれる人がいる。
唯華が保健室に連れて行ってくれることになったので、立ち上がろうとしたら頭痛とめまいが一気に押し寄せてきた。立ち上がれずに机の上に潰れてしまう。
「立てないくらいなの?」
佳奈子が横から言った。
「…おんぶしようか」
唯華の口調はかなり真剣だったが、それを聞いて蒼人は根性で立ち上がった。そのときの蒼人は三年生の今よりもだいぶ背が低く、顔立ちも手伝ってよく女の子に間違えられることがコンプレックスだった。いくらチビとはいえ女の子に、女の子におんぶされて保健室に行くなんて情けなさすぎる。
唯華は佳奈子には自習室で待っていてもらうことにして、蒼人を保健室に連れて行ってくれた。付き添いは二人もいらないと考えたのだろう。
唯華は蒼人の手首をつかんで、歩き出す。
蒼人は触れられたことに驚いたが、彼女はとくに何かを考えてそうしたようすはない。そうしてもらわないとなんだか歩けそうになかったので、黙って手を引いてもらう。
途中、蒼人はトイレで吐いた。どうしようもなく気持ち悪くなって、我慢できなかったのだ。唯華はなにも言わずに背中をさすってくれた。トイレが使用中でなくてよかったと思う。
吐くと少し気分がすっきりした。頭痛はおさまっていないが、話すことができるくらいの元気と余裕をとりもどす。
蒼人は少し振り返って唯華に聞いた。
「どうしてこんなに優しくしてくれるの?」
なぜそんなことを聞くのかと言いたげに彼女は顔をしかめた。
「どうしてって…道に倒れてる人がいたら声をかけるでしょう」
「…うん」
「それと同じだよ。困ってる君がいたから。それだけ。当然のことだよ」
それはとても正しいことだ。だから唯華は優しいのだ。
「でも、君がなにもしなくても次に見つけた人が救急車呼んでくれるかも」
言うと、さらに彼女は顔を歪める。
「次の人が現れなかったら? 私がなにもしなかったせいで倒れてる人はそのまま死ぬかもしれない」
彼女は怒った口調で続ける。
「つまり君が言いたいのは、私がやってることはありがた迷惑だってこと?」
怒らせてしまったかと思って唯華の顔をうかがうと、軽くうつむいた彼女のしかめっ面は怒っているというよりはとまどっているようだった。
保健室に連れて行ってもらうことは蒼人が頼んだようなものなのに、案内が迷惑だともとれることを言われている。こんなことになったらきっと蒼人だってとまどうだろう。
「迷惑だなんて思ってないよ。ただ、優しい人だなってびっくりしただけ」
「…そう」
誤解はすぐに解けたようだが、唯華の表情はしばらく不機嫌なままだった。
洗面台で蒼人が口をゆすいだあと、唯華は「これ使って」と蒼人に花柄のハンカチを貸してくれ、そしてさっさと歩き出した。ブレザー越しにも華奢だとわかる背中を見ながら、今度は手を引いてくれないのかとちょっと残念に思う。女の子と手をつないだのは幼稚園生のとき以来だ。
やっとたどり着いた保健室に先生はいなかった。
「寝てたらいいよ。先生にはあとで言えばいいと思う」
「うん」
蒼人はブレザーを脱いでベッドに入った。脱いだブレザーは唯華がたたんで枕もとに置いてくれた。隙のない人だ。
「ありがとう」
「ん。君も私がどこかで倒れてたら頼んだよ」
ふっと唯華の口元が緩み、瞳に温かさが灯る。唯華はどこにでもいる、普通の女の子だ。でも、初めて見た彼女の笑顔はとても綺麗で、美しかった。蒼人は一瞬、息を詰めて彼女を見つめる。身体がだるくて仕方がないのに、心臓がドキドキと鳴って落ち着かない。唯華の言葉は皮肉っぽかったが、蒼人を励ますための冗談だろう。
ベッドから彼女を見上げて、彼女の美しさにようやく気づいた。歩いているときは唯華の背中で切りそろえた少し淡い色合いの髪が揺れるのを見ていたし、話をしたときも唯華は常にうつむき加減で蒼人はその容貌まで気にする余裕がなかった。
「じゃあ、お大事に」
彼女は蒼人のベッドの周りにカーテンを引くと、さっさと出て行こうとする。
名前も知らない女の子。
優しく手を引き、微笑んでくれた。
「あ、あのっ!」
勢いよく起き上がるとめまいが再来してぶっ倒れそうになったが、なんとかこらえる。
彼女が振り返った。
「名前、教えて」
蒼人の体調を考えてか、さしてこだわりはないのか、彼女は先に名乗れなんて野暮なことは言わなかった。
「小野寺唯華、です」
カーテンの外に出て行く瞬間、彼女の横顔がちらりと見えたが、もう笑っていなかった。
オノデラユイカ。
眠りに落ちるまで、呪文のように呟いた。手の中に残ったハンカチをぎゅうっとにぎる。
次の日から彼女とのささやかな交流を、期待したけどなにもなかった。
廊下ですれ違うことがあっても唯華は目も合わせてくれない。彼女はうつむいて早足で歩くため、蒼人に気づかないのだ。目立つ顔立ちなのですぐに気づいてもらえるだろうと思っていたが、甘い考えだった。
さらに一年生の夏休みに制服を買いなおしするほど背が伸びて蒼人の顔は唯華の視界に入れなくなった。
蒼人はいつも唯華を振り返るのに、彼女が蒼人を振り返ることは一度もなかった。
おかげでいまだにあの時のお礼が言えていない。その機会はとっくになくしている。恩着せがましくないところは彼女の長所なのだろうが、一度も目を合わせてくれないのは寂しかった。
「なんだか、おまえ唯華ちゃんに恋してるみたいだな」
ある時、昼食中に親友の聡一郎が言った。そのせいで蒼人は大いにむせた。
聡一郎はいつも蒼人とつるんでいるから、廊下ですれ違うたびに唯華を振り返り、集会で彼女を見つけるとつい目で追ってしまう蒼人に気づくのだ。
「恋なんかじゃ…」
これはどっちかっていうと憧れ。聡一郎にはそう言っておいた。
だが。
いつ見てもうつむいて少し不機嫌そうな表情をしている唯華。みんなは彼女がそんな顔しかしないと思っている。蒼人はその優しい笑顔を見たことがあるだけに、諦めきれない。
もう一度笑って。
みんなに見せなくてもいいから。
俺だけでいいから。
俺だけに、笑って見せて。
……完璧にビョーキだ。
「神田!」
「はいっ!」
でかい声で名前を呼ばれて、物思いにふけっていた蒼人は現実に引き戻された。そうだ、今は数学の授業中。鈴木先生は目を怒らせて睨んでくる。
「お前は何回名前呼ばせたら気が済むんだ」
「あ、す、すいません」
「いいから、お前のとこの問いの答えは?」
「え? …はっ!」
鈴木先生の顔を見て、三年生の春から使っている総復習用の数学ドリルを見下ろして、蒼人は固まった。真面目にノートを取ってはいたが、今日当たるところは授業中にやろうとしていたのでそこのページはなにも書き込んでいない。真っ白でキレイだ。
「お前、自分の当たるところはわかってんだからやってこいよ」
鈴木先生は呆れ顔だ。
「周りの奴、誰か助けてやれ」
そっとうかがうと、周りのクラスメイトからすまなそうに顔を背けられた。みんな自分の当たっているところを解いてくればいいという考えなので、他の人の担当のところなどやってはこないのだ。
最後の頼みで、前の席に座る唯華の肩をつついてみた。彼女は呆れたような表情で振り返り、なにも言わずにドリルを渡してくれた。
あぁ、こんな理由で振り返ってほしいわけじゃないのに。
唯華のドリルは今日の授業の分はすべて解かれていた。ところどころ赤ペンでチェックが入っている。授業で解説される前に自分で答え合わせまでしているとは。つくづく完璧な人だ。蒼人は唯華のドリルの中から担当の問いの答えを鈴木先生に報告する。
丸っこい文字がなかなか可愛いなと思いながら「ありがとう」と小声でお礼を言い、唯華にドリルを返した。
なんとも情けなくて、蒼人は深く肩を落とした。
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